四
にゃあ、と猫が鳴いた。
吉はめそめそと泣きながら、とぼとぼと通りを歩いた。
宿場は朝から忙しなく人が行き来し、何台もの大八車がギシギシと音を立てながら通りを走る。誰もが急いでいるのだろう、吉の姿に目を留める人はいなかった。
荷物も持たず、着の身着のままの吉だったが、途方に暮れる余裕すらなかった。あまりに突然のことに、ただ泣くしかない。
「吉ぃ……」
にゃあ、と猫が鳴いた。
吉が顔を上げると、目の前にちょこなんと猫が座っていた。
灰色の毛並みの雄猫で、首にくたびれた手拭いを巻いている。右が芥子色、左が
道行く人には、にゃあにゃあとただ猫が鳴いているだけに聞こえるが、人には見えないモノを見、聞こえないモノを聞く吉には、この猫の言う事が分かった。
「お嬢、お久しぶりでござんす。あたいは
吉はパチパチと目を瞬かせた。猫は構わず続ける。
「腹が減っていることでござんしょう、ひとまずあたいについてきてくだせえ。ささ、こちらでござんす」
猫は路地に入ると、にゃあと一声鳴いた。尻尾をゆらゆらと振って、こちらへ来いと誘っている。
吉はぽかんと猫を見つめていたが、ふとお山の仲良しに言われたことを思い出した。
――オメにはオデらのようなもんが付いとる。
――オメの傍に寄ってくるもんは、オメの力になってくれるもんばっかりだ。
吉は涙を拭うと、猫について歩き出した。
吉が連れられてきたのは、宿場から少し外れた所にある一軒家だった。板塀に囲まれ、立派な門が建っている。
座敷に上がると、その場にいた猫たちが一斉にこちらを見た。
「おや鰯丸、ついに連れて来たんだね」
「可愛い子だえ」
「かわいそうに、泣いてるじゃないか」
鰯丸は、真新しい座布団を引っ張ってきた。
「お嬢、ここにお座りくだせえ」
吉は大人しく正座した。すると、台所から女がひとり、盆を片手にやってきた。
盆にはどんぶりと急須が乗っており、女は慣れた手つきで吉の前にそれらを並べた。
「お嬢さん。あんたがうちの鰯丸を
隣に座った鰯丸と共に、丁寧に頭を下げた。吉はパチパチと目を瞬かせたが、ここに至ってひとつ思い当たる節があった。
猫は小さくまるまって、なにか匂いを嗅いでいるように鼻をひくひくと動かしている。その鼻先にある物を見て、吉はひゅっと息を吸い込んだ。
「いけねえ!」
急いで駆け寄ると、猫が嗅いでいた小皿を取り上げた。皿の上には、大きな団子が二つほど乗っかっている。
「これは鼠取り入りの団子だ。食っちゃいけねえ」
鼠はおろか人間でさえも、口に含めばコロリといく大層恐ろしい物である。猫なんてほんのひと欠片でイチコロだ。
猫はにゃうと首を傾げたが、その場を動く気配がない。
見れば、毛並みが相当に荒れている。お腹が空いて、弱っているのかもしれない。
「ちょっと待ってくんろ」
吉は
皿の上の物が綺麗に無くなり、猫がペロリと舌舐めずりをすると、吉は猫を木戸まで送ってやった。
「人ん
猫はにゃあと一声鳴くと、振り返り振り返り吉を見て、去って行った。
「お嬢のおかげで命拾いしやした」
鰯丸はまるで人のように正座をすると、再び頭を垂れた。親分の姐さんは呆れたようにため息をつき、頬に真っ白な手をあてた。
「まったく。せっかく猫又として成り上がったってのに、猫要らずなんかで命を落としかけるなんて……。この食いしん坊」
「へへへっ」と鰯丸は照れたように頭を掻いた。
猫又とは、長生きをした猫が成る妖しの者のことである。人語を喋り、人に化け、様々な術を使うことができる。
鰯丸は「ささ、遠慮なくおあがりになってくだせえ」と目の前の湯漬けを示した。吉は両手を合わせてから、どんぶりと箸を手に取ると、ズズッと中身をすすった。
「お嬢に
鰯丸はきりりと居住まいを正した。
「お嬢、影がいなくなったんでござんすね」
吉は米を口いっぱいに頬張って、こくりと頷いた。鰯丸や親分の足元には影があるが、吉の元にはやはり無い。
「ここは猫又の宿でござんす。あたいのような、ここいらに住む猫又の家であり、旅する妖しの者の宿ともなりやす。お嬢の影がどこに消えたのか、知っている者がきっと訪れることでござんしょう。それまで、この宿でゆっくりしていてくだせえ」
そうして吉は少しの間、猫又たちと暮らすことになった。
なんやかんやと鰯丸が世話を焼いてくれ、食事は親分が手ずから作ってくれたから、不便はなかった。親分は飯屋で育ったらしく料理の腕が立ち、素朴ながらも美味い飯を拵えるのだ。
だが、山や旅籠で日々立ち働いてきた吉である。世話になりっぱなしも気が引けて、猫又たちと一緒に水汲みや掃除などして働いた。
鰯丸は慌てて止めたが、親分は「なにかしていた方が、気が紛れるんだろう」と好きにさせてくれた。
そうこうして七日が経っただろうか。ついに待ち人が宿を訪れた。その者はまるで人のような旅装に身を包んでいたが、頭は猪であった。
「本体の無い影? ……ああ、そういや見たな、そんなの」
「ほんとでござんすか! どんな影で?」
「小さな人の子の影だった。……ほれ、そこで雑巾がけしてる
「それだ!」
「あれ、そういえばどうしてここに人の子がいるんだ?」と猪男は疑問に思ったようだったが、鰯丸がずずいと身を乗り出してきた。
「どこで見かけたんでござんしょう?」
「街道でな。【
【播河宿】とは、【日ノ元市】寄りのひとつ先の宿場である。
「凄い勢いで【播河宿】の方へ突っ走って行ったよ」
早速次の日、吉は出立することになった。
歩きやすいよう草鞋を履き、簡単な荷物を背負っている。猫又たちが用意してくれた物であった。
「お世話になりました」
ぺこりと頭を下げる隣には、鰯丸が並んでいる。この猫又も共に旅立つことになった。
「今度は、あたいがお嬢を
親分もそれを許し、「しっかりやるんだよ」と鰯丸の小さな背中をポンと叩いた。
吉は親分の前へ一歩出ると、懐からお山の包みを取り出し、差し出した。
「お世話になったお礼です。おらの村の山で採れた木の実です」
「おやおや、あんたは礼儀を心得ているんだね」
親分は微笑み、中から七つ実を取り出すと、そのまま包みを吉へ返した。
「これだけ貰えれば充分さ。これは道々、あんたを
「あい」
吉は包みを懐にしまった。
親分は髷に挿した簪の一本を引き抜くと、吉に握らせた。色が移り変わるとんぼ玉がひとつ付いた簪である。
「餞別に、これをあんたにあげよう」
「いいんですか?」
「ああ、お守りさ。くれぐれも気をつけるんだよ」
吉はしばし見惚れたように簪を見つめていたが、大事そうに懐にしまった。
「ありがとうございます」
吉は猫又たちに手を振り、宿を後にした。
「お嬢、この鰯丸がついてるんでござんす。大船に乗った気でいてくだせえ」
故郷の村を出る前の影と同じように、鰯丸はドンと胸を叩いた。
【
しかし、小さな子どもの足のことだから、吉と鰯丸は一泊野宿を挟んだ。
加えて、行く先々で妖しの者を見かければ、影のことを尋ねたので、すっかり時をくってしまった。【播河宿】に着いたのは、空が鮮やかな橙色になった夕暮れ時のことだった。
「お嬢、ここ【播河宿】にも妖しの者のための宿がござんす。そこに泊めさせてもらいやしょう」
宿場の外れにある小さな社がそうで、そのオンボロな見た目とは打って変わって、中は造りたてのように真新しかった。
宿の外観と中身が合わないのは【加児宿】も同じだったが、なかなかどうして、ここの宿は大きい。
【加児宿】が平屋で、廊下とそこに並んだ襖がずうっと続いていくのに対し、【播河宿】は奥行きも広いが天井も高い。何層も階が重なり、豪奢な錦絵が施された襖がずらりと並んでいる。
【加児宿】が質実剛健ならば、【播河宿】は絢爛豪華という言葉が似合うだろう。
そのあまりの煌びやかさに、吉は目を見張ったが、通された部屋を見てもまたまた目をまるくした。二人で泊まるには明らかに広すぎる部屋で、並んだ調度品にしても、どれもぴかぴかに磨き立てられている。
こんな所に泊まれるのは、吉が生まれた村の庄屋でも無理だろう。それこそ、五つの国の長ぐらいだ。
まるで極楽浄土のような誂えに、吉は「おら、いつの間にかあの世に来ちまったのかな?」と不安に思ったくらいだった。
応対に出た妖しの者は
その名の通り、身体は人に近いが、頭部が狐である。常に笑っているように細い目と口がつり上がり、仕立ての良い着物と羽織りが商人を思わせる。
吉のあまりの驚きように、宿狐は一層笑みを深くした。
「ここ【播河宿】は娯楽に力を入れておりましてね。矢場などの遊技場から湯、それにお嬢さんにはお勧めしませんが、賭場なんてのもございます」
そこで鰯丸が口を挟んだ。
「【加児宿】は安らぎを売りにしてるんでござんす。親分の美味い飯を食って、静かで落ち着いたひと時を過ごして頂いて、旅の英気を養ってもらうんでござんすよ、お嬢」
張り合うような言葉に、吉は目をパチパチと瞬かせた。宿狐は歯牙にもかけず、涼しい顔で吉と鰯丸を見た。
「さて、お嬢さんが【加児宿】にとって大事なお方であることは、承知いたしました」
親分から貰ったとんぼ玉の簪である。今も吉の懐で輝くそれが、吉の身元を保証してくれるという。
「ですが、どうして猫又と人の子が共に旅をすることになったんです?」
よくぞ聞いてくれたと、鰯丸は勇んでこれまでの行く立てを語った。
宿狐は時折茶を淹れ替え、茶菓子を吉と鰯丸に勧めながら聞いていたが、話が終わるとひとつ首を傾げた。
「あたしもこれまで様々な事を見聞きしてきましたが、これは初めての事ですね。まさか影が逃げたとは……」
思わず、宿狐は自身の影を見遣った。ピンと耳の立った影は、静かにそこに座している。
「【加児宿】のお客から、本体の無い人の子の形をした影が、【播河宿】の方へ駆けて行ったと聞きやした。なにか心当たりはござんしょうか。どんなに些細な事でもいいんでやんす」
「ふむ」
宿狐は腕を組んで考え込んでいたが、やがて首を横に振った。
「すみません。今のところ、それらしい話は聞いた事がないですね」
「そうでござんすか……」
鰯丸はちょっとしょげたようだったが、切り替えたように吉を振り返った。
「お嬢、明日から【播河宿】で聞き込みをしやしょう。宿場はいろんな者が訪れますから、お嬢の影を見た者がきっとおりやす」
そして、鰯丸は嬉しげな表情を浮かべると、ざらざらした舌でペロリと口まわりを舐めた。
「ついでに、名物の食べ歩きといきやしょう。なに、親分からお足を少し頂いてるんで。旅のかかりは心配無用でござんすよ、お嬢」
むしろそちらが目的では。吉はパチパチと目を瞬かせるだけだったが、宿狐は分かりやすく苦笑した。
「【加児宿】の親分さんのお墨付きがあれば、そう危ない目に遭うことはないでしょうが、中には荒っぽい者もおりますからね。どうかお気をつけて。
この宿内での聞き込みはあたしにお任せ下さい。宿の者が聞いた方が、お客人の舌の滑りも良くなるでしょう」
「ありがとうござんす」
頭を下げる鰯丸に倣い、吉もぺこりと頭を下げた。
日をまたぐと、吉と鰯丸は【播河宿】を見て回った。吉の居た【加児宿】と比べると宿場全体が広く、茶店や飯屋が軒を連ね、活気がある。
人が行き交う度に幾度となく影が交差し、もしここに吉の影がいたとしてもまったく分からないだろう。
だが言い換えれば、吉に影が無いことに気づく人もいないだろう。むしろ足元ばかり見ていては目立つので、吉はあたりを見回しながら宿場を歩いた。
妖しの者を見かければ、まず鰯丸が声をかける。そして、影のことを知っていようといまいと、話を聞いてくれた礼として、吉がお山の木の実を渡す。
中には木の実をいたく喜んで、ちょっとそこの茶店で饅頭を奢ってくれたり、ちょっと山に入ってあけびなんかを取ってきてくれたりした。
礼として木の実を渡しているのに、そのまた礼になにか貰うのはいけないのでは、と吉が心配そうに呟くと、鰯丸が堂々と言い切った。
「それは、お嬢の心根が大層良いからでござんすよ」
「こころね?」
「そうでござんす。愛らしいお嬢が気持ちを込めて、丁寧に木の実をお渡しするんで、みんな嬉しくなるんでござんす」
だから、なにかしてやりたくなる。してあげたくなる。
「ですから、遠慮なく馳走になりやしょう」
口元をペロリと舐める鰯丸は、すでに饅頭とあけび、名物であるくるみ餅を平らげている。まだ食べるつもりらしい。
ふと吉は気になったことを訊いてみた。
「いわしさんは、人に化けることはできねえんですか?」
【加児宿】の親分は、二又の尻尾をひょいと出していることもあったが、完璧に人に化けることができた。猫又は様々な術を使うというが、鰯丸はどうなのだろうか。
手拭いを巻いた灰色の猫は、面目なさそうに前足で顔を撫でた。
「それが……、あたいはまだ成り立てでござんして。若輩者なんでござんす」
だから、表立った派手な術など、ましてや人に化けるなど到底できない。
「猫又といえど、術を使うには鍛錬が必要なんでござんす」
「へえ」
鰯丸は慌てて付け加えた。
「
ポンと小さな胸を叩く。吉はクスクスと笑った。
慌てた仕草に笑ったのではない、さっき口を舐めていたというのに、くるみ餅の餡がまだ付いていることに気づいたからであった。
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