吉は、本当は吉ではない。

 後になにか二つほど音が付いていた筈だが、みんなして「吉坊」だとか「吉どん」だとか、あるいは短く「吉」としか呼ばないため、忘れてしまった。

 吉は【土ノ国】の山あいの村に生まれた。小作人の三番目の子どもである。

 貧しいものの、幸いなことに山の実りは豊かで、食うに困ったことはない。

 吉は生まれた時から〝吉〟と呼ばれていたが、なぜだかそれが自分の名前だと得心がいかなかった。だから代わりに、自身の影を〝吉〟と呼んだ。

 吉の影はなんとも不思議な影だった。本来、影は本体の動きとまったく同じに動くが、吉の影は吉が動かないでも勝手に動くのだ。

 影はひょうきんな性格で、野良仕事の合間におかしな動作をして吉を笑わせてきたり、吉が叱られてしょげている時など、ひょうげた仕草で元気づけてくれた。

 それでも本体を離れてどこか遠くへ行くわけではなく、いつも影はしっかりと吉の足元にくっついていた。

 物心つく前からそうだったから、吉は誰しもの影もそのように思っていたが、どうにも違うようだ。吉の影だけ特別なのである。

 頑是ない頃は父や母、兄や姉に話したこともあったが、一度こっぴどく叱られてからというもの、誰にも言うことはなくなった。

 また、吉は不思議なものを目にすることができた。ふと空に目を遣ると人の顔をした大きな鳥が飛んでいたり、水の中に魚のような亀のような変わった生き物が泳いでいたりする。

 それらも、どうやら吉にしか見えないようで、誰に話しても首を傾げたり、眉をひそめたりする。吉は影の事と同じように、次第に誰にも話さなくなった。

 その代わりというわけではないが、吉はその不思議な者どもとよく話をした。

 彼らは吉に優しく、時折からかわれることはあっても、危害を加えられたことはない。明日の天気を教えてくれたり、山芋を一緒に掘ってくれたりと、彼らと居るのは楽しかった。

 吉もそうした礼に、自分の分の飯を少し分けておいて、不思議な者どもにあげたりしていた。

 吉はそうした者どもと極々自然に触れ合っていたから、村の人々が自分に向ける視線の意味に気がつかなかった。父や母や兄が、時折自分を気味悪がっていることも、知らなかった。

 吉がそれを知ったのは、山中で馴染みの者に聞かされたからだった。

 その者は蓑の塊のような姿で、人に似た細い足が二本にょっきりと生えており、蓑の奥から覗く眼が煌々と光っている。吉と一番仲良しの者であった。

 山菜を採りに来た吉に、その者は言った。


「オメ、捨てられんぞ」

「へ?」


 吉はきょとんと呆けた表情を浮かべた。


「オメの親が庄屋と話してんのを聞いたんだ。オメをどこか遠くへやる相談をしてた」

「どして、おらを?」


 吉には自分がそうされる謂われなど、とんと思いつかなかった。


「庄屋の長男んとこの赤ん坊だ。この前、死んだろう」


 一年前の春、庄屋の長男は嫁を迎えた。早速、子宝を授かったが、生まれて十日であの世へと行ってしまった。

 七つまでは神の内、という。七つを迎えるまでは神様のものだから、赤ん坊や幼い子は、ふとした事であちらへ行ってしまうのだ。

 庄屋のところの赤ん坊も、そうした神様に引き寄せられてしまった子だったが、それがなぜだか吉のせいになっているという。


「村では、オメが赤ん坊を憑り殺したことになっとる」


 吉は驚きのあまり、目がまんまるになった。


「お、おら、そんなことしてねえ!」


 その者は淡々と続けた。


「赤ん坊が死ぬ前、オメ、庄屋の家の近くでオデのようなもんと話したろう」

「うん、話した。今年はうるしがいっぱい生えてっから、山に来る時は気ぃつけるようにって教えてもらった」


 どうやら、それを庄屋に伝えた者がいるらしい。


「オメの兄だ」

「兄さが? なんで?」

「オメの兄はオメが嫌いなんさ」


 吉が見えないなにかと話しているところを、うんと悪し様に伝え、「吉を村から追い出した方が良い」と進言したそうだ。


「なんで?」


 至極不思議そうに首を傾げると、その者は蓑に隠していた枯れ木のように細い腕を伸ばして、吉の頭を優しく撫でた。


「オメはどこまでも素直で、真っ直ぐで、それでいて鈍いとこがある。オデは、オメのそういうとこを気に入っちゃいるが、人の世で生きるには、ちと難儀かもしれねぇな」


 吉は大人しく頭を撫でられていたが、ぽつりと呟いた。


「おら、庄屋さんとこの赤ん坊、殺したりなんかしてねえ」

「そりゃそうさ。山の者はみんな分かっとる。オメはこの村で一番のよい子だ」


 けど、肝心の村の奴らがそれを分かっちゃいない。特に、来たばかりの庄屋の嫁は。

 赤ん坊を亡くした嫁は悲嘆に暮れ、日々泣き暮らしていたが、吉のことを知ると人が変わったように攻撃的になった。夫に縋りつき、吉を村から追い出してくれと訴える。


 ――あれがいるから、あの子は死んだんだ。

 ――あれがいる限り、あたしの子どもは殺される。


 長男は「そんなことはない。変わった子だが、そんな恐ろしいことなどできるわけがないだろう」と宥めてきたが、なにを言っても引かない強情な嫁に困っていた。なにせ嫁の実家は力があったから、夫としてもそう強くは諫めにくい。

 父である庄屋もほとほと困り果てていたが、ついに吉を村から出すことに決めた。

 庄屋の親戚が旅籠を営んでいるらしく、そこへ奉公にやろうと言うのだ。


「おら、お宿で働くの?」

「そうさね。オメはこの山から離れることになるんさ」

「おら、やだよ。そんなとこに行きたくねえ」


 吉はめそめそと泣き出した。


「泣ぐな、泣ぐな」


 その者は両腕を伸ばして、吉を抱きしめてくれた。

 こわい蓑からは、雨で湿った苔のような匂いがした。吉の好きな、お山の匂いだ。


「ほんとは、オデらがオメを引き取ってやれれば良かったが、そうはいかねえ。オメはオデらに近えが、人の方がより近え。堪えてくんろ」


 吉からそっと身体を離すと、その者はひとつ包みを差し出した。

 葉っぱと蔓で出来た包みが、吉の両手の平にちょこんと収まる。


「オメはこれから苦労するだろう。だが、オメにはオデらのようなもんがついとる。中には近づいちゃいけねえ恐ろしいもんもいるが、オメの傍に寄ってくるもんは、オメの力になってくれるもんばっかりだ。

 だから、困った時は遠慮なく頼れ。そんで力を貸してもらったら、この包みに入った木の実を礼に渡すといい。みんなで拾った山の実りだ、オメをけてくれるだろう」


 吉はすんと鼻をすすった。その者は蓑の奥の目を柔く光らせると、まるで微笑むように優しく言った。


「オメはよい子だから、きっと大丈夫だ。オメが良いもんと出会えるよう、オデらも祈っとる」


 山を降りた吉は、ひとり薪小屋の側でしゃがみ込んだ。

 言われた事をつらつら思い返していると、またぞろ涙が流れてくる。吉は影に話しかけた。


「なあ、吉。おら、どうしよう……?」


 こんな時、吉の肩を持ってくれる一番上の姉は、遠くへ嫁に行って久しい。吉の味方は、吉にしか見えない者どもしかいないのだ。

 しかしその者どもが、自分たちではどうしようもないと言う。幼い吉は、周りに言われたようにするしかなかった。


「おら、ここを離れたくねえ。ひとりは嫌だぁ」


 しくしく泣いていると、影は宥めるように両腕をブンブンと振った。

 思わず吉が影を見ると、影は偉そうにふんぞり返って、まるでドンと胸を叩くような仕草をした。

 おまえには、この影がついている。おまえだけの、特別な影が。

 吉はズルッと鼻をすすると、涙でぐちゃぐちゃになった顔を綻ばせた。


「そうだね。おらには、吉がいるもんね。ひとりじゃねえんだ」


 その夜、父から「おまえを奉公にやる」と話があった。「これも全部おまえのためだ」と言い、庄屋の赤ん坊の話など一切しなかったが、吉は最初から最後まで大人しく聞いていた。

 家族と、村と、お山と離れるのは悲しく寂しいが、吉には影がいる。生まれた時からずっと一緒の影が。吉はひとりではないのだ。

 あれよあれよという間に、吉が村を出る日が訪れた。

 少ない荷物を背負い旅装となった吉を見て、母は涙を流したが、兄は少し離れたところでその様子を眺めていた。

 吉は今に至っても、兄が自分を嫌っているなどとは思えず、ぺこりとひとつ頭を下げた。

 父と共に村を出て、道を少し行ったところで、吉は山を振り返った。

 見れば、吉と仲が良かった者どもがこちらに向かって手を振っている。見送りに来てくれたのだ。


「おーい、おーい」

「達者でな~」

「オメのことは忘れねえよ~」


 吉は嬉しさと哀しさで胸がいっぱいになって、また涙が出そうになったが、ぐっと堪えた。隣に父がいるのも構わず、大きく両腕を振り返した。


「今まで、お世話になりました~!」


 影も一緒に大きく腕を振っていた。





 吉の奉公先は、【加児かご宿しゅく】にあった。街道沿いの大きな宿場で、【日ノ元市】の二つ手前にある。

 ここでも吉は「吉坊」だとか「吉どん」だとか、はたまた短く「吉」と呼ばれ、父が旅籠の主人夫婦に伝えた自分の名前を忘れてしまった。

 吉の仕事は水汲みや竈番、使いっ走りなどいわば下働きで、吉は日々いろいろな御用で追い使われた。

 時たま酷く叱られることはあったが、吉は平気だった。なにせ、毎回出る飯は稗や粟などではなく、真っ白な白米なのだ。吉にとっては毎日がご馳走だった。

 それでも、山で採れたあけびや木の実の味を思い出して、涙が出そうになることはあったが、いつも影が元気づけてくれた。

 吉は影と共に、日々懸命に働いた。

 旅籠に来てからも、吉にしか見えない者どもを見かけることはあったが、お山のみんなのように親しげに話しかけてくることはなかった。

 たまに人に紛れて客として来ることもあったが、吉はよほど忙しい時以外は客の前に出ることがなかったので、話す機会はなかった。

 宿場での生活に慣れないことはあったが、幸い困ったことはなかったので、餞別に貰ったお山の包みを使う機会は無かった。それはいつも吉の懐に、まるでお守りのように収まっていた。

 だがしかし、奉公に出て一年が過ぎたある日のことである。ついにその包みが役立つ時がきた。

 吉が井戸から水を汲んでいると、影がちょいちょいと手招きをした。見れば、なにかまるい物を手に持っている。

 影が持つ物はすべてなにかの影だから真っ黒で、吉にはそのまるい物がなんだか分からなかった。吉は自分の抱えているたらいを見たが、平たい形だからまるくはない。盥を地面に置くと、指差した。


「吉、それはなんだ?」


 影はひょいひょいとまるい物を投げ上げた。どうやら軽いらしい。まるで遊ぶように、まるい物を投げ上げている。


「吉、どこでそんな物を拾ってきたんだ?」

「おい」


 突然、声をかけられた。

 振り向くと、吉と同じような年頃の子どもが立っている。髪を耳の下でまるく結んだ「みずら」と呼ばれる髪型で、襟がまるく丈が腰ほどしかない上着と、膝を紐で縛った袴を履いている。

 これはこの島のいにしえの人々が着用していたとされる衣服で、今では誰も着ていないのだが、そんなことなど知らない吉は「変わった恰好のお人だなあ」と思うだけであった。


 ――お客様かな。


 子どもはどこか高貴な、吉の感覚で言えば偉そうな雰囲気がして、その証明のように腕を組んでふんぞり返っている。

 吉は使いっ走りに出る時以外は旅籠の奥から出たことが無く、こうしてお客に声をかけられたのは初めてである。

 いつにないことに緊張して、まごまごと指を絡めながら客に身体を向けた。


「んと、おらになにか、用ですか?」

「うむ。その方、我の鞠を知らぬか?」

「まり?」


 吉は首を傾げた。〝まり〟ってなんだ?


「投げて遊んでいたら、どこかへ行ってしもうたのだ」


 子どもは偉そうにしつつも、哀しげに長いまつ毛を震わせた。


「大事な物だ。とっても大事な物なのだ。どこを探しても見つからず、難儀しておる。なにか知らんか?」

「はあ……」


 吉はどうしたら良いのか分からず、助けを求めるように影を見た。すると影は、両腕を真上に伸ばし、まるい物を掲げていた。


「吉?」


 影は吉を誘うように、コクコクと何度も頷いた。

 吉は影と同じように両腕を上へと伸ばしてみた。すると、手になにか感触が当たった。驚いて腕を下げてみると、吉の手の中にはまるい物が乗っかっていた。

 大きな花のような形の刺繍が幾重にも施されたそれは、まるで花びらのように軽い。その美しさに、吉は思わず見惚れてしまった。


「それだ! 我の鞠だ!」


 その声にハッと夢から覚めたように、吉は目の前の子どもを見た。子どもの目は大きく見開き、輝いている。


「これが、探しもんですか?」

「そうだ!」


 吉は素直に、「どうぞ」と子どもに鞠を渡した。


「ああ、よかった! これがないと、我はここから動けなんだ」


 大事そうに鞠を抱えると、子どもは満面の笑みを浮かべて吉を見た。


「その方、助かった。なにか褒美を取らそう。なにがいい?」

「えっ」


 吉は戸惑って手をおろおろと動かしたが、やがて着物をキュッと握った。


「でも、お客様の大事なもんを見つけたのは、おらじゃありません。吉です」

「ふむ。吉とは誰だ?」

「おらの影です」

「ならば、影に褒美を取らそう」


 子どもは吉の影を見下ろした。その時、台所の方から鋭い声が飛んできた。


「吉どん! 水汲みは終わったのかい!」

「はぁい!」


 叫び返して台所から視線を戻すと、子どもはもういなかった。


「あれ?」


 キョロキョロとあたりを見回すが、どこにもいない。


 ――部屋にけえったのかな?


 まあ探し物は見つかったのだから、いいだろう。吉は水の入った盥を抱えると、台所へとすっ飛んで行った。

 その後は不思議な客のことなどすっかり忘れ、日々の仕事に追われた吉だったが、次の日、異変が起きた。

 朝起きると、生まれた時からずっと一緒、片時も離れたことのない影が、いなくなっていたのである。


「吉ぃ! 吉ぃ! どこにいんだぁ⁉」


 吉は必死の形相で旅籠中を駆け回った。いくら呼んでも、影は出てこない。庭へ駆け出したところで、宿の番頭に腕を掴まれた。


「おい、どうした! 静かにしろ!」

「吉が、吉がぁ……!」

「吉はおまえの名前だろ!」


 なんだなんだと、奉公人たちがぞろぞろ出てくる。

 吉は泣きそうな顔で腕を振り解こうとするが、大人の力に勝てるわけもない。番頭は吉を押さえ込むように、その小さな身体を引き寄せたが、足元に視線を向けると目を剥いた。


「か、影が……」


 腕の力が緩んだ。吉はすかさず振り解き、番頭から離れた。

 集まった奉公人たちを振り返ると、みんな吉の足元を見ている。影の落ちない地面を見て、みんながみんな驚き、なにか恐ろしいものでも見たような顔をしている。


 ――こ、怖い。


 吉は本能的に恐怖を覚え、その場から逃げ出した。

 がむしゃらに木戸に飛びつくと、そのまま旅籠を飛び出した。

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