星狩琉馬との縁談が破談になった後、光里はこれからどうするかを考えねばならなかった。

 袖にした相手が同じ場所にいるなど心中複雑だろうし、光里自身、気まずいということもあって、道場通いはやめてしまった。

 跡取り息子は琉馬なのだから、身を引くのはこちらだろう。それだけの分別は、いかな光里であろうとも持ち合わせていた。なに、槍の鍛錬は家の庭でも充分できる。


 ――さて、これからどうするか。


 縁側を行ったり来たりうろついて悩んでいると、見かねた母が茶を持ってきてくれた。


「光里、ひと息入れなさいな」

「母さん」


 母と共に腰かけると、差し出してくれた湯呑みを受け取る。


「ありがとう」


 熱いお茶にふーふー息を吹きかけて冷ましながら、光里はそっと母を盗み見た。

 そういえば、琉馬との縁談に乗り気であったのは父であり、母はこれといって特になにも言ってはいなかった。ただ、「光里のしたいようにしなさい」と言っただけである。


「母さん」

「なあに?」

「母さんは、琉馬との縁談、どう思ってたの?」

「特になにも。光里が納得していないようなら反対したけど、そうじゃなかったんでしょ」

「まあ……」


 別に、琉馬に対して恋をしていたわけではないにしても、槍を続けていくひとつの手段だとは思った。

「夫婦になることはできない」と面と向かって言われた時は、さすがに複雑な気持ちだったが、だからといって琉馬が嫌いになったわけでもない。

 それだけの想いしかなかったといえば、そうだ。


「私は琉馬と夫婦になりたかったわけじゃなくて、槍を続けたいだけだったのか……」


 言葉にしてみれば、なんとも現金な話である。母は光里の心を見透かしたかのように言った。


「誰かと一緒になるのに、色恋が必ず必要ということはないわよ。自分と相手が納得していればね」

「そういうものか……。私にはちと難しい」

「あなたは単純だから。それがあなたの良い所でもあるし、悪い所でもあるわ」


 母は涼しい顔で茶を飲んだ。


「光里は槍を続けていきたいのね」

「うん。どうしたらいいかな?」

「どうすればいいかしらね」


 母は時折こういった返しをする。どこか人を食ったようなところがあり、何十年と連れ添った父も、時々たじろぐことがある。


「父さんはなにか言ってる?」

「特になにも。次の縁談を探してるわ」

「あー……」

「これを機に、あなたが槍から遠ざかることに期待しているみたいね」

「……」


 父は昔から、光里の槍狂いに難色を示していた。いつも母が間に入って執り成してくれていたが、やはり女が武道の道に勤しむのは許せないのだろうか。

 そう呟くと、あっさり母が教えてくれた。


「秦野家にひとりだけ、武道を志した人がいるのよ。父さんの叔父さん」

「えっ」


 秦野家は村が【日ノ元市】になって以来、代々役人の任に就いてきた役人一族である。そんな風に我が道を行った人がいるなんて、初耳だ。


「秦野家にとっては鼻摘まみ者だったらしくてね、あまり話題に出さないようにしているのよ」


 その人は剣の道を志したらしく、親兄弟がいさめるのも聞かず、熱心に鍛錬に打ち込んだ。

 実際強かったらしく、加えて本人もなかなかに豪快で快活な人柄だったようで、秦野家では肩身が狭かったが、仲間は多くいたという。


「光里が槍を始めた時、秦野家ではひと騒動だったらしいわよ。その人と同じ道に行くんじゃないかって」

「あー……。で、その叔父さんは、今?」

「好きが高じて、武者修行がてら諸国行脚の旅に出たらしいわ。ほとんど縁は切れたようなものね」

「いいなぁ、武者修行かぁ」

「父さんは、あなたが叔父さんのようになるんじゃないかと、心配しているのよ」

「ははあ」


 幼い頃からの父の態度に、これで説明がついた。光里は長年の疑問が解けすっきりしたが……、しかしである。


「なんで今まで教えてくれなかったのさ」

「だって聞かれなかったんだもの」

「……」


 まったくこれである。母は涼しい顔で茶を飲んだ。

 光里も慣れたもので、話を続けた。


「母さんは、私が槍に打ち込むのを反対したことないよね。どうして?」

「父さんが光里をみる時は、どうしても秦野家の目線が入るけど、母さんには関係無いわ。それに私は、あなたも知っての通り身体が強くないから、したくてもできないことが多かったのよ。だから光里には、己のしたい事をして欲しいの」

「ふーん」


 ちょっと照れる。光里は気恥ずかしくなって、頬を掻いた。

 母は湯呑みの中の茶を覗き込んだ。


「それに、【役人街】から出ないのは賛成できなかったのよ。偏った世間ばかり知って、それをすべてだと思って欲しくなかったの。道場に通えば、いろんな所から通ってくる門下生たちと関わりができるでしょ。そうなれば、自然と足を運ぶ場所も増えるだろうし、あなたの世間知が広がると思ったのよ」


 たしかに母の言う通り、稽古終わりにみんなで団子を食べに行ったりと、【役人街】の外で活動することは多かった。【役人街】で育った子どもの中では、外に出る機会が一番多かったかもしれない。

 光里は母がそんな事を考えていたなど露知らず、益々気恥ずかしくなった。話題を変えるように、一度茶を飲む。


「でも会ってみたいな、その叔父さん。……私にとっては大叔父さんか。どんな人なんだろう?」

「生きているかも分からないけど、光里と話が合うかもしれないわね。母さんも気になるわ」


 親子でふふふっと笑い合った。


「さて、光里の今後の事だけど」

「いきなりだな」

「父さんの言う事を聞いてみるのも、ありかもしれないわね」

「えっ」


 大人しく嫁に行けと。


「勘違いしないで頂戴。槍を捨てろと言っているのではないわ」

「ああ、よかった……。何事かと思った」


 では、どういう事なのだろう。母は続けた。


「昔から父さんが言っていたじゃない。〝お前も役人になるのが一番だ〟って」

「……私に、役人になれと」

「やってみるのも悪くないんじゃないかしら」

「けどなあ……」


 光里は腕を組んだ。


「私は昔から計算が苦手だし……。試験に合格するだろうか」


 それに日がな一日、机に向かい合っているのは御免である。一時もしない内に駆け回りたくなってしまう。

 母はぱしりと膝を打った。


「光里、あなた一番大事な事を忘れているわ。あなたはそもそも、槍を続けたいのでしょう?」

「そうだけど……」

「なら、槍の技術で受かればいいのよ」



 役人になる試験には二通りある。

 ひとつは読み書きや算術技能を問う筆記試験であり、もうひとつが武道の技術をはかる実技試験である。どちらか一方で合格点を出せば、役人として採用される。

 光里は霧が晴れたような心持ちになった。


「……すっかり忘れてた。そうだ、実技試験があるんだ」


 役人の仕事も様々だが、そのほとんどが内役であり、武術での採用は稀である。剣や槍、体術は嗜みではあるが、あくまでもその域を出るものではなく、読み書き算術を得意とする者が重宝される。

 よって、試験にしても比重が重いのは筆記試験の方であり、実技試験は形式的に行われている側面が強い。

 父から聞くお役目の話も内役の事ばかりであったし、すっかり失念していた。


「仕事は限られてくるけど、あなたの槍を発揮できるかもしれないわ。やるだけやってみたらいいじゃない」

「そうかぁ」


 光里は母の助言に従う形で、役人の試験を受けてみることにした。

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