七
「面妖な話ですねぇ」
縁側に並んで座った光里は、冷めてしまった茶を口に含む。語るのに夢中になって、すっかり喉が渇いてしまった。
綴葉は、出入りの貸本屋【
まるい顔にまるい身体、まるい目とまるい眉にしても、全体的に愛嬌がある。纏う雰囲気は優しげで柔らかく、その穏やかな性格を表しているようだ。
渋い色合いの着物は、二十二、三という歳頃にはいささか地味であるが、控えめで静かな綴葉にはよく似合った。
【葉々風堂】は光里の実家出入りの貸本屋であり、光里が家を出た後も続けて本を頼んでいる。光里の家には綴葉が本を持ってきてくれ、歳が近いこともあってか、茶を飲みながら話すようになった。
貸本屋は、本を積み込んだ箱を背負って得意先を回る出商いである。
よって、取り引き先の奥向きを覗くことになり、図らずもそれぞれの家やお
綴葉もご多聞に漏れず舌が重く、光里にしても、当たり障りの無い範囲ではあるが、安心してお役目の話をできるのである。
光里は先日見つけた迷子について話をした。綴葉は口を挟まず、静かに話を聞いていたが、語りが終わると一言呟いた。
〝面妖な話〟。確かにそうだ。
「影はどこへ行ったんでしょうか……?」
「それが分かれば苦労はないよ」
【日ノ元市】の盛り場で見たという証言が最後である。依然としてその行方は不明だ。
「それで、その子は今?」
綴葉の問いに、光里は頷いた。
「ここで預かっているよ。今はおめいさんと一緒に湯へ行ってる」
やはり差配人に引き渡すのは気が引け、そのまま引き取ることにした。
店子同士の繋がりが濃い長屋にいるより、ここのような一軒家にいた方がなにかと気楽だろう。
いつまでも庭で水浴びはさせられないため、湯屋の親父には吉の心が女子であることを伝え、特別に女湯を使わせてもらえるよう頼んだ。
まだ子どもであるからか、光里かおめいが同伴することを条件に許してもらえた。
吉の影が無いことを隠すため、早朝か、今日のように中途半端な
「綴葉さん、なんぞ良い案でも思いつきませんか?」
綴葉は本の虫である。古今東西、ありとあらゆる書物を読み込んでいる。影が逃げたなんて話、なにかで読んだことはないだろうか。
綴葉は記憶を探るように遠い目をしたが、やがて首を横に振った。
「すみません、ちっとも。そのように不可思議な話、僕がこれまで読んだ中にはありません」
「そうですか……」
綴葉はふと思いついたように言った。
「確か、【日ノ元市】の西に
「え?」
光里は気乗りしないように、むうと唸った。
「うーん……。あんまり
「ふむ……」
さて、どうしたものか。
二人で頭を捻っていると、「秦野さん、いらっしゃいますか」と玄関から声がかかった。「はぁい」と応えると、「ちょっとすみません」と綴葉に断って応対にでた。
玄関の戸を開けると、男がひとり立っていた。
縦縞の着物を尻はしょりにし、光里と同じように刈安色(薄い黄色)の布を頭に巻いている。
「ああ、
「どうもこんにちは」
日向は岡っ引きの
岡っ引きとは、町方役人の手助けをする者たちのことであり、御用聞きや目明しともいう。蛇の道は蛇ということで、軽い罪を犯した者を密偵として使ったことが始まりである。
しかし、後ろ暗い過去を持つ者も少なくないことから、公の役職に携わる者として威張り散らす者がいたり、酷ければ恐喝まがいの事をする者もいたりと、良い事だけではない。
幸いにも、ここ【三こま】ではそのような事は起きにくい。
というのも、【三こま】には岡っ引きの大親分ともいうべき顔役がおり、他の岡っ引き連中と、その下に就く手下たちの挙動に逐一目を光らせているのだ。
日向はその大親分の元で働く手下のひとりである。
はつらつとした、なんとも見目の好い男であり、今のようににこやかに微笑む様子は、若い女子の視線を集めるだろう。二十三、四といった、光里とおっつかつの歳頃である。
「日向さん、なにか御用ですか?」
「ええ、先日お尋ねの件についてで。あたしが担当になったので、ご挨拶をと思いまして」
「それはご丁寧に」
つい先日、光里は岡っ引きの大親分を訪ねた。
町方役人になってまだ三年、影を追おうにも、猫又の鰯丸を探そうにも、伝手も無ければ経験も足りない。ここは大御所の力を借りようと思い立ったのである。
初めは不思議な噂や怪しい話を集めてもらうだけのつもりだったが、百戦錬磨の大親分の前で、若輩者の光里が誤魔化しきれるわけがない。結局、あらいざらい吐き出すこととなった。
光里の話を聞いた大親分は、腕を組んでむむうと唸り声を上げた。
「信じて、くれます……?」
「おまえさんが言うんじゃあなぁ。おれにそんな嘘をつけるほど、遊びのある奴じゃねえからな」
それは褒められていると思っていいのだろうか。
五十絡みの、頭の禿げあがった大親分は、
「それに、そういった話がねえわけじゃあねえ。おれもこの道、長いからよ。摩訶不思議な事が起こる世だってのは承知してる」
さすがに影が逃げたってのは初耳だがな。
大親分は膝をぱしりと打った。
「行方不明の影と猫については、こちらで当たってみよう。話を聞き集めるのはおれたちの
「お願いします」
「光里の嬢ちゃんは、迷子の世話を頑張りな。心細いだろうからよ、嬢ちゃんがしっかりしてねえと駄目だぜ」
歴戦の大親分は鷹揚に笑った。
遣わされた日向は、真剣な眼差しで言った。
「今のところ、それらしい話はありません。影についても、猫についても、これといって変わった話は無いです」
「そうですか……」
「またなにかあれば、ご報告しますんで」
「お願いします」
日向を見送って、光里は家の中へと戻った。
「綴葉さん、お待たせ。岡っ引きの大親分の力を借りることにしてね。その遣いでした」
光里が縁側に座ると、待っていたように綴葉が切り出した。
「光里さん、ご提案があるのですが」
「なんぞ思いつきましたか!」
「いえ、さっぱり」
なんだ。光里は拍子抜けした。綴葉は続ける。
「僕では無理ですが、ひとり当てがありまして。
ふむ。光里は少し悩んだが、
「是非ともお願いします!」
と前のめりで頼み込んだ。猫の手でも借りたい状況だが、その頼りになりそうな猫が行方不明なのだ。こうなれば誰の手でも良い。綴葉が信用しているようだし、大丈夫だろう。
「承知しました。それでは、僕はこれでお暇します。また次お伺いした時に、彼の話をお伝えするということで」
「ありがとう」
綴葉は庭に降り、本箱を背負った。木戸へと足を向けたが、ふと振り返る。
「そうそう、ご実家の方から伝言です」
「はい」
「〝見合いがしたくなったらいつでも声をかけてくれ〟と」
光里は口をへの字に曲げた。綴葉は苦笑すると、「それでは」と去って行った。
「はあ……」
光里はため息をついた。いつものこととはいえ、さすがに鬱陶しい。
――まあ、無理やり縁談を押しつけてくるよりましか。
腕を組み、どうしたものかと思案する。
それでも今は、己の事よりあの子の影を見つけるのが先決だろう。
問題を先送りにしつつ、片付けようと湯呑みに手を伸ばしたが、つと自身の影が視界に入った。光里の下で、全く同じ動きをする影。
思わず光里は問いかけざるを得なかった。
「お前はどこにも行かないよね?」
しばし待ってみたが、光里の影は吉のように特別ではなかったので、返答は無かった。
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