4日目

4-1 『Outflow』

 五十嵐の提案でレンタカーを借りたはいいものの、案の定渋滞にはまることになった。

「この紋章、カルト集団のものだ」

 円形の中に星のような模様。更にその中に小さな丸とそれを縦に貫く1本線。隈田を殺した大畑楓が首にかけていた飾りだ。

「確か名前は『ナモナキ』。集団の人数から目的まで、詳細は謎に包まれている組織」

 そうか、ナモナキか。俺の記憶の中で引っかかっていた何かが解けた。

 あの日、すべてを壊した集団のことを。

 ——封印してた記憶の蓋が開け放たれた。


 —7年前—

 今日は休日の土曜日。しかし、教員である父の姿はなかった。学校の先生だから忙しいということは知っていたから、別に何とも思わなかった。

 ただ、最近は父がいない日になると母の機嫌が悪くなる。教員である父は家にいる日の方が珍しい。そんな父の口癖は「家族でどっか行きたいね」だった。

 父は放任主義者で、俺に怒鳴ったり激怒して叱ることはなかった。ただ口頭で注意をするだけ。無駄なことには介入しないのが父の生き方だった。

 一方は母は、俺に対していつも怒鳴り散らかしていた。朝食を食べるのが少し遅れただけで、「早く食器洗いたいんだけど」と悪態をついてきたり。自分から買い物について来てと言ったくせに「歩くの遅いんだけど。早歩きできないの?」と言ってきたり。母はちょっとしたことでもすぐにキレる人間だった。

 けど、優しい日だってもちろんあった。本屋に行く時と理髪店に行く時だけは、母は温厚な性格になる。だから、俺は本を読むことと髪を切ることが好きだった。

 将来の夢だって、理容師になろうと決めていた。

 父と母の性格は全く違うが、2人が喧嘩をする様子は1度も見たことがなかった。ただの仲のいい夫婦のように思えた。

 しかし、突然家族の間に亀裂が入ることになる。

「しつこいって言ってんでしょ⁉」

 ある日の朝、俺は母の怒鳴り声で目を覚ました。寝室を降りてリビングに行くなり、母と父が喧嘩しているのを目撃した。

「しつこいもなにも、これは明らかにおかしいだろ。春陽のことも考えたらどうなんだ」

 俺は階段越しで身を潜めて喧嘩の行く末を見守ることにした。第一、俺が言ったら母はもっと怒るだろう。

 父がテーブルに叩きつけたのは、何かの紙束だった。後に分かることになるが、それは坂神家の通帳である。

「今月だけで40万、訳の分からない組織に金をかけて。お前は息子とその団体のどっちが大切なんだよ」

「この40万は未来への投資なの!来年には倍になって返ってくるって——」

「そんな上手にできた話がある訳ないだろ」

 俺はようやく、2人がお金関連のことで揉めていることに気が付いた。

 そんなことをしていると、玄関のインターフォンが鳴らされた。舌打ちをしながら父が階段を上がってくる。その拍子に隠れていた俺は見つかってしまった。

「春陽、聞いてたのか」

 父は母にはうんざりだといった表情を浮かべて、イライラしながら玄関のカギを開けた。

 現れたのは黒いスーツを着た若い男。見覚えのない人物だ。

 父はそいつの顔を見るなり、いきなり掴みかかった。

「お前らがうちの金を勝手に徴収するバカたれか!2度とお前らみたいなインチキ組織に金なんか払わないからな!」

 いつもはボケっとしている父がここまで怒っているのを見たのは初めてかもしれない。

「お父さん、もういいから」

 母は父にそう言い残して、自分の愛車に乗ってどこかへ行ってしまった。父は舌打ちをしてリビングに帰っていく。

 これはまずいことになった。そう思った俺は、取りあえず近くにいる知り合い、秋葉史人のいる港屋書店へ向かった。

 俺は藁にも縋る思いで秋葉の爺さんに助けを求めたが、彼から帰ってきた言葉は「がんばれ」の4文字だった。

 俺は少しでも2人に話す時間を設けようと走って返ったのだが、駐車場には父の車さえも無くなっていた。

 幸い、玄関の鍵は開いており、リビングの机の上には1枚の紙が置かれてあった。

『出てく。父より』チラシの裏に殴り書きで書いた文字。

 こうして、俺は家族に捨てられることになった。

 そして、ある日の夕飯の時に母が40万で買ったと自慢してきた首飾り、その飾りのも例のマークが象られていた。

「ナモナキ者たちと、聖なる夜は目前にあり」

 母が朝、家の鏡に向かって唱えていた謎の言葉も俺は覚えている。


「つまり、坂神春陽が捨て子となったのは、ナモナキを信仰する母とそれに反対した父の決別が原因というわけか」

 五十嵐はそう言って話を締めくくった。

 依然として車は数メートルしか進んでおらず、渋滞が終わる気配はなかった。

「でも、なんで五十嵐先生はナモナキのことを知ってるんですか?詳細なんて分からないって言われてるのに」

 歩夢の質問に、五十嵐は暗い顔をしてため息をついてから答えた。

「私は過去に、幼き頃のナモナキの創設者と会っている。そしてそいつは言っていた——」


「人間は愚かです。だから、私が一から創り直す」


「私は彼女を止めることができなかったし、警察に突き出そうも逃げられた。後悔しているよ。彼女の目標は、同じ思想を持った同志たちを動かし、全ての人間を殺戮すること」

 それが、ナモナキの目標。

 「恐らくナモナキは一般人に紛れ込んでる。そして、この隕石騒動に乗じて大量殺人を犯すつもりだろう。第1に、大畑楓だってそうだった」

  渋滞にはまって3時間。時刻は零時を回っていた。つまり、隕石の追突までの残りは今日を入れてあと4日。

「君たちは寝ると言い。私は渋滞を抜け次第、目立たないところに駐車するとしよう」

 五十嵐がそう告げ、歩夢と先輩は後部座席で眠りについた。

 しかし、俺は一向に練れる気配がなかった。目が冴えてしまっている。

「ナモナキの創設者、どんな子だったんですか?」

「真面目な人物だった。率先して物事を行うというより、1人直向ひたむきに着実に物事を成し遂げる子だった」

 話を聞いた限りではただの優等生と言った子だ。なのに、それがどうしてナモナキなんて言う組織を生み出す発端になったのだろうか。

「お、ここでいいだろう」

 渋滞がスムーズになり始めたところ、人気の少ない公園を見つけた。五十嵐はそこに車を停めた。

 やがて五十嵐も眠りにつき、車内で起きているのは俺だけになっていた。

「——ナモナキの、創設者」

 楓と言い親を決別させた原因と言い、俺の人生を狂わす枢軸としか思えない。恨むべきはナモナキなのかもしれない。そんなことを考えているうちに、俺も眠りについた。



 丘の上にいるのは300人を超える人間である。

 暗い夜に擬態するかのように、皆が皆黒い服を身に纏っている。

「今宵、ここに集いし同志たちよ。天からの啓示は現実となった。今こそ、天に我らの願いを伝えるべき時」

 300人ほどの集団をまとめる女だけ、周りとは違う全身赤のローブを纏っている。女は用意された台に乗って、両手を迫りくる隕石に向けて大きく開いた。そして、フードを外した女は唱えた。

「ナモナキ者たちと、聖なる夜は目前にあり」

『ナモナキ者たちと、聖なる夜は目前にあり!』

 女の言葉に続けるようにして、信者たちが次々に言葉を発する。

 女はどこからか取り出した赤い宝玉の宿る杖を振り回し、やがて地面に叩きつけた。それと同時に、信者が発言を止める。

「さぁ行け、天の子よ。愚かな人間を一掃なさい」

 女の命令を受けて、300人ほどいた人間は瞬く間に散っていった。

「聖なる夜まであと少し、この世界は確実に生まれ変わる。穢れを一掃し、生まれ変わった人間によってこの星は再創造される。そのための、殺戮の夜だ」

 女は隕石を見ながらそう唱えた。本来あるべき姿からかけ離れた『優等生』の皮を被らされて生きてきた少女の成れの果て。



「こちら、東京都上空ですが、各地で混乱が起こっているのが見えます」

 レンタカーのカーナビに映るテレビには、首都の悲惨な状況が報道されていた。

「ナモナキによる大量殺人。奴らの言葉で言えば『浄化計画』とやらが始まっているようだな」

 五十嵐はテレビをつけたままにして、車を旧国道の市街地に向けて走り出した。

 テレビの情報によれば、昨晩のうちに全国で40万人以上が犠牲になっているという。

「彼女の言っていたことが実現してしまうかもしれないな」

 五十嵐はナモナキの創設者の蛮行を止められなかったことを改めて公開したが、もう手遅れなことに変わりはなかった。

 旧国道に広がる光景は異様なものだった。電線の切断によって信号機は機能しておらず、車に搭載されたAIですら正常に機能しなくなっている。

 通りすがりにあるコンビニは車が突っ込んでいたり、強盗のアラームが鳴りっぱなしだったり、どこもかしこも荒れ果てていた。

「人間は愚か。確かに、彼女の言っていることに間違いはなかったのかもしれないわね」

 全てが終わると分かれば、自分だけが生き残ろうと他人を考えずに行動する。人は窮地に至った時、本能を優先して秩序を無視する。

 規模は違えど、状況はあの時と同じ。

「——彼が選んだ選択の先に待っていたのがこれとはね」

 結局は皆が皆、自分自身が大切なのだ。自分さえ最後まで生きていればいい、他人のことなんかどうでもいい。それが積み重なって、この惨状が構築される。

 無論、彼女を擁護するつもりはない。秩序の統制をおこなうのは民間人の仕事ではない。

「ねぇ先生、お腹空いたんだけどお菓子ないー?」

「ある訳ないだろう」

 まともに取り合ってもらえなかった歩夢は「ちぇー」と言いながらスマホに目を落とした。

「でも五十嵐さん。現状だとコンビニとかで食料を手に入れるのも困難なのでは?」

「そうだな。飯を得るのにもしのぎを削る必要が出てきそうだ」

 さっきから車内で流れているニュースの中には、商品を輸送中のトラックまでもが襲われる事件も発生しているという。いよいよ世の中に混沌の渦が発生し始めたといったところだ。

「それにしても、あんな大きな隕石、撃ち返せるわけないよねー」

 旧国道は海沿いを行く。その海の真上には青い巨大な星が見える。まるで映画のような光景が目の前に広がっていた。

 五十嵐が車を停めたのは、車が全く走っていない見晴らしのいい丘の上だった。

 瀬崎町とも大西町とも違う田舎町だった。

「私とはここでお別れだ。私は元々、ナモナキを動かす女を追ってこの街に来ていたんだ。たまたま通りかかって、君を救えて本当に良かった」

 衝撃の真実をさらっと打ち明けた五十嵐はそう言って、陽葵と握手を交わした。

「先生...また、会えますよね」

「——あぁ」

 五十嵐は最後に大きく頷いて、車を走らせてどこかへ行ってしまった。

「この先、集落があるみたいだよ」

 歩夢が道沿いにあった木製の看板を指さしてそう言った。

 3人は取りあえず、その集落へ向かおうと道を進んだ。



 駒込梨亜こまごめ りあ。それこそ、ナモナキを動かす女の真の正体だ。

 私は養護教諭になる前に、中学校の理科教師として務めていたことがあった。

 彼女はいつも、理科のテストで高得点を維持していた。理科以外の教科も学年1位を独占するほどの知能を有していた。

 私が彼女について違和感を持ち始めたのは、彼女が中2になったある日のことだった。

「先生、人を洗脳できる薬品って、この世に存在するんですか?」

 彼女は虚ろな目をして私にそう聞いてきた。

 4時間目の終了ともあって、理科室には私と彼女しか残っていない。

「君の言う洗脳は、人の記憶を消し、自分の意のままに動かすことを言っているのか?」

「はい」

 彼女は至って真面目な表情でそう言っていた。とても、少女の悪ふざけと言った様子ではない。ただ、私の教師としてのスタンツとして、生徒にはどんなことでも向き合うというのがあった。

「実際、そんな薬は存在しない。仮にあったとしたら、化学兵器として利用されているだろう」

「そうですか。有難うございます、先生」

 彼女が去り際に見せた異質な微笑。私はそれ以来、彼女を少し意識するようになってしまった。今となれば、その時点で彼女が狂っていた可能性は高い。

 私と彼女には異様な繋がりがある。彼女が中3になったある日、私と彼女を含めた数人が半ば強制的に謎の施設に収容されたことがあった。

 そんな中で仲間割れが発生した。仲間同士が殺し合う、そんな無惨な状況を前に彼女はこう言った。

「人間は愚かです。だから、私が一から創り直す」

「確かに、こうして自分だけが生きる為に他人の命すらも蔑ろにする人間は愚かなのかもしれないな」

 彼女は私の傍らで、人の殺し合いを見つめながら永遠に微笑を浮かべていた。

 実際、その施設から逃れることができたものの、彼女はその翌日から不登校となった。

 彼女のことを心配した担任が彼女の家を訪問するも、彼女の家は火事で全焼した後だった。それから、教師ですら親とも連絡が取れなくなったという。

 それから数年後、私は転任先の学校で1度彼女に出くわした。

 あの時よりずいぶんと大人びていたが、彼女の頬に残る十字の傷跡はずっと残っていた。

「なんで君がこの学校に?」

「先生、私は夢を叶えた。私が、真の創生者」

 彼女はそう言って姿を消した。同日、学校の屋上で女子生徒の遺体が発見されたと騒ぎになった。警察の捜査の結果、自殺するために屋上へのドアを破ったが、その後何者かにナイフで刺されて殺されたらしい。

 彼女と出くわしたのは、屋上に繋がる階段のすぐ傍だった。

 私はそれ以降、教員を止めてひたすらに彼女を追っていた。

 そんな最中に隕石騒動が発生し、抽冬陽葵と再会した。彼女らと関わったおかげでナモナキの品をゲットすることができたのだから結果幸いと言えよう。

 旧国道の終端、広場には複数の黒い服の集団が集まっていた。

 広場の中央には両手を天に掲げる赤い服の女が1人。他の黒服は皆、その女に向かって土下座している。まるで新興宗教のそれだった。

 黒服たちに近づくなり、鼻を突くような血の匂いがした。それもそのはず、こいつらは昨晩のうちに何十人という数の人間を殺しているのだ。

「久しぶりだな、駒込梨亜」

 赤い服の女——駒込梨亜は、私を見るなり着けていたフードを外してお辞儀をした。

「お久しぶりです先生。今日はどうかされたんですか?」

 相変わらず、女としては美人の類に入る容姿。モデル体型といえるほどの細い体。常識のある人間として生きていれば、今頃幸せな家庭を築いているだろうに。

 私は彼女の顔を見て少し後悔しながら、白衣から拳銃を取り出した。

 無論、私の物ではなく、死んだ隈田の物だ。


 全ては焼却場の1件の直後だった。

 自殺を図ろうと1人で去った坂神春陽。それを追う抽冬陽葵と沼岡歩夢。2人が去った後で、私は炉の火を消して捜索した。

 探してみたら驚いた。存在していた白骨死体は1人分しかなかった。

 隈田は炉の端に落ちて命は無事だったのだ。

 炉の壁に腰かけるようにして、隈田は太腿からの出血を止血しようとしていた。

「隈田芳晴、生きていたのか」

「そんなことはいい。お前、その瞳に宿る後悔と復讐心の正体は何なのか教えてくれ」

 隈田は止血を終えて、立ち上がって足が動くか確認しながら私に聞いてきた。

 だから私は、過去に起きた駒込梨亜との1件を隈田に話した。

「自分の生徒がカルト集団作ってそれの罪滅ぼしか。だからって、どうせ終わる地球で人殺しなんてしても意味ないんじゃないか」

「私の気持ちの問題だ」

 隈田は倉庫の騒動の時に、"元”暴力団と言っていた。彼にもその気持ちが伝わったのか、彼はポケットから拳銃を取り出した。

「残弾は1発。外せば終わりだ。勝手に使え」

 隈田はそう言って、ケガした右足を引きずりながら焼却場の外へ向かって歩いて行った。

「きっと春陽は俺が死んだと思って自殺する気だ。それだけ伝えておく」

「隈田芳晴、お前はどうするんだ」

「地球が終わる。まだ息子の墓参りが済んでないんだ。それに、最後ぐらい嫁と一緒に暮らすさ」

「それで、息子のように育てた坂神春陽を捨てるのか?」

「捨てたんじゃねぇ。あいつは、もう大丈夫だろう。きっと、あのお嬢ちゃんが支えてくれるさ。それに——」

 最後に隈田は振り返って言った。

「地球が終わる前に、あいつに『自律』ってもんを教えてやりたかったんだよ。俺から教える、最後の教育を」

 逆光のせいで顔は全く見えなかったが、それが彼を捨てた『言い訳』ではなく、『理由』だということを理解するのに時間は要さなかった。


 そんなこんなで手に入れた拳銃を、かつての生徒に向けていた。

「そんな物騒なものを取り出して。私を殺す気ですか?」

 駒込梨亜は、こんな状況下でも至って冷静な声で言った。

「おもちゃじゃない。それにも関わらずお前はビビらないんだな」

「玩具じゃないことぐらい分かりますよ。それに、私は殺されて当然の人間ですから」

 彼女の放った言葉に私は驚いた。

 今まではただ単純に自分が神にでもなった気分で狂気のように人殺しをしていたと思っていたが、まさか自覚があるとは。

「私も、ここにいる人々も、愚かな人間なのは自負しておりますとも。私たちだって、聖なる夜を超えた特異点の存在じゃない」

 駄目っぽい。こいつ完全に宗教的な考えに囚われてしまっている。

 梨亜は私が油断した隙に、広場から海の方へ向かって走り出した。若いだけあって速いが、私も負けじと彼女を追った。

「どこまでも私の邪魔をするんですね」

 私に追い詰められて断崖に立たされた梨亜はそう言って。

「唇が震えているわね。あなたにも人間味があって安心した」

 後ろには崖、目の前には銃を持った人間が立っている。これ以上ない窮地。それは私にとっても同じことが言える。

 目の前には多くの人間を動かせる女、私の背後には彼女が洗脳した信者たちが迫っている。

「今すぐにその銃を下ろしてください」

 私はゆっくりと一歩を踏みしめて、彼女との距離を詰める。

 彼女の瞳にかつての優等生を目指す光は宿っていない。今の彼女の瞳は、歪んだ信仰心とそこから来る紅蓮の殺意に満ちている。

 私と梨亜の距離がゼロになった時、私は銃を下した。

「駒込梨亜。もしも君にまだ、善なる心が残っているなら、こんな殺戮活動をやめてくれないか」

 分かる。さっきまで彼女の瞳に宿っていた信仰心が揺らいでいるのが。彼女の心のそこには、まだあの時の純情が残っている。

「先生、私、ずっと救ってほしいと思ってたのかもしれないです」

 彼女から殺意は消えて、その目から大粒の雫が流れる。

 この子も、坂神春陽と同じ捨て子だ。しかも、この子に限っては訳の分からない施設に預けられていたことも調べて分かった。

 きっと、こんな虚構の日々から抜け出したいとずっと思っていたんだろう。

「先生、私...」

 駒込梨亜は私の腰に手を回してこう言った。

「——狂っちゃったの」

 泣き崩れる駒込梨亜は海に倒れるようにして、私を抱えたまま力を抜いた。

 私も梨亜も、冬の荒波に揉まれることになる。

「ここでお前と息絶える。絶対に離さないとも。それが、君への教育を見誤った私に課されたカルマなんだから」

 口に海水が入ろうが泣き続ける梨亜を、私はずっと離さなかった。

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