第3話 episode.1 ブコバル(2)

 ようやくパスポートと報道許可証が返された。クレアとオカザキが車に乗り込む。


「エド、運転、俺が代わってやろうか? 朝からずっとお前にハンドルを握ってもらってるからな。疲れたろ?」

 運転席に戻ろうとするエドに、ポールは親切にそう言ってくれた。


「いえ、まだ平気です。右車線の運転には、慣れていますから」

「そうか、お前はアメリカ人だったなァ」

 ポールは少し笑って、名残惜しそうに煙草を深々と一服すると、地面に落として踏み消した。


「ポール」

 バンに乗り込んだオカザキが、久々に口をひらいた。

「GBNは、現地の通訳を用意してるってことだったけど、その彼とはどこで会うことになってる? 僕はてっきり、ザグレブから通訳が同行すると思っていたんだが」


「ああ、本来なら、その予定だった。以前、GBNが使っていたクロアチア人の男とザグレブで落ち合うことになってたんだよ」

 ポールがオカザキに取りなすように言った。

「けど、そいつが駄目になったんだ」


「駄目になった?」

 オカザキが怪訝そうに問い返した。

「……一週間前にザグレブ近郊で銃撃戦があったでしょう?」

 クレアが答えた。


「民間人にも死傷者が出た、例のセルビア軍の狙撃ね。そのときの犠牲者になってしまったのよ。コヴァチっていう、まだ三十歳前の若い男だったんだけどね」

 クレアはそこで、小さな咳払いをした。淡々と言葉を続けるためには、その必要があったらしい。


 彼女は、その通訳と一緒に仕事をしたことがあるのだろう。この四人の中で、クレアだけは、昨年五月に、クロアチアの首都ザグレブに一ヶ月滞在した経験があった。


「彼が亡くなったって、はっきりGBNのほうに伝わったのが、四日前のことなのよ」

 クレアがため息をつくようにそう答えた。

 

 エドにとっては、このブコバルでの取材が、クレア・アボットと一緒に組む最初の仕事だった。GBN国際部のリポーターである彼女は、ポールとは長いつきあいであるらしい。


 豊かな褐色の髪と、かっちりとした二重の、完璧なブルーアイズ。その美しさと魅力を充分に自覚して、少なからず自分の武器にしている女性だ。


「それで、後任の通訳を、そんなにすぐには見つけられなくってさ。ブコバルのほうで、英語のできるクロアチア人を、何人か探しておいてもらってある。アメリカドルで支払われる仕事だから、志望者はたくさんいるっていう話だぜ。けどなァ、ちゃんと使い物になるのが、見つかるかどうか」

 ポールはそんなふうに言葉を続けた。


「エド、明日、通訳の候補者たちと会って、採用者を絞り込んでくれよ」

「え、僕が、ですか?」

 運転しながら三人の会話を聞くともなしに聞いていたエドは、いきなりポールに話を振られて、驚いた声で答えた。


「俺たちが滞在することになっている、ブコバル・ホテルに、履歴書か紹介状が届いているはずなんだ。それに目を通したら、お前が、候補者に連絡をつけて会ってみろ。絞り込んでくれた時点で、俺が会って、最終的に決めるから」

 ポールがそう言うと、クレアが、鼻を鳴らすような笑い方をした。


「エド、現地のガイドってね、取材の成果の良し悪しをかなり左右するのよ」

 彼女の声には、年下のエドをからかうような響きがあった。

「ちゃんとした人間をガイドに見つけられるかどうかで、これからの二ヶ月間の滞在の成否が決まるっていう部分もあるくらいだわ。どんな人間か、よくよく見定めておくことね」

 クレアがそう続けた。


「ガイドの採用条件って、何でしょうか? 英語力ですか?」

 エドがそう問うと、後部座席の彼女は、そうねえ、と呟いた。

「実のところ、英語はそんなにフルーエントでなくっても構わないのよ。私たちと正確に意思の疎通ができるレベルであれば、多少たどたどしくっても、まずは及第ね」

 クレアがそう言うと、ポールが後を引き継ぐようにして言った。


「そう、こういう状況においては、英語がいかに流暢に話せるかって言うのは、あんまり問題にならんな。俺たちとちゃんとコミュニケーションができれば、それでOKなんだ。英語力よりもむしろ、若くて丈夫な奴がいい。逃げ足か腕っぷしの、どっちかに自信があるような男」


 逃げ足か、腕っぷし、ね……エドは心の中でそのポールの言葉を反芻する。

 このクルーに新米の自分を抜擢してくれたのは上司のポールだけれど、「逃げ足」と「腕っぷし」の、どちらで自分は選ばれたのだろうか?

 ……「腕っぷし」とは、自分でも思えない。おそらく、「逃げ足」の方を買われたんだろうね、僕は。


「ロバートは? 通訳の条件として、何をあげる?」

 ポールが後部座席を振り返って、黙ったままのオカザキをうながすように尋ねた。


「僕の考えか?」

 オカザキはそう言うと、少し考えあぐねたように、沈黙した。

「僕だったら──そうだな、自分に誇りを持っている奴がいいな」

 沈黙の後のオカザキの答えは、アフォリズムのように抽象的だった。


「自分に誇り? ……それはどうして?」

 ポールが尋ね返す。

「自分に誇りを持っている奴は、基本的に、汚い真似をしないから。生きるか、死ぬかの局面に遭遇したとき、一緒に行動する人間を、とっさに信用しなきゃならないときがある。そういうときに、汚いことをする奴だと困る」

 オカザキは静かな声でそう続けた。


 彼の答えで、四人の上にしばし沈黙が舞い降りた。

 生きるか、死ぬかの局面。

 これから向かう、ドナウ川岸の豊かな商業都市ブコバルは、今やそんな場所なのだ。


「ま、とにかく」

 車内にたちこめた沈黙をふりはらうように、ポールが言った。

「ガイドはじっくり考えて選びたいところだけど、なるべく早く決めて、すぐに行動に移らなくちゃならない。エド、候補者を絞るところまででいいから、頼んだぜ?」

「わかりました」

 一応はそう答えたものの、エドの声は不安定にかすれた。


「大丈夫、あなたならできるわよ、エド」

 後部座席から、クレアの笑いを含んだ声がかけられた。


「実を言うとね。ポールがこのクルーに、エドを連れて行くと言い出したときには、どうしてこんな経験のないボクを連れて行くのかしらと思ったものだけど」

 そう言って、クレアは、うふふふとおかしそうに笑った。

「今ならポールの意図がわかるわ。あなた、見かけは頼りないけれど、案外、ものをちゃんと見て、正確に判断している人ね」

 クレアはそんなことを言った。


 戦争の街へ、ジャーナリストたちは集まる。爆撃と流血は、いつだって、最もバリューのあるニュースになるからだ。


 けれど、今から二ヶ月後のブコバルが、第二次大戦後のヨーロッパで、最も短期間のうちに、最も大量の人間が殺される街になろうとは、このとき、この四人のうちの誰もが予想だにしていなかった。

 

 一九九一年の夏が終わる頃、ブコバルは死の街になるのだ。

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