十
星狩琉馬との縁談が破談になった後、光里はこれからどうするかを考えねばならなかった。
袖にした相手が同じ場所にいるなど心中複雑だろうし、光里自身、気まずいということもあって、道場通いはやめてしまった。
跡取り息子は琉馬なのだから、身を引くのはこちらだろう。それだけの分別は、いかな光里であろうとも持ち合わせていた。なに、槍の鍛錬は家の庭でも充分できる。
――さて、これからどうするか。
縁側を行ったり来たりうろついて悩んでいると、見かねた母が茶を持ってきてくれた。
「光里、ひと息入れなさいな」
「母さん」
母と共に腰かけると、差し出してくれた湯呑みを受け取る。
「ありがとう」
熱いお茶にふーふー息を吹きかけて冷ましながら、光里はそっと母を盗み見た。
そういえば、琉馬との縁談に乗り気であったのは父であり、母はこれといって特になにも言ってはいなかった。ただ、「光里のしたいようにしなさい」と言っただけである。
「母さん」
「なあに?」
「母さんは、琉馬との縁談、どう思ってたの?」
「特になにも。光里が納得していないようなら反対したけど、そうじゃなかったんでしょ」
「まあ……」
別に、琉馬に対して恋をしていたわけではないにしても、槍を続けていくひとつの手段だとは思った。
「夫婦になることはできない」と面と向かって言われた時は、さすがに複雑な気持ちだったが、だからといって琉馬が嫌いになったわけでもない。
それだけの想いしかなかったといえば、そうだ。
「私は琉馬と夫婦になりたかったわけじゃなくて、槍を続けたいだけだったのか……」
言葉にしてみれば、なんとも現金な話である。母は光里の心を見透かしたかのように言った。
「誰かと一緒になるのに、色恋が必ず必要ということはないわよ。自分と相手が納得していればね」
「そういうものか……。私にはちと難しい」
「あなたは単純だから。それがあなたの良い所でもあるし、悪い所でもあるわ」
母は涼しい顔で茶を飲んだ。
「光里は槍を続けていきたいのね」
「うん。どうしたらいいかな?」
「どうすればいいかしらね」
母は時折こういった返しをする。どこか人を食ったようなところがあり、何十年と連れ添った父も、時々たじろぐことがある。
「父さんはなにか言ってる?」
「特になにも。次の縁談を探してるわ」
「あー……」
「これを機に、あなたが槍から遠ざかることに期待しているみたいね」
「……」
父は昔から、光里の槍狂いに難色を示していた。いつも母が間に入って執り成してくれていたが、やはり女が武道の道に勤しむのは許せないのだろうか。
そう呟くと、あっさり母が教えてくれた。
「秦野家にひとりだけ、武道を志した人がいるのよ。父さんの叔父さん」
「えっ」
秦野家は村が【日ノ元市】になって以来、代々役人の任に就いてきた役人一族である。そんな風に我が道を行った人がいるなんて、初耳だ。
「秦野家にとっては鼻摘まみ者だったらしくてね、あまり話題に出さないようにしているのよ」
その人は剣の道を志したらしく、親兄弟が
実際強かったらしく、加えて本人もなかなかに豪快で快活な人柄だったようで、秦野家では肩身が狭かったが、仲間は多くいたという。
「光里が槍を始めた時、秦野家ではひと騒動だったらしいわよ。その人と同じ道に行くんじゃないかって」
「あー……。で、その叔父さんは、今?」
「好きが高じて、武者修行がてら諸国行脚の旅に出たらしいわ。ほとんど縁は切れたようなものね」
「いいなぁ、武者修行かぁ」
「父さんは、あなたが叔父さんのようになるんじゃないかと、心配しているのよ」
「ははあ」
幼い頃からの父の態度に、これで説明がついた。光里は長年の疑問が解けすっきりしたが……、しかしである。
「なんで今まで教えてくれなかったのさ」
「だって聞かれなかったんだもの」
「……」
まったくこれである。母は涼しい顔で茶を飲んだ。
光里も慣れたもので、話を続けた。
「母さんは、私が槍に打ち込むのを反対したことないよね。どうして?」
「父さんが光里をみる時は、どうしても秦野家の目線が入るけど、母さんには関係無いわ。それに私は、あなたも知っての通り身体が強くないから、したくてもできないことが多かったのよ。だから光里には、己のしたい事をして欲しいの」
「ふーん」
ちょっと照れる。光里は気恥ずかしくなって、頬を掻いた。
母は湯呑みの中の茶を覗き込んだ。
「それに、【役人街】から出ないのは賛成できなかったのよ。偏った世間ばかり知って、それをすべてだと思って欲しくなかったの。道場に通えば、いろんな所から通ってくる門下生たちと関わりができるでしょ。そうなれば、自然と足を運ぶ場所も増えるだろうし、あなたの世間知が広がると思ったのよ」
たしかに母の言う通り、稽古終わりにみんなで団子を食べに行ったりと、【役人街】の外で活動することは多かった。【役人街】で育った子どもの中では、外に出る機会が一番多かったかもしれない。
光里は母がそんな事を考えていたなど露知らず、益々気恥ずかしくなった。話題を変えるように、一度茶を飲む。
「でも会ってみたいな、その叔父さん。……私にとっては大叔父さんか。どんな人なんだろう?」
「生きているかも分からないけど、光里と話が合うかもしれないわね。母さんも気になるわ」
親子でふふふっと笑い合った。
「さて、光里の今後の事だけど」
「いきなりだな」
「父さんの言う事を聞いてみるのも、ありかもしれないわね」
「えっ」
大人しく嫁に行けと。
「勘違いしないで頂戴。槍を捨てろと言っているのではないわ」
「ああ、よかった……。何事かと思った」
では、どういう事なのだろう。母は続けた。
「昔から父さんが言っていたじゃない。〝お前も役人になるのが一番だ〟って」
「……私に、役人になれと」
「やってみるのも悪くないんじゃないかしら」
「けどなあ……」
光里は腕を組んだ。
「私は昔から計算が苦手だし……。試験に合格するだろうか」
それに日がな一日、机に向かい合っているのは御免である。一時もしない内に駆け回りたくなってしまう。
母はぱしりと膝を打った。
「光里、あなた一番大事な事を忘れているわ。あなたはそもそも、槍を続けたいのでしょう?」
「そうだけど……」
「なら、槍の技術で受かればいいのよ」
役人になる試験には二通りある。
ひとつは読み書きや算術技能を問う筆記試験であり、もうひとつが武道の技術をはかる実技試験である。どちらか一方で合格点を出せば、役人として採用される。
光里は霧が晴れたような心持ちになった。
「……すっかり忘れてた。そうだ、実技試験があるんだ」
役人の仕事も様々だが、そのほとんどが内役であり、武術での採用は稀である。剣や槍、体術は嗜みではあるが、あくまでもその域を出るものではなく、読み書き算術を得意とする者が重宝される。
よって、試験にしても比重が重いのは筆記試験の方であり、実技試験は形式的に行われている側面が強い。
父から聞くお役目の話も内役の事ばかりであったし、すっかり失念していた。
「仕事は限られてくるけど、あなたの槍を発揮できるかもしれないわ。やるだけやってみたらいいじゃない」
「そうかぁ」
光里は母の助言に従う形で、役人の試験を受けてみることにした。
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