6日目

6-1 『Yourself』

 沼岡歩夢にとって、抽冬陽葵という少女は唯一の友達である。

 南ケ丘小学校に入学した初日、まだ名前も知らない彼女を見た時に最初に思った感想は、美しいの一言だった。

 立ち姿も、歩く姿も、声も顔も。何もかもが周りの子とは少し変わっていた。たぶん、だれもが『異質』だと思っていたのかもしれない。

 私——沼岡歩夢は、シャイな性格だった。

 常に友達行動していないと落ち着かない。独りになることが何よりも恐ろしかった。

 保育園では多くの友人に囲まれた私も、小学校では誰一人として友達ができなかった。自分から話すことがないからだということは自覚していた。ただ、それ以前に遥山朱音という女子の下へ、他の女子生徒は流れていく。

 陽葵とは違ったものを持つ存在。当時は一括りに可愛いとしか思ってなかったが、今思えばそれは虚飾。ただの承認欲求の塊でしかなかった。

 同調される側の人間の私も、朱音たちに馴染めればそれでよかったのだが。どうもあの雰囲気の中に突っ込むことには抵抗があった。

 結局、誰と友達になる訳でもなく、キャラクターの書かれた筆箱をぼんやりと眺めていた。

 初日でクラスに馴染めなかった私は、クラスの中で浮いた存在として扱われることになった。

 沼岡歩夢なら言い返してこない、あいつになら何をやっても許される、あいつは面白い反応をしてくれる。どうせそんな軽い思いで私への虐めが始まった。

 男子に物を隠されては泣いて、足を引っかけられて転んで泣いて、並んでいた遊具に横入りされて泣いて——。

 そんな私への虐めを知っているのは、被害者の私と加害者だけ。クラスの大半の生徒はそんなこと気にも留めていなかった。もしくは、また歩夢が泣いてる、ぐらいだろう。

 いじめが始まった5月から1ヶ月が経ったある日、クラス遊びのドッジボールが開催された。

 参加する気なんてなかったけど、担任がクラスのこと馴染めるとかいう理論で私を強引に参加させた。

 クラスの中で私の存在は薄い。だから、誰も私を狙ってこなかった。避けてばっかいるうちに、いつの間にかコートの中の人の数も減ってきた。最後に私だけ残るなんて嫌だなと思っていた矢先、ぼーっとしていた私の腹部に豪速球が直撃した。

 私は呼吸が止まるようにうずくまったが、痛みは当たった瞬間だけで、痛みはすぐに引いた。

 呼吸がまともにできるようになり、立ち上がろうとしたその時、私の下へ駆け寄る人物がいた。

「ごめん、強く当てちゃった。けがとか、してないよね」

 駆け寄ってきたのは、私のボールを当てたであろう生徒。入学式の日に見た美しい容姿の生徒、抽冬陽葵だった。

「うん、大丈夫。陽葵ちゃん、ドッジ強いんだね」

 痛みもだいぶ引いてきて、差し出された陽葵の手を取って立ち上がろうとしたその時だった。

「うわ~、歩夢あゆちゃん泣かせた~」

 コートに残っていた生徒の1人、遥山朱音が飛んで行ったボールを持ってその場に立っていた。

 そのまま朱音は、持っていたボールを屈んでいた陽葵の顔面に向けて思いっきり投げた。陽葵は反動で後ろに倒れ、朱音は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。

 私はすぐに倒れた陽葵の下へ向かったが、肩をゆすっても反応はなかった。

「おい朱音、それはないだろ」

 クラスの男子たちはボールを投げつけた朱音たちと殴り合いを始める。その間、私はもう1人の駆け付けた生徒と一緒に、陽葵を保健室まで運んだ。


 昼休みが終わった5時間目。私と楓は遅れて教室に向かった。しかし、教室の状況を飲み込むのに時間がかかった。

 教卓に直立する担任、机で泣いている朱音、ダルそうに担任を見つめる男子たち。

「あの、どういうことですか、これ」

 担任の教師は、それを言うことすら面倒くさそうに私たちにそう言った。

 全員が揃ったということで、担任は改めて事情の説明に移った。

 まず、クラス遊びで陽葵が倒れた、と担任は言った。もう、この時点でおかしい。

 そして、その後にコートで喧嘩が起きてクラスの男子が朱音を殴った。だから、男子を叱った後だと説明したのだ。

「それは違います先生。陽葵ちゃんは倒れたんじゃなくて朱音さんにボールを投げられたから——」

「なんでみんな私を悪いモノ扱いにするの!」

 私の釈明の最中に大声で泣き出す朱音。圧倒的に悪いのはそっち側なのに、なぜ何の罪もない生徒たちが怒られなくてはならないのか。

 全てが最悪の空気のまま、その日は下校ということになった。それ以来、このクラスでドッジボールたる遊びが行われることはなかった。


「いつまで被害者面してるの?あなたのせいで私たちの遊びが減ったんだけど」

 最悪のドッジボールから1ヶ月経った日、朱音は唐突に陽葵にそう怒鳴った。

「おい、朱音、やめろよ。もうその話は終わっただろ」

「若田君は黙ってて、ねぇ、なんか言ったら?私、怒ってるんだけど」

 また喧嘩か、とさっさと帰ろうとしたが、渦中にいるのは親友の陽葵である。自分だけ帰るというのは卑怯な気がした。

「ねぇ、いつまで黙ってるつもり?」

「やめろよ朱音、さすがにやり過ぎてる」

 陽葵を殴ろうとした朱音を、間に入った男子が止めさせる。

「だいたい、いつまで引きずってんだよ。陽葵が何したんだか知らねぇけど、明らかにボールを投げつけたのは朱音だろ」

「へぇ、若田君はその弱虫の見方するんだ~」

 弱虫。自分の方が弱いから、他人を煽って自分を保とうとする愚かな女。

「えぃ」

 朱音は胸倉を掴んでいた男子を振り払い、腰から鋭く光るはさみを取り出した。学校で使っている、先が丸み帯びたタイプではない。

 困惑する陽葵を前にして、朱音は容赦なくはさみを振り下ろした。私も恐怖に襲われ、手で顔を覆った。

 音はなく、私の手に生暖かい液体が付着する。

 斬られたのは1人の男子の手首、周りにいた私やほかの男子の所にも血が飛んでいる。

「あんた、馬鹿じゃないの?普通、刃物の前に立ったら斬られるって分からないの?」

 人を斬ったのに驚きもしない朱音の姿に、その場にいた全員が畏怖する。

「俺がいなきゃ、今頃陽葵が斬られてた。手首の出血で済んだんなら、それでいいだろ」

 手首を抑える男子はとても痛そうだ。私は周りにいた男子と一緒に、その子を保健室まで運んだ。そして、職員室にいる先生たちも呼んだ。

 その事件以降、陽葵が学校に来ることは極端に減った。たまにお見舞いに行ってみたけど、その時は別段体調が悪いようには見えなかった。

 やっぱり、あの手首を斬られたのがトラウマになっているのかもしれない。


『ぎだい1:ぬく冬ひまりをクラスからおい出す方ほう』

 黒板に白い文字で書かれたそれを見て、私は心の中で煮えたぎる怒りをどうにかこらえていた。

 いますぐ教卓に立つあの女の顔面を殴ってやりたい。その一心だった。

 せっかく陽葵が来たというのに。たぶん、こいつらは陽葵が来たからこれを遂行したのだろう。担任は職務放棄で昼寝をしている。

「君は、このクラスの雰囲気を乱していま~す!」

 3階フロアにいる全員の耳に入るような大きな声で、朱音は陽葵に向かってそう言った。

 それを聞いた陽葵の目に宿っていたのは、怒りでも悲しみでもなかった。次の瞬間、陽葵は席を立ちあがって、教室から飛び降りた。この3階フロアから。

 急いで窓際に駆け寄って下を見ると、布団にくるまれた陽葵とサングラスをかけた保健室の先生が立っていた。

 そして、また陽葵は来なくなった。そして、これを機に若田君と朱音は毎日のように喧嘩を行うことになった。

 だから、私は今日も陽葵宛ての連絡帳にその出来事を書いた。本当は朱音の名前を出すのは嫌だったけど、さすがにネタ不足だった。

『きょうは、若田くんとあか音がけんかしました。ふたりともせんせいにおこられてた。若田くんはがんばってひまりちゃんをいじめないようにあか音たちに言ってたよ』

 小2の間、陽葵とは別のクラスになってしまったが、そのクラスの子に毎日陽葵が来ているか聞きに行った。結局、小2の1年間で陽葵が学校に来ることは1度もなかった。

 陽葵が来たというのを聞いたのは、小3になってからだった。

 ただ、生徒会に入ってしまったせいで陽葵に会いに行って話す時間は全く持って撮ることができなかった。

 放課後になったら話そうと思い、帰りの挨拶が終わるなりさっさと教室を出た。

「私の靴が無いの——」

「——ある訳ないでしょ、私が持ってるんだもん」

 靴箱の所で目にしたのは、朱音につるまれている陽葵の姿だった。

 状況を察するに、朱音が陽葵の靴を隠して陽葵が困っているといったところだろう。

 どうせ私が行けば解決する。あの時の自殺未遂みたいに、もう彼女を見捨てることなんてしないと心に決めたんだ。

「———ッ」

 動かない。足が地面と一体化したように、一歩も踏み出すことができない。

「動けよ...なんで」

 まるで金縛りのように、私の足が動こうとする素振りは見えなかった。

 ——遥山朱音が怖い。

 そんな脆弱な心の底にある弱さのせいで、足は硬直したままだった。

 愚図愚図しているうちに、陽葵は朱音から罵詈雑言の数々を浴びせられている。

「お願い。動いて、私は、また——」

 もう、見捨てたくないのに。

 足が動くようになったのは、陽葵が苦痛に耐えかねて逃げ出した時と同時だった。

「———。はぁ」

 喧嘩の一部始終を見ていた。また明日から、陽葵は来なくなることだろう。あいつらの手によって、あいつらの思い通りになる。

「歩夢、なんでこんなところで泣いてるの?」

 頭上から降りかかった言葉、そこには、大畑楓が立っていた。

『馬鹿ね。楓は傍からあなたの味方じゃないわ?小1の時、お前はお前が私の悪口を言ったことへの証拠を求めたわね。それはね、この大畑楓おおはた かえでが、私の下に告げ口してきたからだよ!』

 さっき、朱音が言っていた言葉が急に脳内で蘇った。

 そして、私は思いっきり楓の顔を殴った。

「急に何?」

 涙目で頬を抑える楓に向かって、私は最大限の怒りと憎悪を込めて言った。

「最悪だな、お前」

 転がる楓の薄紫のランドセルを蹴り飛ばし、私は急いで陽葵の後を追った。


 雨の降る街道を私は必死に走る。私と陽葵の通学路は途中まで同じだ。でも、そのどこにも陽葵の姿はなかった。

「どこに行ったの、陽葵」

 通学路の途中にある分岐点、自分の通学路とは違う方に向かって走る。

 陽葵のお見舞いに行く時に何度か若田君と遊んだ公園。排水溝には微かな吐しゃ物の跡、そして荒れ果てた土。

「お前、なんでここにいんの?通学路違くない?」

 後ろから聞きたくない声が降りかかってきた。

「——お前らも違うじゃん。人に言える立場じゃない人間が何を」

 あの時、陽葵を見捨てた自分とは違う。もう、大好きな人を見捨てるようなことしてはいけない。私がここで、仇を討たないと。

「なに?お前もあいつと同じ目に遭いたいの?」

「誰もそんなこと言ってないんだけど」

 朱音は背が高いから見下してくる。私も負けじと睨み返す。

「——いちいち口答えしないでくれない?」

 朱音が私の肩をどついて、私は公園の土にしりもちをつく。辺り一帯に泥が跳ねる。

「ねぇ、私のワンピースに泥がついたんだけど。弁償してくれんの?」

 私の口角が不意に上がった。無意識のうちにこみ上げてくる復讐欲。

「2度と被害者面すんじゃねぇぞ!悪魔女」

 私は泥を手に握り、正面に立っていた朱音の白い服に向かって投げつけた。

 泥は白い服を一瞬で茶色く染め上げる。どんだけ洗ったとしても元の白色に戻ることはないだろう。

 自分の汚れた服を見て、その場にしゃがんで泣き出す朱音。

「それはひどいわ」「あり得ない」「同じ目に遭わせてあげないと」

「黙んないとまた投げるよ?」

 私の手に握られた泥を見て、朱音側についている女たちの顔が引きつる。

 人を卑下する人間を見下すのがここまで快感だとは思わなかった。

「どうだ、いじめられる気持ち」

「私、こんな酷いことしてないし」

 悪びれもない朱音を見て、私は呆れた気持ちに支配される。なんでこんな女に構っているのかと。

 私は泣いたままの朱音たちをそのままにして、自分の通学路についた。

 あいつも泥だらけだが、自分も相応に泥だらけである。母親にこれまでにないほど叱責されたが、事情を説明したらこれまでにないほど嬉しそうな顔で私をお風呂に向かわせた。

 湯舟に浸かりながら、結局のところ陽葵を見つけることができなかったなと後悔した。


 やっぱり翌日から陽葵は来なくなった。

 肝心の朱音たちが私をいじめてくることはなく、学校にもチクらなかったのか、私が叱られることもなかった。

 あの事件以来、中学校に上がっても、高校に行っても、陽葵がどこに行ったのかは分からないままだった。彼女のことを忘れた日はないし、元気にやっているか不安でもあった。

 彼女と繋がりが深かった五十嵐先生。何度か会う機会があったが、先生が語っていたのは、朱音とは別の進路へ進んだ、ということだけだった。


 そして、あの日、陽葵と再会した。

 朱音がいたのは不服だし、私が死んだことにされたのにもイラっとしたけど。やっぱり親友との再会は嬉しかった。ドタバタのせいで全く話すことはできなかったけど。

「——最高の親友だよ、陽葵」

 旧家屋の布団の中で、少年君と抱き合いながら寝る陽葵。その顔は、あの時の虐めに押しつぶされそうになっていた時とはまるで違っていた。

 この2人の間にどんな物語があるのか、私は知らない。2人が相思相愛だってのは知ってるけど。

「もしかしたら、真に陽葵を救ったのは少年君だったのかな」

 まぁ、計算すればあの雨の日、少年君はまだ小1だ。さすがにそんなわけないかと思いつつ、あんまり否定的にはなれなかった。

 やがて少年君が目を擦りながら起き上がった。

「——おはよ、少年君」

「お、おぅ」

 顔を洗うために洗面所に向かう少年君を見送って、私は未だ眠る陽葵の柔らかい頬にキスをした。

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