にゃあ、と猫が鳴いた。

 吉はめそめそと泣きながら、とぼとぼと通りを歩いた。

 宿場は朝から忙しなく人が行き来し、何台もの大八車がギシギシと音を立てながら通りを走る。誰もが急いでいるのだろう、吉の姿に目を留める人はいなかった。

 荷物も持たず、着の身着のままの吉だったが、途方に暮れる余裕すらなかった。あまりに突然のことに、ただ泣くしかない。


「吉ぃ……」


 にゃあ、と猫が鳴いた。

 吉が顔を上げると、目の前にちょこなんと猫が座っていた。

 灰色の毛並みの雄猫で、首にくたびれた手拭いを巻いている。右が芥子色、左が浅葱あさぎ色(明るい青緑色)の目が、吉を真っ直ぐに捉えている。

 道行く人には、にゃあにゃあとただ猫が鳴いているだけに聞こえるが、人には見えないモノを見、聞こえないモノを聞く吉には、この猫の言う事が分かった。


「お嬢、お久しぶりでござんす。あたいはねこまたいわしまると申しやす。以前、お嬢にけて頂いた者でござんす。あの時は誠にありがとうござんした」


 吉はパチパチと目を瞬かせた。猫は構わず続ける。


「腹が減っていることでござんしょう、ひとまずあたいについてきてくだせえ。ささ、こちらでござんす」


 猫は路地に入ると、にゃあと一声鳴いた。尻尾をゆらゆらと振って、こちらへ来いと誘っている。

 吉はぽかんと猫を見つめていたが、ふとお山の仲良しに言われたことを思い出した。


 ――オメにはオデらのようなもんが付いとる。

 ――オメの傍に寄ってくるもんは、オメの力になってくれるもんばっかりだ。


 吉は涙を拭うと、猫について歩き出した。

 吉が連れられてきたのは、宿場から少し外れた所にある一軒家だった。板塀に囲まれ、立派な門が建っている。

 座敷に上がると、その場にいた猫たちが一斉にこちらを見た。


「おや鰯丸、ついに連れて来たんだね」

「可愛い子だえ」

「かわいそうに、泣いてるじゃないか」


 鰯丸は、真新しい座布団を引っ張ってきた。


「お嬢、ここにお座りくだせえ」


 吉は大人しく正座した。すると、台所から女がひとり、盆を片手にやってきた。

 盆にはどんぶりと急須が乗っており、女は慣れた手つきで吉の前にそれらを並べた。

 まげに何本もの簪を挿した、なんとも婀娜あだっぽい姐さんで、腰から二又に分かれた白黒の尻尾がゆらゆらと揺れている。猫のような目が、吉を見て柔らかく笑んだ。


「お嬢さん。あんたがうちの鰯丸をけてくれたお人だね。親分のあたしからも礼を言わせてもらうよ」


 隣に座った鰯丸と共に、丁寧に頭を下げた。吉はパチパチと目を瞬かせたが、ここに至ってひとつ思い当たる節があった。

 三月みつきほど前の事である。吉は旅籠の台所の隅で、猫を見かけた。

 猫は小さくまるまって、なにか匂いを嗅いでいるように鼻をひくひくと動かしている。その鼻先にある物を見て、吉はひゅっと息を吸い込んだ。


「いけねえ!」


 急いで駆け寄ると、猫が嗅いでいた小皿を取り上げた。皿の上には、大きな団子が二つほど乗っかっている。


「これは鼠取り入りの団子だ。食っちゃいけねえ」


 鼠はおろか人間でさえも、口に含めばコロリといく大層恐ろしい物である。猫なんてほんのひと欠片でイチコロだ。

 猫はにゃうと首を傾げたが、その場を動く気配がない。

 見れば、毛並みが相当に荒れている。お腹が空いて、弱っているのかもしれない。


「ちょっと待ってくんろ」


 吉はひつの蓋を取ると、中に残っていた飯をまるめて皿に乗せてやった。地面に置くと、猫はがっついて飯を食べ始めた。

 皿の上の物が綺麗に無くなり、猫がペロリと舌舐めずりをすると、吉は猫を木戸まで送ってやった。


「人んのもん食う時は、気ぃつけんだよ」


 猫はにゃあと一声鳴くと、振り返り振り返り吉を見て、去って行った。


「お嬢のおかげで命拾いしやした」


 鰯丸はまるで人のように正座をすると、再び頭を垂れた。親分の姐さんは呆れたようにため息をつき、頬に真っ白な手をあてた。


「まったく。せっかく猫又として成り上がったってのに、猫要らずなんかで命を落としかけるなんて……。この食いしん坊」


 「へへへっ」と鰯丸は照れたように頭を掻いた。

 猫又とは、長生きをした猫が成る妖しの者のことである。人語を喋り、人に化け、様々な術を使うことができる。

 鰯丸は「ささ、遠慮なくおあがりになってくだせえ」と目の前の湯漬けを示した。吉は両手を合わせてから、どんぶりと箸を手に取ると、ズズッと中身をすすった。


「お嬢にけて頂いてからこの方、あたいはお嬢を影ながら見守っておりんした。お嬢がお困りの際は、この鰯丸、ご恩を返すべく馳せ参じようと思い決めたからでござんす」


 鰯丸はきりりと居住まいを正した。


「お嬢、影がいなくなったんでござんすね」


 吉は米を口いっぱいに頬張って、こくりと頷いた。鰯丸や親分の足元には影があるが、吉の元にはやはり無い。


「ここは猫又の宿でござんす。あたいのような、ここいらに住む猫又の家であり、旅する妖しの者の宿ともなりやす。お嬢の影がどこに消えたのか、知っている者がきっと訪れることでござんしょう。それまで、この宿でゆっくりしていてくだせえ」


 そうして吉は少しの間、猫又たちと暮らすことになった。

 なんやかんやと鰯丸が世話を焼いてくれ、食事は親分が手ずから作ってくれたから、不便はなかった。親分は飯屋で育ったらしく料理の腕が立ち、素朴ながらも美味い飯を拵えるのだ。

 だが、山や旅籠で日々立ち働いてきた吉である。世話になりっぱなしも気が引けて、猫又たちと一緒に水汲みや掃除などして働いた。

 鰯丸は慌てて止めたが、親分は「なにかしていた方が、気が紛れるんだろう」と好きにさせてくれた。

 そうこうして七日が経っただろうか。ついに待ち人が宿を訪れた。その者はまるで人のような旅装に身を包んでいたが、頭は猪であった。


「本体の無い影? ……ああ、そういや見たな、そんなの」

「ほんとでござんすか! どんな影で?」

「小さな人の子の影だった。……ほれ、そこで雑巾がけしてるわらしのような影だ」

「それだ!」


 「あれ、そういえばどうしてここに人の子がいるんだ?」と猪男は疑問に思ったようだったが、鰯丸がずずいと身を乗り出してきた。


「どこで見かけたんでござんしょう?」

「街道でな。【宿】と、こことの間だ」


 【播河宿】とは、【日ノ元市】寄りのひとつ先の宿場である。


「凄い勢いで【播河宿】の方へ突っ走って行ったよ」


 早速次の日、吉は出立することになった。

 歩きやすいよう草鞋を履き、簡単な荷物を背負っている。猫又たちが用意してくれた物であった。


「お世話になりました」


 ぺこりと頭を下げる隣には、鰯丸が並んでいる。この猫又も共に旅立つことになった。


「今度は、あたいがお嬢をける番でござんす。お嬢の影を見つけるため、お嬢のりとしてお供させて頂く所存でござんす」


 親分もそれを許し、「しっかりやるんだよ」と鰯丸の小さな背中をポンと叩いた。

 吉は親分の前へ一歩出ると、懐からお山の包みを取り出し、差し出した。


「お世話になったお礼です。おらの村の山で採れた木の実です」

「おやおや、あんたは礼儀を心得ているんだね」


 親分は微笑み、中から七つ実を取り出すと、そのまま包みを吉へ返した。


「これだけ貰えれば充分さ。これは道々、あんたをけてくれるだろう。大事に持ってるんだよ」

「あい」


 吉は包みを懐にしまった。

 親分は髷に挿した簪の一本を引き抜くと、吉に握らせた。色が移り変わるとんぼ玉がひとつ付いた簪である。


「餞別に、これをあんたにあげよう」

「いいんですか?」

「ああ、お守りさ。くれぐれも気をつけるんだよ」


 吉はしばし見惚れたように簪を見つめていたが、大事そうに懐にしまった。


「ありがとうございます」


 吉は猫又たちに手を振り、宿を後にした。


「お嬢、この鰯丸がついてるんでござんす。大船に乗った気でいてくだせえ」


 故郷の村を出る前の影と同じように、鰯丸はドンと胸を叩いた。





 【加児かご宿】から【宿】には、一日も歩けば着く。

 しかし、小さな子どもの足のことだから、吉と鰯丸は一泊野宿を挟んだ。

 加えて、行く先々で妖しの者を見かければ、影のことを尋ねたので、すっかり時をくってしまった。【播河宿】に着いたのは、空が鮮やかな橙色になった夕暮れ時のことだった。


「お嬢、ここ【播河宿】にも妖しの者のための宿がござんす。そこに泊めさせてもらいやしょう」


 宿場の外れにある小さな社がそうで、そのオンボロな見た目とは打って変わって、中は造りたてのように真新しかった。

 宿の外観と中身が合わないのは【加児宿】も同じだったが、なかなかどうして、ここの宿は大きい。

 【加児宿】が平屋で、廊下とそこに並んだ襖がずうっと続いていくのに対し、【播河宿】は奥行きも広いが天井も高い。何層も階が重なり、豪奢な錦絵が施された襖がずらりと並んでいる。

【加児宿】が質実剛健ならば、【播河宿】は絢爛豪華という言葉が似合うだろう。

 そのあまりの煌びやかさに、吉は目を見張ったが、通された部屋を見てもまたまた目をまるくした。二人で泊まるには明らかに広すぎる部屋で、並んだ調度品にしても、どれもぴかぴかに磨き立てられている。

 こんな所に泊まれるのは、吉が生まれた村の庄屋でも無理だろう。それこそ、五つの国の長ぐらいだ。

 まるで極楽浄土のような誂えに、吉は「おら、いつの間にかあの世に来ちまったのかな?」と不安に思ったくらいだった。

 応対に出た妖しの者は宿狐やどぎつねと名乗り、【播河宿】を治める親分からこの宿を預かっている者だと告げた。

 その名の通り、身体は人に近いが、頭部が狐である。常に笑っているように細い目と口がつり上がり、仕立ての良い着物と羽織りが商人を思わせる。

 吉のあまりの驚きように、宿狐は一層笑みを深くした。


「ここ【播河宿】は娯楽に力を入れておりましてね。矢場などの遊技場から湯、それにお嬢さんにはお勧めしませんが、賭場なんてのもございます」


 そこで鰯丸が口を挟んだ。


「【加児宿】は安らぎを売りにしてるんでござんす。親分の美味い飯を食って、静かで落ち着いたひと時を過ごして頂いて、旅の英気を養ってもらうんでござんすよ、お嬢」


 張り合うような言葉に、吉は目をパチパチと瞬かせた。宿狐は歯牙にもかけず、涼しい顔で吉と鰯丸を見た。


「さて、お嬢さんが【加児宿】にとって大事なお方であることは、承知いたしました」


 親分から貰ったとんぼ玉の簪である。今も吉の懐で輝くそれが、吉の身元を保証してくれるという。


「ですが、どうして猫又と人の子が共に旅をすることになったんです?」


 よくぞ聞いてくれたと、鰯丸は勇んでこれまでの行く立てを語った。

 宿狐は時折茶を淹れ替え、茶菓子を吉と鰯丸に勧めながら聞いていたが、話が終わるとひとつ首を傾げた。


「あたしもこれまで様々な事を見聞きしてきましたが、これは初めての事ですね。まさか影が逃げたとは……」


 思わず、宿狐は自身の影を見遣った。ピンと耳の立った影は、静かにそこに座している。


「【加児宿】のお客から、本体の無い人の子の形をした影が、【播河宿】の方へ駆けて行ったと聞きやした。なにか心当たりはござんしょうか。どんなに些細な事でもいいんでやんす」

「ふむ」


 宿狐は腕を組んで考え込んでいたが、やがて首を横に振った。


「すみません。今のところ、それらしい話は聞いた事がないですね」

「そうでござんすか……」


 鰯丸はちょっとしょげたようだったが、切り替えたように吉を振り返った。


「お嬢、明日から【播河宿】で聞き込みをしやしょう。宿場はいろんな者が訪れますから、お嬢の影を見た者がきっとおりやす」


 そして、鰯丸は嬉しげな表情を浮かべると、ざらざらした舌でペロリと口まわりを舐めた。


「ついでに、名物の食べ歩きといきやしょう。なに、親分からお足を少し頂いてるんで。旅のかかりは心配無用でござんすよ、お嬢」


 むしろそちらが目的では。吉はパチパチと目を瞬かせるだけだったが、宿狐は分かりやすく苦笑した。


「【加児宿】の親分さんのお墨付きがあれば、そう危ない目に遭うことはないでしょうが、中には荒っぽい者もおりますからね。どうかお気をつけて。

 この宿内での聞き込みはあたしにお任せ下さい。宿の者が聞いた方が、お客人の舌の滑りも良くなるでしょう」

「ありがとうござんす」


 頭を下げる鰯丸に倣い、吉もぺこりと頭を下げた。





 日をまたぐと、吉と鰯丸は【播河宿】を見て回った。吉の居た【加児宿】と比べると宿場全体が広く、茶店や飯屋が軒を連ね、活気がある。

 人が行き交う度に幾度となく影が交差し、もしここに吉の影がいたとしてもまったく分からないだろう。

 だが言い換えれば、吉に影が無いことに気づく人もいないだろう。むしろ足元ばかり見ていては目立つので、吉はあたりを見回しながら宿場を歩いた。

 妖しの者を見かければ、まず鰯丸が声をかける。そして、影のことを知っていようといまいと、話を聞いてくれた礼として、吉がお山の木の実を渡す。

 中には木の実をいたく喜んで、ちょっとそこの茶店で饅頭を奢ってくれたり、ちょっと山に入ってあけびなんかを取ってきてくれたりした。

 礼として木の実を渡しているのに、そのまた礼になにか貰うのはいけないのでは、と吉が心配そうに呟くと、鰯丸が堂々と言い切った。


「それは、お嬢の心根が大層良いからでござんすよ」

「こころね?」

「そうでござんす。愛らしいお嬢が気持ちを込めて、丁寧に木の実をお渡しするんで、みんな嬉しくなるんでござんす」


 だから、なにかしてやりたくなる。してあげたくなる。


「ですから、遠慮なく馳走になりやしょう」


 口元をペロリと舐める鰯丸は、すでに饅頭とあけび、名物であるくるみ餅を平らげている。まだ食べるつもりらしい。

 ふと吉は気になったことを訊いてみた。


「いわしさんは、人に化けることはできねえんですか?」


 【加児宿】の親分は、二又の尻尾をひょいと出していることもあったが、完璧に人に化けることができた。猫又は様々な術を使うというが、鰯丸はどうなのだろうか。

 手拭いを巻いた灰色の猫は、面目なさそうに前足で顔を撫でた。


「それが……、あたいはまだ成り立てでござんして。若輩者なんでござんす」


 だから、表立った派手な術など、ましてや人に化けるなど到底できない。


「猫又といえど、術を使うには鍛錬が必要なんでござんす」

「へえ」


 鰯丸は慌てて付け加えた。


半猫前はんびょうまえとはいえ、お嬢の御身はあたいの命にかえてもお守りいたしやす! 安心してくだせえ!」


 ポンと小さな胸を叩く。吉はクスクスと笑った。

 慌てた仕草に笑ったのではない、さっき口を舐めていたというのに、くるみ餅の餡がまだ付いていることに気づいたからであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る