【日ノ元市】の賑わいは、宿場の賑わいとはまた違った。

 宿場は絶えず旅人が行き来するがゆえに賑々しいのだが、一方【日ノ元市】はそこで暮らす者が多いゆえに活気がある。

 吉は生まれて初めて訪れる場所に目を見張った。


「いや~、相変わらず人が多いでやんすねぇ」


 鰯丸はただの猫のフリをしつつ、吉を見上げてゆらりと尻尾を揺らした。


「お嬢、そろそろ夜になりやすし、今日は盛り場へ行くのはやめときやしょう」


 そんな場所で子どもがひとりでいるなど、悪目立ちしてしまう。


「ここにも妖しの者が集まる場所がありやすから、休みがてら聞き込みでもいたしやしょう」


 鰯丸が案内したのは一軒家だった。

 生け垣に囲まれた二階家は特に変わった所は無い。周囲にポツリポツリと建つ家にしても人の気配が薄く、至って閑静な場所である。

 門をくぐり、玄関の戸を開けようとした時、


「お嬢!」


 なにかが吉に飛んできた。

 鰯丸は吉の身体に飛びかかり、その勢いのまま吉は門の方へ倒れた。

 飛んできたなにかは吉に当たらず、そのまま生け垣をシャリンと一閃した。


「……!」


 吉は驚きのあまり目を大きく見開いた。

 鰯丸は吉を庇うように四つ足で踏ん張ると、毛と尻尾を逆立て、フーッフーッと威嚇しながら物干し台を睨んだ。

 焦げ茶色の毛並みをしたいたちが、こちらを睨みつけている。一見するとただの鼬だが、前足が鎌になっており、その立ち姿はまるで蟷螂かまきりのそれである。

 鎌鼬と呼ばれる妖しの者だ。しかしよく見てみると、右足に包帯を巻いている。

 全身から醸し出される怒気に、吉はびくりと身体を震わせた。


「いきなりなにするんでやんすか!」


 鰯丸の鋭い言葉に、鎌鼬は更に鋭利な言葉を返した。


「なぜ人間がいる⁉ ここは妖しの者の休息地だ!」


 鎌鼬は鎌を振りかざした。ブンとひと振りすると、なにかがこちらへ向かって飛んでくるような気配がする。

 すかさず鰯丸が二本の尻尾をピンと立て、全身で踏ん張ると、目に見えないなにかが吉から逸れた気配がした。また後ろの生け垣がシャリンと引き裂かれる。


「猫又、そこをどけ!」

「お嬢はあたいの命の恩人でやんす! この鰯丸、九つの命に代えても、お嬢に傷ひとつ付けるわけにはいかないのでやんす!」

「ならば、おまえもろとも切り裂いてやる!」


 鎌鼬は何度も鎌を振るった。振った数だけ目に見えない刃が飛んでくるが、鰯丸がそのすべてを逸らす。

 一軒家の縁側からは、何事かと妖しの者たちが顔を覗かせている。

 道具のような姿をした者もいれば、人の姿で町娘のように小袖を着こなした者もいる。しかし、こちらの様子をよく見ようと、ありえないくらいの長さに首を伸ばしているので、やはり妖しの者なのだろう。

 鎌鼬と猫又の対戦を、固唾を飲んで見ているものの、誰も止めることはない。というより、止められないのだろう。

 それほどまでに、鎌鼬の怒りは高ぶっている。

 刃を躱す間にも、鰯丸は「どうしてこんなことするんでやんすか!」、「話を聞いてくだせえ!」などと声をかけるが、鎌鼬はまったく聞く耳を持たない。

 どうにも堪らなくなって、鰯丸は吉に向かって叫んだ。


「お嬢、ここはひとまずお逃げくだせえ!」

「へっ」

「あたいが合図したら、立ち上がって門から出るんです! 家が見えなくなるまで走ってくだせえ!」

「え、えっ?」


 吉は戸惑った表情を浮かべたが、隙をついた「今でやんす!」との掛け声に、跳ねるようにして立ち上がった。死に物狂いで門へと走るが、


「逃がすか!」


 と見えない刃が振るわれる。

 鰯丸が飛び上がり、庇うようにして刃を逸らしてくれた。

 吉は走った。門を出て、家が見えなくなっても、ひたすらに走り続けた。

 やがて足がもつれてきて、吉は前のめりに崩れるようにして立ち止まった。

 見れば、全く知らない場所にいる。生け垣ではなく、板塀が並ぶ道には家々が並んでいるが、二階家ではなく全て平屋である。

 鰯丸に案内された、大門から一軒家までの道中では一度として目にしなかった風景であった。

 吉は走ってきた道を振り返った。鰯丸の元へ戻ろうにも、めちゃくちゃに走ってきたので、どこをどう通ってきたのか分からない。

 だがしかし、たとえ道が分かったとしても、鎌鼬のあの怒気を思い出すと、一軒家に引き返すのは恐ろしい。

 ならば、ここで鰯丸を待つべきか。だが、鎌鼬を撒くことができたとしても、吉の居場所が分かるだろうか。

 吉は途方に暮れて、板塀に囲まれた道の先を見つめた。





 吉は近くの寺の軒先を密かに借り、一晩を過ごした。

 道の端で縮こまっているより、鰯丸に見つけてもらいやすいと思ったのだが、夜が明けても旅の連れが現れることはなかった。

 吉は一軒家を目指して歩き続けた。こっちへふらふら、あっちへふらふら。一軒家に戻るのは怖いが、向かえる先はそこしか無い。

 幸いにも、【日ノ元市】は水道が配備されており、至る所に井戸がある。喉が渇けば井戸から水を汲み出して飲むことができたが、腹を満たすことはできない。

 吉はくたびれて路地にうずくまってしまった。

 いつの間にか寝ていたのだろう、吉は誰かの声で意識を揺り起こされた。


「おい。……おい」

「……?」


 誰かが自分の傍に屈んで、声をかけている。

 吉は重たい瞼を上げて声のする方を見たが、あいにく逆光となっており、ぼんやりとした姿しか捉えられなかった。あまりに腹が空き過ぎて、目が霞んでいるのかもしれない。


「大丈夫か?」

「……」


 男の声である。若々しく張りのある声だ。

 吉はなにか答えようとしたが、喉がパサパサと乾燥して痛い。どうやら寝ている間に渇いてしまったようだ。

 男が吉に向かって手を伸ばすと、後ろからカランコロンと下駄の鳴る音が聞こえてきた。


「おい、どうした?」

「ああ、子どもが倒れててさ」


 男は手を引っ込めると、後ろを振り向いて、やってきた人物と話し始めた。

 新しく増えた声も男のものであるが、こちらは若さを感じるものの、ひどくしゃがれている。

 吉はそっと視線を動かして、やってきた男を見た。

 逆光でぼやけてしまい、輪郭しか分からないが、背が高い。下駄を履いているから益々のっぽに見える。

 そして吉の目は、人の目には見えない尋常ならざるものを捉えた。

 男の周囲の風景が、ゆらゆらと揺らめいている。熱で歪んでいるのだ。

 その証明のように、男の身体からは徐々に炎が立ち昇り、一際強く燃え上がったかと思うと、男の背後で巨大な鳥の姿となった。


「……!」


 吉はあんまりにも驚いて、くたびれて動けなかった筈の身体を跳ね起こし、その場から逃げ出した。


「あっ、おい!」


 最初に話しかけてきた男の声がするが、構わず吉は走った。

 駆けに駆けて……、とうとう立ち止まると、見つけた井戸から水を汲んだ。喉の渇きを潤すように、ぐびぐびと一気に飲んだ。

 吉は身体から力が抜けたように、井戸を背に座り込んだ。

 もしや追いかけてきているかも、と来た道を振り返るが、その気配は無い。ふうと息をついた。

 あのように人の身体の周囲になにかが見えることは、これまでもあった。

 随分前に故郷の村を訪れた、薬師くすしがそうであった。町からやって来たという若い薬師は、薬草を採るために、吉の村にしばし滞在していた。

 町の者らしく洗練された雰囲気をした男だったが、その身体はいつも水気を帯びており、肌が薄っすらと濡れていた。

 吉は母の袖を引き、「雨でもねえのに、あの人はどうして水を被ってんのかなあ」と問うたが、


「なにを言っているんだい、この子は」


 と呆れられてしまった。吉は、その人が纏う水っ気が自分にしか見えないものだと悟った。


 その薬師がある時、行方不明になったことがあった。

 何日も続いた長雨がやっと止んだ日の事だった。薬師は早速、薬草を採りに山へと入ったが、増水して流れの速くなった川へ誤って足を滑らせ、流されてしまったのである。

 村の者総出で探したが、思いの外、下流へ流されてしまったらしく、見つけることは叶わなかった。

 命は無いと誰もが諦めていたが、その次の日、薬師はひょっこり村に帰ってきた。

 着物はドロドロで、身体に多少の打ち身はあったが、ピンシャンとした足取りで「いやぁ、まいった」と笑っていた。

 話によれば、薬師は昔から泳ぎが得意だそうで、激しい流れをかき分け、自力で岸へと這い上がったそうだ。背負っていた籠を引き上げることは叶わなかったが、命があるだけめっけもの、川を辿って村へと帰ってきたという。

 村の者は驚き、ひとまずよかったと胸を撫で下ろした。

 それでも吉は、薬師が助かったのは、彼が纏う水が関わっているのではないのかと思えてならなかった。

 その後、薬師は山を下りたが、吉の姉さを伴って行った。いつの間にやらそういう仲になっていたらしく、姉はお嫁に行ったのだ。

 どうやら村の者は察していたらしいが、吉はそんな事になっているとは露知らず、ひどく驚いた。

 だが薬師は優しい人のようだし、なにより彼の水っ気があれば、姉は水の厄災に悩まされることはないだろう。今では吉も、良い縁だったと思っている。

 優しかった姉さの事を思い出し、吉は泣きべそをかいた。

 知らない場所で、ひとりぼっちで座り込んでいる吉にとって、姉との思い出は寂しさをかき立てるものでしかなかった。

 しばし涙を流していたものの、長屋から人が出てくる気配がして、吉は急いでその場を離れた。

 今の吉には、影が無い。旅籠の奉公人たちの視線が恐ろしかったことを、吉は思い出した。

 それからは人の目を避けるようにして、フラフラと通りを歩いた。誰かに話しかけられれば、急いで逃げた。

 一軒家は見つからず、鰯丸がにゃあにゃあと話しかけてくることもない。

 まるで何週間も過ごしたような心地であったが、幼い吉のことだから、本当は一日くらいしか経っていなかったのだろう。

 とうとう腹の空きに耐えかねて、橋の下で膝を抱えていたところ、


「ああ、やっと見つけた……」


 と光里が声をかけてきたということであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る