綴葉が光里の家を訪れたのは、五日後のことであった。商いの話もそこそこに、綴葉は早速切り出した。


「光里さん、影の事なんですが」

「そうそう、待ってたんだ! で、どうだった?」


 光里は身体を前のめりにして言葉を待った。


「彼曰く……、影は遊んでいるのではないか、と」

「は?」


 光里は素っ頓狂な声を上げた。

 綴葉もその反応に納得したように頷く。知恵者だという写本師からそう聞かされた時、綴葉も似たような反応をしたのだろう。


「彼が言うには、吉さんと影は仲が良かった。笑わせたり、辛い時は励ましたりと、影は吉さんが好きなのでしょう」


 だが、影はずっと吉の下に張り付いたまま。いくら仲良しだとはいえ、生まれた瞬間からそうでは飽きるだろう。

 たまには本体の元を離れて、自由に走り回ってみたいと思っても、なんらおかしなことではあるまい。


「ですが、影は本体から離れることはできません。影とはそういうものです。いくら自由になりたくとも、自然の摂理がそれを許す筈がありません」


 だが、吉の影は機会を得た。吉が奉公先の旅籠で会ったという、変わった格好をした子どものお客人である。


「その人は、……今となってはきっと人ではなかったのでしょう、探し物を見つけてくれた礼をすると言ったとか」


 しかし吉は、「見つけたのは影の吉だ」と言った。お客人はそれを受け、「ならば影に礼をしよう」と答えた。

 光里はゴクリと唾を呑み込んだ。


「……まさか」

「はい。きっとその礼として、影は吉さんから離れることを望んだのではないか、と」


 これまでにない機会を得た影は、早速吉の元を離れ、己の意思の下、自由に行動し始めた。


「別に吉さんと仲違いしたわけではないですから。影は逃げ出したのではなく、遊んでいるだけなのだろう、と彼は言っていました」

「はあ……」


 光里はどうにも返答のしようがなかった。なんだか煙に巻かれた気分である。綴葉は苦笑した。


「彼は良い人なんですが、なんとも食えないお人でして。ですがその分、物事に対してひと味違った見方をします。僕もなにかと助けてもらっているんですよ」


 光里は腕を組み、頭の中で写本師の説を反芻した。


「それが当たっていたとして……。ならば尚更どうして、影は帰ってこないんだろう?」


 吉と喧嘩したわけではなく、かといって嫌っているわけでもなく。気晴らしにただ遊んでいるだけなのなら、すぐに帰ってきそうなものなのに。


「遊んでいるからこそ、帰れないのではないか、と」


 写本師曰く、影も、初めはちょっと遊びに行くだけのつもりだったのではないかという。

 しかし、走り回っている内に、ちょっと遠くへ行ってみたくなった。そこで隣の宿場まで足を運んでみれば、更に遠くへ行きたくなった。

 そうして辿り着いた【日ノ元市】は、宿場より活気があり、賑やかだ。生まれた時から縛られていたのである、いろんな場所に行けて影も楽しいのだろう。

 あとちょっと、あともうちょっとだけ、と思っている内にずるずると日が伸び、帰る踏ん切りがつかなくなっているのではという。


「遊郭に居続けてる遊び人みたいな話だな」


 光里は呆れた。それでも、なんとなく説得力があるような気もする。


「おもしろい話だけど……。そもそもどうやって影を見つけるか、策はないのかい?」

「もちろん抜かりはありません」


 綴葉は心得たように頷いた。勢いづいたように身を乗り出してくる。


「美味い物を食わせろ、と」

「は?」


 光里は再び素っ頓狂な声を上げた。綴葉は至って真面目な表情で続ける。


「影が【日ノ元市】で目撃されたのは、盛り場です。それも大道芸の前だったとか。影がどのようにこの世を捉えているのかは分かりませんが、周囲の状況を認識できることは確かです。きっと影は、芸や芝居見物でもして楽しんでいるのでしょう」


 本体を離れて動き回っているとはいえ、ただの影なのだ。

 見物人の影に紛れてしまえば見つからないだろうし、金が無くとも関係無い。

 光里は本体の無い影が芝居小屋の客席に紛れ込み、舞台を見上げて一喜一憂しているのを想像した。

 しかしである。


「なにかを食べることまではできないだろう、と」


 物を食うのは本体にしかできない特権だ。そこを突けという。


「吉さんにたんと美味い物を食べさせて、影を羨ましがらせろ、とのことです」

「……」


 光里は開いた口が塞がらなかった。





 荒唐無稽以外の何物でもない話だったが、吉にとっては慰めになったらしい。

 綴葉が去った後、知恵者だという写本師の考えを伝えると、吉はまるい目をパチパチと瞬かせた。どうやら、驚いた時のこの子の癖らしい。


「吉は……、遊んでるんですか」

「そうらしいよ」


 まあ〝影が遊ぶ〟など、可愛らしい考えではあるか。

 光里は影がいなくなった理由など、とんと思いつかないのだから、とりあえず信じてみるしかない。

 とまあ、光里は半信半疑だったが、打って変わって吉は泣きそうな表情を浮かべた。


「吉は、おらのこと、嫌いになったわけじゃねえんだ……」


 己のことが嫌になったから、影はいなくなってしまったのではと、ずっと不安だったのだろう。

 光里はそこまで考えが及んでいなかったと、はたと気がついた。影の所在を突き止めることしか考えず、吉の気持ちを慮ることを忘れていた。

 光里は己の不明を恥じ、涙をこぼす吉の背中を優しく撫でてやった。

 綴葉は一枚の紙を残していった。写本師が書いたという、美味い物を出す店の一覧だ。

 さすが写本を生業にしているだけあって、綺麗に整った読みやすい文字である。綴葉は一覧を渡すと共にこう言った。


「彼曰く、なにも贅沢をさせろと言っているんじゃない。食通と食道楽と食いしん坊は違う、と」


 食通とは、食い物をこしらえる手順や素材の良し悪しなど、なにからなにまで熟知した上で食い物を愛でる者のことであり、食道楽とは、包丁人がいる料理屋など奢った物を好む者のことを指す。

 一方、食いしん坊はひたすら食べることを好む。高直さや素材の良し悪しにはこだわらず、長屋のおばさんが営む煮売屋から、木戸番が売っている焼き芋まで、とにかく自分が美味いと思う物を楽しむのである。


「これはまあ、光里さんなら大丈夫ですよね」


 綴葉の言う通り、光里は自他ともに認める食いしん坊である。見廻りにかこつけて、ここら一帯のあらゆる物を食べ歩いてきた。


「まあね。食い物に関しては自信がある」

「彼もいわゆる食いしん坊でして。ぜひ参考にと」

「ふむ」


 光里は渡された紙を広げた。知恵者がどれほどのものか、見てやろうじゃないか。

 ……ふむ、書き始めに〝【卍屋】の弁当〟とある。分かっているではないか。

 それに続く店の名前も、いくつかは光里も見知った店だが、中には知らない名前もあった。なるほど確かに、食いしん坊だ。

 その日から、光里は頻繁にお土産を買うようになった。写本師の一覧も参考にしつつ、行きつけの店に頼んで折り詰めにしてもらったり、持参した鍋に汁物を入れて持って帰ってくる。

 気晴らしにでもなればと思ったが、吉も美味い物を楽しむ余裕ができてきたらしく、表情も次第に明るくなっていった。

 家にいる間、吉はおめいの手伝いをした。水汲みから雑巾がけまで、こまごまと働いた。

 光里がどんな様子かと訊くと、おめいは太い腕を腰にあててこう答えた。


「ちょっと気が利かないところはありますけど、言われた事はちゃんとやりますし、誤魔化したり嘘をつくこともありません。うちの子たちよりよっぽど良い子ですよ」

「そっか」

「ただねえ……」


 おめいは少々言いづらそうに続けた。


「ちっとばかし、ぼうっとしたところがありましてね……。ふと気がつくと、天井や庭の端なんかをじいっと見てる、なんてしょっちゅうですよ」

「お吉さんには尋常ならざるものが見えるんだ、なんぞいるのかもしれないね」

「怖いこと言わないでくださいよ、お嬢さん」


 おめいは少し怯えたように両腕で身体を抱きしめた。おめいはどうやらこの手の話題が苦手らしい。初めて知った。

 おめいは再び腰に手をあてると、変わって悼むような表情を浮かべた。


「たしかに素直で、良い子ですけど……。あのままじゃあ、生きづらいでしょうねえ」


 哀しいかな、たしかにこの世は多少の毒っ気がなければ、難儀するだろう。

 おめいはああ言ったが、光里は吉の純粋さが気に入っていた。あの子の純真で嘘の無い心は、光里には眩しく思えるのである。猫又や川の大蛇が、吉に手を貸す理由が分かろうものだ。

 せっかくうちにいるのだからと、光里は吉に手習いをさせることにした。

 だが、光里の字は金釘流もかくやという独特な手筋なので、手本には到底向かない。

 そこで、実家に置いてきた教則本をおめいに取りに行ってもらい、吉に使ってもらうことにした。

 吉は筆を持ったことすらなく、おっかなびっくり硯に墨を溶き、手本を見ながら半紙に文字を書き写した。

 まずは己の名前からということで、「きち」とたくさん書いた。


「〝きち〟って、変な形です」

「そうかい?」

「みつりさんは、どんな形なんですか?」


 吉は「みつり」と「めい」もたくさん書いた。

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