声をかけた妖しの者にいろいろと奢ってはもらったものの、本筋での収穫はなく、吉と鰯丸はとぼとぼと宿へ帰ってきた。

 部屋で夕餉をとり、風呂でさっぱりして寝る支度をしていると、宿狐が訪ねてきた。


「お嬢さん方、首尾は如何ほどで?」

「それがまったくでござんす。……名物はいろいろ奢って貰ったんでやんすが」

「それはそれは」


 宿狐は常に浮かべている笑みを一層深くした。


「居ましたよ、お嬢さんの影を見た方が」

「ええっ!」

「宿の者総出であたらせましたら、ひとり見つかりました」

「その者はなんと?」


 身を乗り出す鰯丸に、宿狐は落ち着きを払って言った。


「【日ノ元市】の盛り場で見たと。大道芸の人だかりに混じっていたそうです。本体が無かったといいますから、まず間違いないでしょう」

「お嬢!」


 鰯丸と吉は目を見合わせた。【日ノ元市】はここからひとつ先、この街道の終着点である。

 嬉しげな様子の吉と鰯丸とは違い、宿狐は少し怪訝な表情を浮かべると、腕を組んだ。

「これからお嬢さん方は【日ノ元市】に向かわれるんでしょうが、……あそこは今、ちょっと妙な噂がありましてね」

「噂、でござんすか?」

「はい」


 宿場は方々から旅人が通り過ぎるため、様々な話が集まる。

 だがここ最近、【日ノ元市】から来る噂は剣呑なものが多いという。


「河童が溺れただとか、鎌鼬が自分の鎌で腕を切っただとか……」

「は?」


 なんとも奇妙な話に、鰯丸は首を傾げた。宿狐は腕を組んだまま、眉をひそめる。


「あたし共も、なにがなにやらさっぱりで。……ですが、なにか妙な事が起きているのは確かです。お嬢さん方も早く影を見つけた方が良い」


 一夜明けると、宿の前まで見送りに来てくれた宿狐に、吉は木の実を二つ渡した。


「ありがとうございました」

「これはこれは、ご丁寧に」


 宿狐は嬉しそうに受け取ると、にやりと笑みを深くした。


「では、あたしからもひとつ手向けを。ここから【日ノ元市】に向かう途中、【翡翠ひすい川】という大きな川がございます。人の子は舟で行き来しますが、なにせぎゅうぎゅう詰めですからね。小さなお嬢さん方では押し潰されてしまうでしょう」


 そこでだ。


「あの川のぬしとあたしは旧知の仲でして。〝宿狐の紹介で来た〟と言えば、その背に乗せてもらえましょう」

「おお!」


 鰯丸が嬉しげに声を上げる。

 というのも、【翡翠川】をどう渡るか、昨日から悩んでいたのである。人が乗る舟の混みようでは吉が埋もれてしまうかもしれないし、かといって妖しの者の手段では人の子を通してくれるか分からない。

 鰯丸は川の主に会える場所を教えてもらうと、深く頭を下げた。


「なにからなにまで世話になりやした。ありがとうござんした」

「いえいえ」


 宿狐は優しい目で吉を見下ろした。


「こんな可愛らしいお嬢さんを見捨てたとあっちゃあ、【播河宿】の名折れですからね。旅の幸運をお祈りしております」


 【播河宿】を出た吉と鰯丸は、目立たぬよう街道から少し離れた所を歩いた。が、程なくして川にぶつかった。

 対岸が見えないほど大きな川であるが、水の流れは穏やかだ。

 吉がちょっと手を伸ばして流れる水に触れてみたところ、ぶるりと身体が震えるほど冷たかった。こんなに冷たいのでは、泳いで渡るのは無理だろう。

 舟着き場は、舟を待つ人でごった返している。満員の舟が来たかと思えば、またすぐ人が満杯に乗り込み、向こう岸へ出発する。

 なるほど確かに、小さな吉や鰯丸は押し潰されてしまうだろう。


「ささ、お嬢。こちらでござんす」


 鰯丸は吉を誘い、宿狐に教えてもらった河原まで来た。

 舟着き場はすでに遠く、ひとつ足を踏むごとに砂利がじゃらじゃらと鳴る。

 川に向かうと、鰯丸は大声を張り上げた。


「川の主殿、おられましょうかぁ! 【播河宿】の宿狐殿からの紹介で参りましたぁ!」


 川からはなんの反応も無い。鰯丸は続けた。


「あたいは【加児宿】の鰯丸と申す者でござんす! 隣におられるのは、あたいの命をけて頂いたお人でござんす! その恩を返すべく、共に旅をして参りましたぁ!」


 川からはなんの反応も無い。


「【日ノ元市】へ行きたいんでやんすが、御身を渡るにはあたい共は小さ過ぎます! そこで宿狐殿にご紹介頂き、こうしてお願いに参りましたぁ! 何卒なにとぞ、その背に乗せてやってはくださいませんでしょうかぁ!」


 鰯丸はぺこりと頭を垂れた。吉も倣って、砂利の上に正座して両手をついた。

 しばらくはなんの反応も無く、吉と鰯丸はそのままの姿で固まっていた。

 だがやがて、水の中から泡がブクブクと立ち上る音が聞こえてくると、つと顔を上げた。

 ザパァッと大量の水を押し上げ出てきたのは、透明な水色の鱗をした大蛇おろちだった。

 そのあまりの大きさに、吉はぽかんと呆けたように口を開けた。

 大蛇は深い水底のような蒼い目で、吉と鰯丸をはるか上から見下ろした。


「吾輩を呼んだのはおぬしたちか」

「ははっ、そうでござんす」


 頭を下げる鰯丸に、吉も慌てて両手をつく。

 鰯丸は改めて名乗りを上げた。川の主はその口上を聞き届けると、ゴウゴウと水が巻くような轟く声で言った。


「吾輩の背に乗り、川を渡りたいと申したな」

「その通りでござんす。何卒、お許し願えませんでしょうか」

「宿狐の頼みとあらば、聞かぬことはないが……」


 主はつと吉を見た。細い瞳孔がその小さな姿を見据える。


「その人の子も、吾輩の背に乗りたいと申すか」

「お嬢はあたいの命の恩人で、」

「ぬしには訊いておらん」


 川の主は細長い舌を出し入れしながら、冷たい視線で吉に問いかけた。


「人の子よ、答えよ。吾輩の背に乗り、川を渡りたいか?」


 吉は、己の何倍もの大きさを誇る蛇を見つめ、正直に言った。


「あい。おらも、いわしさんと一緒に、向こう岸へ行きてえです」


 主の顔に怒気が浮かんだ。


「人の身の分際で吾輩を舟扱いするか、不届き者め! 喰ろうて、我が身の一部としてくれる!」


 大蛇があんぐりと口を開けて、吉を吞み込もうと飛びかかってきた。


「お嬢!」


 鰯丸が叫ぶ。

 吉を庇おうと飛びついてくるが、その小ささではなんの盾ともならず、ただ猫が子どもに抱きついただけであった。

 眼前には大口を開けた大蛇。だがしかし、吉は動かなかった。

 大蛇の鋭い牙が見えても、真っ暗な喉の奥が見えても、吉は動かなかった。

 恐ろしさのあまり動けなかったのではない、ただ動かなかったのである。

 大蛇もそれに気づいたのだろう、今まさに吉を呑み込もうとする恰好のまま、止まった。


「……」

「……」

「……人の子よ、なぜ動かん?」


 主の問いに、吉は目をパチパチと瞬かせた。


「だって、主様はおらを食おうとしてねえから」


 吉は、お山の妖しの者たちと日々一緒にいた。共に山菜を採ったり、遊んだりして仲が良かったが、時々からかわれることもあった。

 いきなり頭上から落ち葉を降らせてきたり、目の前に毛虫をぶら下げてきたり。

 その度に吉は驚いたが怒ることはなく、そもそも嫌ではなかった。吉のことが好きだからやっているのだと分かっていたし、本気で吉が嫌がることは決してしなかったからである。


「主様は、そん時のみんなとおんなじ感じがします」

「……」


 大蛇は身を引き、その大きな口を閉じると、再び細長い舌を出し入れした。

 しかし先程とは違い、目が笑っている。


「どう反応するのか興味があったが、これはなかなかどうして、おもしろい。なるほど、宿狐がおぬしを寄越すわけだ」


 川の主は長い首をもたげ、くるりと背を向けた。ザプンと川の水が揺れる。


「よくぞ見破った。童よ、乗れ。吾輩が舟となってやろう」

「ありがとうございます」


 吉は丁寧に頭を下げた。

 その身体に未だ引っ付いていた鰯丸も慌てて河原に座り直し、今度は鰯丸が吉の真似をして頭を下げた。

 主は吉と鰯丸を乗せ、川を渡った。その最中、鰯丸は逃げた影を探していることを語った。


「ふむ。影が消えるとは、珍しいことよの」

「主殿はなんぞ見てませんでしょうか?」

「なにも。人の舟に紛れ、川を渡ったのであろう」


 続けて、主は吉のお山の話を聞きたがった。

 吉はお山の美しかったこと、仲良しの者どもがみんな優しかったこと、語る内に懐かしい思い出が次々と浮かんできて、ちょっと泣きそうになってしまった。

 主は楽しげに聞いていたが、やがて向こう岸に着くと、名残り惜しげに吉と鰯丸を降ろした。


「久しく楽しい時であったが、もう終いか。時が過ぎるのは早いものよの」


 吉は、葉っぱと蔓で出来た包みから木の実を取り出した。


「主様、ありがとうございました」


 差し出された木の実を、主は細長い舌を伸ばして優しく巻き取った。


「ふむ。渡し賃として受け取ろう」


 主は吉と鰯丸を見下ろした。


「あのように人の多い場所で、ひとつ影を見つけるとは難儀であろうが、童よ、おぬしならば成せるかもしれん」


 主は柔らかく笑んだ。蛇の顔のことだから、ひどく分かりにくかったが、吉はちゃんと感じ取れた。


「この川を渡る用ができたなら、吾輩に声をかけるといい。おぬしのためなら、また舟となってやろう」


 吉と鰯丸は主と別れ、【日ノ元市】へと歩を進めた。

 川が見えなくなってしばらくすると、鰯丸はふうとため息をついた。そして、ふんぞり返るように両手を腰にあてた。


「一時はどうなることかと思いやしたが、さすがお嬢でござんす。まさか、【翡翠川】の主殿と仲良くなるとは! 【翡翠川】の主といえば、ここいらを治める親分連中の中でも、大物でござんす。いやはや、あたいの目に狂いはなかった!」


 鰯丸は自分のことのように嬉しそうである。


「でもいわしさん、お山のみんなから貰った木の実が無くなっちまいました」


 吉は包みを振ったが、中からはなんの音もしない。試しに蔓を引っ張ってみると、あっさり包みは解けてしまった。吉は葉っぱと蔓を大事そうに懐へしまいなおした。


「まあ、いろいろと使いやしたからねぇ。けどお嬢、心配は無用でござんす。ほら!」


 鰯丸は先を指し示した。そこには、大きな黒い門が鎮座していた。


「【日ノ元市】でござんす。あそこのどこかに、お嬢の影がいる筈でござんす」

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