第5話 episode.2 アメリカドルの仕事(2)


 報道陣が常駐しているブコバル・ホテルのロビーには、噂には聞いていたが、さまざまな国からの人間がやってきていた。

 ルカが話せるのは英語とクロアチア語だけだが、イタリア語やドイツ語やフランス語も聞こえてくる。


 さほど広くないロビーにたむろする、たくさんの外国人の顔を見渡して、いったいこのうちの誰が、面接の約束を取りつけたGBNのエドワード・パーカーだろうか、とルカは考えあぐねた。


 十時半にこのホテルのロビーで、という約束しか、聞いていなかった。

 この雑多な外国人たちの群れを目の前にしてしまうと、誰に話しかけていいものやら皆目わからない。


 と、そのときだった。


 一人の若い白人の男が、ルカの視界をつっきろうとした。


 短く切り揃えられたチョコレート色の髪と、清潔そうな頬がまず目についた。

 ブラウンの瞳と、人目をひくほど整った顔立ち。

 足早に歩いていた彼が、ふと、何かに足を止めた。


 ざわめいたロビーの中で、彼の周りだけ、埃っぽい空気が切り取られているようだった。その場所に、彼はあざやかにたたずんで、ルカの視線を引き寄せた。


 背は高いが、白い半袖のシャツに包まれた体は、華奢と言ってもいいくらいほっそりしている。

 立ち止まった彼の、背筋が綺麗に伸びている。頭をすんなりともたげて、彼はその視線で、まっすぐどこかを見すえていて、まるで――


 まるで、春、やわらかな緑の新芽を芽吹かせたばかりの、若い樹木が立っているようだ。……


……何を考えているんだ、俺は。


 何か、とても美しいものを目にしたような気がして、しばらくぼんやり彼を見つめてしまってから、慌ててルカは自分を取り戻す。

 その若い男が胸からぶら下げているIDカードに、GBNと記されたロゴと、ユニオンジャックを認めたからだ。


 彼だ。

 彼が、エドワード・パーカーだ。


 ルカはその若い男に歩み寄った。近づいた自分の気配と視線を感じて、相手が自分のほうに顔を向けた。

 そのまま彼は、何かを待つように無言でルカを見つめる。


 握手のために手を差し出したら、鼓動が速くなった。

 ──どうしたんだ? 柄にもなく、どうして俺は、どきどきしたりしているのか?


 まあ、仕方がない。彼に与える第一印象で、この仕事が貰えるかどうか、もしかしたら決まってしまうのだ、と思えば、誰だって緊張するさ。


 心の中でそう呟きながら、ルカは精一杯、笑顔を作ってみせた。


 Excuse me, sir, you must be Mr.Parker, I suppose.

 そうルカが話しかけると、相手はぱっと笑顔になった。ルカが差し出した手を握る。

 彼はしなやかな手のひらをしていた。


「ええ、僕がエドワード・パーカーです。初めまして、ええと……では、あなたが──?」

「ルカ・ミリッチと言います。十時半に、ここで、あなたとお会いする約束でした」

 ルカがそう答えると、エドは笑みを深くした。

 温かい笑顔をしている。見るものの心を溶かしていくように、やわらかな。


「よく僕がわかりましたね? まあ、どこかに座りましょう」

 そう言いながら、エドはルカの先に立って空席のソファを探して歩いた。


 二十二か、三歳くらいだろうか? ルカは心の中ですばやく考えをめぐらせる。予期していたより、とても若い。

 

 警戒心の浮かんでいないなめらかな彼の頬を見ていると、おそらく自分より何歳かは年下だろうと思った。世慣れない純粋さが彼にはある。こんなに若い男が、俺を雇うかどうかの決定権を手中にしているというのだろうか?


 二人分の空席を見つけたエドは、座ってください、とルカにソファの片側を指し示して、自分もそのソファに腰を下ろした。


「あなたのIDに、ユニオンジャックとGBNのロゴマークが見えたので。それで声をかけたんですよ」

 センテンスの最後に「sir」をつけてルカがそう言うと、エドは少し困ったように笑った。


「いや、その、『サー』っていうの、なしにしてくれていいですよ。履歴書を見せてもらいましたけど、僕はあなたより一つ年上なだけだ」


 その言葉を耳にして、ルカはやや驚いた。

 俺より一つ年上? ということは、今年二十六歳になるという計算になるけれど。てっきり彼は、自分より年下だと思ったのだが。


 それと、もう一つ気づいたことがある。この男の英語は、明らかにイギリス人のものではない。母音が開放的で、子音のtがなめらかに崩れる。アメリカ英語のアクセントだ。


「とても綺麗なイギリス英語を話すんですね? 僕よりもうまいくらいだ」

 エドはルカの英語を評して、そんな軽口をたたいた。


「僕は、大学のときに二年間、イギリスで教育を受けていましたから、そのせいです。あなたは、アメリカの方ですね、ミスター・パーカー?」


 ルカがそう言うと、エドは、少し目を伏せて笑った。

「そう、僕はアメリカ人。……やっぱり話し方でわかるのかな」


 エドが笑うと、綺麗な白い歯並びが唇からこぼれた。


 ……彼の茶色の瞳には、自分はどんな人物として映っているのだろう? 現地ガイドとして、俺は及第だろうか?


「今回、GBNのクルーは僕を含めて四人で来ています。GBN所属のポール・エヴァンスとクレア・アボット。この二人はイギリス人で、僕の上役にあたっている。それと、今回だけ特別に、もう一人、日系アメリカ人のカメラマンが同行しています。ええと、ロバート・オカザキっていうんだけど」


「え? 『あの』ロバート・T・オカザキ?」

 思わず、鸚鵡返しにその高名なカメラマンの名前を口にすると、エドはにっこりした。


「そう。『あの』ロバート・T・オカザキ。──だけど、よくご存知だ。もちろん彼は有名人だけれど、クロアチアまでその名前が轟いているなんて、僕は知らなかったな」


 エドがそう言ったので、ルカは自分から言葉を続けた。

「それは、僕の専攻分野がアートだからですよ、ミスター・パーカー。僕が主にやっているのは油彩だけれど、留学時代の友人には、写真を専門にしていた人間も多い。彼らの間では、ロバート・オカザキの名前は、神のように語られていましたから」


 ルカがそう言うと、エドは少しおかしそうに笑った。


「神のように、か。それはいい。確かに彼は、一種の天才ですからね。ああいう写真は、神様か、ロバート・オカザキにしか撮れない」


 そう言いながら、ほがらかに笑うエドを見て、ルカの胸に一つの感慨が去来した。

 自分は、こんなふうに、声を立てて笑う人間を、すごく久しぶりに見た気がする。


 彼の周囲では、幼いダニエラだけが声を立てて笑う人間だった。ブコバルの街がこんなふうになってしまってから、屈託なく声をあげて笑うという行為を、みんなが忘れてしまったような気がする。……


「あなたのことを訊いてもいいですか、ミスター・ミリッチ? 前職は何をしていたんですか?」


 それらのことは履歴書に書いておいたはずなのに、エドはそんなふうに尋ねた。話をさせることで、どれだけちゃんと英語が話せるのかを見ようとしているのかもしれない。


「セルビアのノビサドで、公立学校の美術教師をしていました。でも、戦局がこんなふうになってしまったとたん、あっという間に公職追放ですよ。クロアチア人の僕が、あのままノビサドにとどまることは不可能で、生まれ育ったブコバルに戻りました。ほとんど着の身着のまま、持ってこられたのは、トランク一つ分の荷物だけです」


「じゃあ、通訳だとかガイドだとか、その類の仕事をしたことはないんですね?」

「その経験はありません。ですが、車も運転できますし、このあたりの育ちですから、地理も飲み込んでいますし……」


「──単刀直入に訊くけれど、どうしてきみは、この仕事が欲しいの?」


 ルカの言葉がまだ途中であったにも関わらず、それを乱暴にさえぎって、エドが尋ねた。


 それまでの丁寧さを脱ぎ捨てた、ルカの心に切り込むような口調とまなざし。


 どう答えようか。

 報道の仕事に興味があるとか、適当な答えを見繕って口にすることも、むろんできる。


「僕がこの仕事が欲しい理由は」

けれど、ルカは、真実を話すことを選んだ。


「僕にとって、この仕事がどうしても必要なのは、手っ取り早く、アメリカドルを稼ぎたいからです、ミスター・パーカー。──一ヶ月前、幼い娘を残して姉の夫が亡くなった。彼はバスドライバーをしていました。いつもと同じように出勤して、普段どおりに仕事をして……その仕事中に、市街地で銃撃戦にまきこまれたんです。そして彼は、帰らない人になった」


 戦局が厳しくなる前に、姉と姪のダニエラと三人で、クロアチアを出て、もっと安全な地域に移りたい。そのためにはどうしても、金が必要だ。たった二ヶ月間で、こんなにいい報酬の得られる仕事、それもアメリカドルで支払われる仕事は、他ではありつけない。


 夫を突然失った姉の悲しみ。家に閉じ込められて、聞き分けなく泣きじゃくる小さな姪っ子。


 ダニエラはまだ、たったの四歳なのに。できることなら、父親に会えなくなってしまったあの子を、僕は思う存分、甘やかしてやりたい。ここよりもっと、安全な場所で。空襲警報や、塹壕や、銃撃や、そういうものを考えなくてすむような場所で。


 ルカがそこで言葉を切ると、エドは、黙ってルカを見つめた。

 エドの唇は、笑みの形を保ってはいるが、目までは笑っていない。不自然なほどの沈黙を保ったまま、彼は、ルカを凝視した。


 どう言葉を返していいのかわからずに、ルカも黙って、エドを見つめ返した。


 そう、だから俺は、この仕事がどうしても、欲しいんだ。お願いだから、チャンスを与えてくれないか?


 そんなふうに、心の中で祈りながら、ルカはエドを見ていた。……


「オーケイ、わかりました」

 しばらくのちに、エドはそう答えた。


「最終的には、僕の上役が会って決めるんだけれど、この仕事、僕はきみが最も適任だと思う。──今、彼を呼んでくるから、ここで待っててもらえる? それと、仕事は、今日の午後、すぐにでも始めてもらいたいんだけれど、それでもいいかな?」


 その言葉を聞いて、ルカははじかれたように、エドに向かって手を差し出した。握手のためだ。


「ありがとう。何と言って感謝したらいいのか、わからないけれど、僕はとても──」

「僕の上役が会って、最終的に決めるんだから、礼を言うにはまだ早すぎるタイミングだよ」

 エドは笑った。そしてルカが差し出した手を握り返した。


「でも、この仕事、僕はきみがふさわしいと思う。……あ、それから」

 彼は思い出したようにつけ加えた。

「僕のことは、エドと呼んでくれればいいから。ええと、きみの名前は、ルカと発音すればいいのかな。そう呼んでいい?」

「それで構いません」

 ルカがそう答えると、エドは微笑んだ。


「じゃあ、ルカ。僕がこれから連れてくる上司は、ポール・エヴァンスっていうんだ。言葉使いはぞんざいだし、見かけはいい加減な人に見えるかもしれないけど、ポールは、ちゃんとした人だから」


 だから、きっと彼は、きみを気に入るはずだよ、ルカ。


 そう言い置いて、この若いアメリカ人は、ソファから立ち上がった。


 ロビーを出て行く、すらりと伸びた背中は、やはりルカに春の樹木を連想させた。

 みずみずしい生命を体の中にたたえた、美しい一本の樹木のようだった。

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