第4話 episode.2 アメリカドルの仕事(1)


 幼い女の子の笑いさざめく声で、ルカの眠りが破られた。

 毛布が足元の方からめくられ、まだベッドの中で眠りをむさぼろうとする彼の足裏を、小さな指がいたずらしていく。


──ルカ! ルカ! 朝よう、起・き・て・よう!

歌うように節をつけた細い声が、彼の名前を呼ぶ。


「うーん、誰だよ……」

 わざと不機嫌そうな声を出して、枕につっぷしたルカに、小さな姪っ子は、もう一度楽しげな笑い声をあげた。

 

 気がつくと、寝室の中には、もう明るい夏の朝の光が差し込んでいた。母親に頼まれたダニエラが、ルカを起こしに来たのだろう。


「ママがねーえ、お寝坊な叔父ちゃんを、くすぐっちゃえって!」

 四歳の誕生日を迎えたばかりのダニエラが、やや舌足らずなクロアチア語で言った。

 そう言いながら彼女はルカの足指をくすぐるので、彼は、叔父の義務として、大仰にくすぐったがってみせた。


「わかった、わかった! もう起きるから! 降参だよ、ダニエラ」

 ルカはベッドの上に起き上がると、小さなダニエラを抱き寄せた。ぷっくりとした白い頬に、派手な音をたててキスしてやる。母親譲りの明るい茶色の瞳に、父親譲りの栗色のくるくる巻き毛。その姿を、この世で最も愛しい命として、ルカは見つめる。


 ダニエラにこの髪を授けた父親は、一ヶ月前に、セルビア人の狙撃手に撃たれて、もうこの世からあっけなくいなくなってしまったのだけれど。


 黄色いリボンで可愛らしく結いあげたその栗色の巻き毛を見るたび、ルカは姉の夫だった人物を思い出す。おだやかな緑色の目をしていた義兄もまた、栗色の、特徴的なカーリーヘアーをしていたのだ。


 ダニエラを抱き上げてキッチンへ行くと、姉のマリヤが朝食の支度で忙しそうにしていた。

「また断水しているのよ、ルカ」

マリヤはルカを見上げると、そうため息をついてみせた。


「またか? 今週もう二回目だな」

 姉の言うところの意味を理解してルカはそう言い、手早く服を身につけ始めた。床の上に置かれた白いポリタンクは、もうほとんど空っぽだ。給水所まで、彼が水を汲みに行かなければならないのだ。


「四つ、同時に持っていける? 三つでもいいのよ」

 マリヤが心配そうに尋ねた。


「四つくらい、軽いよ。五個でも大丈夫さ」

 行きには空でも、帰りには水を溜めたポリタンクを持ち帰らなければならない。満水になったタンクはことのほか重く、運の悪いときにはそれを抱えて走って逃げなければならない。姉の心配も、もっともなのだ。


「ルカ、お外へ行くの? あたしも行く、行くう」

 外出の支度を始めたルカを、敏感に見て取ったダニエラが、今にも泣き出しそうな顔で言った。無理もない、この小さな姪っ子は、ほとんど家から外に出してもらえないのだ。

 我慢ばかりさせられている幼い子が、こんなふうに駄々をこねるとき、ルカの胸はしめつけられるような気がした。


「ごめん、ダニエラはどうしても連れていけないんだ、ごめんね」

「イヤ、イヤ、あたしも行くの!」

 小さなダニエラはもう泣きじゃくり始めている。


「ごめんね、ダニエラ。ほら、ダニエラが泣くと、ママが困ってしまうよ」

「いや、ルカ、あたしも行く、行きたい!」


 ルカに取りすがろうとする小さな娘の体を、マリヤが無理やり抱き上げる。なおも暴れようとするダニエラを抱きしめながら、マリヤは、ルカに目顔で、もう行きなさい、と指示する。


 ここでぐずぐずしていると、駄々をこねるダニエラを持て余して姉が困ってしまう。ルカはポリタンクを手にして、そのまま背を向けて家を出た。


 意志の強そうなルカの顔立ちは、一目でそれとわかる、スラヴ系の男性の特徴を備えている。硬い黒髪が額にかかり、高い鼻梁とがっしりした頬骨は、芯の太い鉛筆で乱暴にスケッチしたようだ。そして、その荒々しさを裏切るように、黒い眉の下には、思いがけないほど淡い色をした瞳がある。


 ブコバルに満ちる、七月の朝の日ざしは穏やかだった。けれど、その日差しが照らすのは、無残に倒壊した家屋や砲火で焦がされた石壁だ。

 鳥のさえずる声と共に、どこかで銃の音がする。その音が充分に遠いことを確認しながら、ポリタンクを抱えてルカは早足で歩いた。


 夫を失った姉が、四歳になったばかりの幼い娘を抱えて一人で生活するのは、今のブコバルでは不可能だと思う。こんなふうに水を汲みに行くのさえ、ダニエラがいては、姉一人では無理だ。


 戦争でユーゴスラヴィアがこんなふうになってしまうまで、ルカが住んでいたのは、セルビア領のノビサドだった。そこで公立学校の美術教師をしていたのだ。


 しかし、クロアチアでセルビア人の排斥運動が起きると同時に、クロアチア人のルカもまた、セルビアでの公職追放にあった。民間人も着々と武装し始めたセルビアで、クロアチア人の彼がそのままノビサドに留まるのは不可能だった。


 ほとんどトランク一つでノビサドを出て、生まれ育ったブコバルで、結婚していた姉のところに身を寄せた。新しく住む場所を見つけるまで、ほんの短期間、厄介になるだけのつもりだったのに、機を同じくするようにして義兄が死んでしまったのだ。


 小さな娘を抱えて、夫に死なれた姉の生活が落ち着くまで、手助けをしようとこの家に残ったのだが、今やルカは、ダニエラとマリヤにとって、なくてはならない存在になってしまっている。

 生活の担い手としてだけではない。父が死んだことの意味をよくわかっていない幼いダニエラは、父へ注いでいた愛情を、そのままこの若い叔父にぶつけているのだ。


 給水所にはいつものように人だかりがしていた。周囲の家も断水しているのだろう。

 急いでポリタンクを満たし終えると、ルカは来た道を歩いて戻りはじめた。


 GBNというイギリスの報道機関が、車の運転と英語のできる男を探しているという情報を耳にしたのは、一昨日のことだった。ルカがイギリスに留学していたことを知っている友人が、わざわざ伝えにきてくれたのだ。


 報酬は週給で、アメリカドルで支払われるというのも魅力的だった。国連の許可証の範囲内で動く、一応は中立の立場を守る報道グループと一緒に行動するのは、比較的安全な仕事だと言っていい。


 何としてでもこの仕事を手に入れたい。そして、手っ取り早くアメリカドルを稼いだら――そうしたら。


 三人でブコバルを出ようと、ルカは思っていた。


 セルビアとの国境近くのこの街に残るのは、もう限界だった。彼らには幼いダニエラがいるのだ。この三人で、ブコバルの厳しい冬を乗り越えられるとは、ルカにはとうてい思えなかった。


 あまり戦局の厳しくならないうちにクロアチアを出て、先に独立を果たした、スロヴェニアに行こう。首都リュブリャナなら、クロアチア語もかなり通じるだろう。スロヴェニア語があまりできない自分にも、仕事があるのではないか。

 とにかく、もっと安全な場所へ行かなくては。泣きじゃくるダニエラを、家に閉じ込めたままにしなければならない街は、もうたくさんだ。


 ルカが家に戻ると、母親に言い含められたらしいダニエラが、おとなしく積み木遊びをしていた。ポリタンクを家の中に運びながら、戻ったよ、と涙の残る顔のダニエラに話しかける。自分をとうとう外へ連れて行ってくれなかったこの叔父に、彼女はぷいっとふくれっつらをしてみせた。


「ルカ、ブコバル・ホテルでの面接は、何時の約束だった?」

 朝食のテーブルについたルカに、マリヤがそう尋ねた。

 ルカが汲んできた水を、大切そうに小さな鍋に移している。重い水を運んできたルカのために、トルココーヒーを淹れてくれようとしているらしい。もうコーヒーは貴重品になりつつあるのだけれど。


「十時半に先方と会うことになっている。昨日、彼らはザグレブ経由でこの街に到着したって話だよ。……でもね、マリヤ、まだこの仕事を貰えると決まったわけじゃないんだ。アメリカドルでの報酬は魅力的だから、志願者はきっとたくさんいるだろうし」

「ルカならきっと大丈夫よ。あなたの英語ならね」

 姉は少し笑ってそう請けあった。


「何か着ていけそうなまともな服、あるかな? 相手はイギリス人だからね。少なくとも、格好だけでもちゃんとしていこうとは思うんだけど」

 姉が切ってくれたパンをかじりながらルカが尋ねた。


「ああ、マルコのものでよかったら、ジャケットと、それからネクタイもあるわ」

 マリヤは、死んだ夫の名前を口にした。

 彼の死から一ヶ月たった今でも、まだ彼が帰ってこないのは、奇妙な気がする。


 普段と同じように仕事に出た義兄の命は、もう永遠に帰ってはこないというのに、彼の服は、無傷なまま、そっくりこの家に残されている。そのことに、マリヤもルカも、まだ慣れることができないのだ。


「──俺が着てもいいの、マリヤ?」

 姉の目を涙で潤ませてしまった気がして、ルカはできるだけ優しい声で言った。


「いいわよ、もちろん。ここに置いておいたって、誰が着るってわけでもないんだから」

 涙でかすれてしまった声を隠すように、マリヤはぞんざいな口調で言った。


「それよりルカは、背が大きいからねえ。マルコの服で、丈が合うかしら?」

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