八
いかな光里といえど、これまで浮いた話のひとつやふたつ、無かったわけではない。
……いや、実のところ、ひとつしかないのだが。
お相手となったのは、光里が学んだ
そもそも光里が槍に興味を抱いたのは、催しとして行われた異種格闘技の試合がきっかけであった。光里が五歳の時である。
幕に囲まれた試合場で、鈍色の穂先が煌めく。まるで舞うが如き優美な槍使いに、光里は一瞬にして魅了された。
その日の内に両親に「槍を習いたい」と懇願したところ、「いかん!」と父は一蹴したが、「いいわよ」と母が快諾。善は急げと手筈を整え、七日の内に光里は道場へ通うこととなった。
そこで明らかになったのが、光里の槍の才である。
初めは〝お嬢さんの行儀見習い〟といった認識であった師範も、すぐにその才に気づき、熱心に指導をするようになった。
そして光里には、こと槍に関しては、努力を努力と思わない才も兼ね備えていた。
算盤が乗った文机に向かい合うのは、茶が冷める前に音を上げてしまうのだが、身体を鍛え、槍を振るうことだけは苦にならず、いつまでだってできた。
修行に励み、技能を伸ばした光里は、いつの間にか門下生の中で一番強くなっていた。
光里に負け、「女だから手加減してやったんだ」などと負け惜しみを言っていた門下生たちも、次第にそんな事は言っていられなくなった。ぐうの音も出ないまでに、光里の槍は鋭く研鑽されていた。
そんな中で沸き起こったのが、師範の息子、
琉馬は光里と同い歳であり、光里が道場通いを始めた時から共に槍を交えてきた。門下生の中では一番仲が良く、好敵手でありながら、良き友であった。
師範から呼び出され、「琉馬と一緒になるのはどうか」と話を切り出された時は驚いた。
門下生の内、女は光里だけではなかったが、これだけ長く頻繁に道場に通っていたのは光里だけであったし、琉馬と二人でいるところを他の門下生たちから揶揄されることもあった。
それでも己と彼がどうにかなるなんて、考えたことなどなかったのである。
「秦野は槍の腕も申し分ないし、琉馬とも仲が良い。
突然の事に理解が追いつかないまま帰宅した光里だが、とりあえず父と母に話してみることにした。二人はさして驚かず、その態度に光里は再び驚くこととなった。父は腕を組んだ。
「お前も年頃だからな。そろそろそういう話は出てくると思っていた。それに、星狩さんとは昔から、そういった話をしていたしな」
「えっ」
「今まで槍にばかりかまけて、それしかできないんだ。これからもそうしたければ、琉馬君と一緒になるのが一番良いだろう。悪い話じゃあるまい」
「はあ」
光里はなんともいえない居心地の悪さを覚えた。
これまでの人生、ひたすら槍の腕を磨くことしか考えてこなかったのだ。色恋など入る隙は無かったし、自分の嫁ぎ先を思いやったことなど一度も無い。
……槍を背負って、諸国行脚の旅ができれば楽しそうだと夢想したことはあるが。
それでも、周りはそうではなかったらしい。
「嫁入り先があるか不安だったが、道場通いがこんなところで縁を運んでくるとはなあ」
父は、よかったよかったと頷いている。
それから、とんとん拍子で話は進んだ。道場でも、光里と琉馬が
乳母同然のおめいなんかは、
「ついにお嬢さんが……!」
と感極まり、泣き出してしまった。
周りの雰囲気に触れる内、乗り気ではなかった光里も段々その気になってきた。
よく考えれば、琉馬は幼い頃から知った仲だし、いわば幼馴染みのようなものだ。共に暮らすとなれば、初めて会う人よりも旧知の仲の方がなにかと都合が良いだろう。
――琉馬とは馬が合うし、案外上手くいくんじゃないか?
そうとなれば、琉馬を見る目も違ってこようものだ。別にいつもよりかっこよく見えるとか、愛しく思えるとか、そういったことはないが、癖や好みの物など、自然と目に付くようになった。
浮ついた気持ちは多少あったが、それでも光里の槍は鈍ることなく、相手が当の琉馬であろうともいつもと変わらなかった。
囁かれる己と琉馬の噂話にこっそり耳をそば立てていても、いざ板間で向かい合えば、一切の
縁談は父親同士が進めていたが、ついに当人たちを交えて話をすることになった。光里は着慣れない小袖を着て、少し緊張した面持ちで茶屋を訪れた。
話し合いは貸し切った奥座敷で行われた。
ほとんど光里の父と師範が話をし、光里は仕出し料理を口にしているだけであったが、時々琉馬を盗み見た。稽古着姿しか見たことがないから、着流し姿は新鮮である。夫婦になれば、このような姿も珍しく無くなるのだろうか。
「……」
琉馬は至って静かにしている。料理にもあまり手をつけていないようだ。早食いなのに、珍しい。
――緊張しているんだろうか。
その緊張が、光里が思っていたのとはまったく違うものだと知ったのは、箱膳の上の料理があらかた無くなってからだった。
琉馬はコトリと箸を置いた。
「父さん、秦野さん」
談笑していた二人がこちらを振り向く。光里も顔を上げた。
「オレは、光里とは夫婦になれない」
その場の空気が凍った。少なくとも光里にはそう感じられた。師範が困惑したように問う。
「琉馬、いきなりどうした……?」
この前、「縁談を進めていいか?」と訊いた時は、頷いたというのに。
琉馬は真剣な表情で続けた。
「その時はまだよく分からなかったんだ。でも今はちゃんと分かってる。おれは光里を嫁にはできない」
「それはなぜだと訊いている」
師範の口調は穏やかで、責めているような圧は一切無い。
それでも琉馬は緊張しているようで、膝に乗せた拳をぎゅっと握り込んだ。
「初めは、光里と一緒になることに疑問はなかったんだ。なんだかんだ昔から知ってるし、馬も合うし。〝嫁に来るなら光里かな〟って、考えたこともあった」
ならば何故、光里と添えないのか。
「光里は……、オレより強いから」
静かな座敷に、琉馬の声が響く。
「同じだけ稽古をしていても、強くなる奴とそうじゃない奴がいる。同じだけやって光里の方が強くなるのは、それだけ習得が早くて、才があるからだ。オレが光里に勝つためには、光里がやった以上の鍛錬を積まなくちゃならない」
それでも光里は手を抜くことなどないから、越えるどころか追いかけることすら困難である。
それを恨んだことも、憎んだことも無い。むしろ好敵手として、越えるべき壁として、槍の腕を高め合える良き競争相手であり、修行仲間であった。
だがしかし。
「オレは、嫁さんには、そうであって欲しくない」
光里との関係を、道場内と家の中で分けることは、己にはできないだろう。日々の暮らしの中で、越えられない壁を常に意識し続けなければならない。
そんな生活を続ければ、いつか光里の才を、己がそれに届かないことを、憎んでしまう日が来るのではないか。忌んでしまう瞬間が来るのではないか。それが恐ろしい。
琉馬は光里のことを、一番の友のことを憎みたくないのだ。
「オレは……、家の中では槍とは離れていたい。だから、妻になる人は武術から離れた人が良い」
座敷はしんと静まった。
琉馬はそれ以上なにも言わず、師範もなにも問わなかった。
光里の父はそっと横目で娘を見たが、当の本人は突然のことに呆けており、中途半端な高さで箸を持ったまま固まっている。
光里はフラれてしまったのだった。
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