3-3 『Traitor』

 この上なく最悪な状況に陥っている。

「ねぇ、体が水浸しだと寒いんじゃない?お姉さんと一緒に行こうよ」

 人さらい以外の何物でもないセリフを吐き捨てる女。背後の道路に目をやれば、こちらを怪しく見つめている黒い服の男たちが見える。

 女が一歩ずつ俺の方に近づいてくる中、聞き覚えのある古臭いエンジン音が聞こえた。

「おい春陽、さっさと来い」

 すぐ近くにある橋の上で、車から身を乗り出した隈田がそう叫んでいる。しかし、ここで隈田たちの元へ向かったとしても、俺はこの女に捕まるのが命運だろう。

「なんでお前がここにいるの?」

 橋から降りかかってきたのは女の声。先輩の友人である沼岡歩夢の声だった。

 隈田たちは状況を把握したのか、みんな橋の下に降りてきた。

 それと同時に、楓の奥に張っていた黒服たちもこちらへやってきた。

「大畑楓、——裏切者だね」

 歩夢はいつもの明るい声とは裏腹に、怒りを込めた低い声でそう言った。どうやらこの女は、先輩の過去に通じる人らしい。

「裏切ったなんて人聞きの悪いこと言わないでくれない?私はただ、自分が正しいと思う方の味方に付いただけ。なにも、陽葵ちゃんに直接害を加えたことなんてないし」

 楓は私は悪くないという主張を貫き、歩夢の爆発寸前だった怒りの業火に油を注いだ。

「ふざけないで、お前は陽葵の心を傷つけたじゃない。陽葵は、あなたをずっと心の支えにして生きてたのに、お前はそれを最後の最後で裏切った。陽葵の純情を裏切った」

「勝手に心の支えにしたのはそっちでしょ?悪いのは私じゃなくて、勝手に期待した側の責任でしょ」

 楓と歩夢が互いに睨み合い、場の空気は完全に凍り付いている。

 これ以上この場にいても、無駄な時間が生まれるだけだ。さっさとこの場から引き下がるのが最善の一手な気がする。

「隈田、行こう」

 隈田は頷き、引き下がろうとしない歩夢を先輩が引っ張って車の方へ連れて行くが——。

「待ってよ、私はこいつじゃなくてそこの男の子に用があって来たんだけど」

 俺はそんな言葉を無視して隈田の後に続いたが、後ろから力強い何かに引っ張られる。

 俺の腕を掴んで身体を拘束しているのは、楓が連れていた黒服の男たちだ。

「おい、春陽を離せ!」

 俺を掴んだ男に向かって隈田がさらに掴みかかろうとするも、もう一人の男によってそれを阻まれる。

 そのまま俺は何もい抵抗できずに、男たちの車に乗せられた。


 車はリムジンに近いものだった。広い車内なのに、俺は男2人に挟まるようにして座らされたため、非常に窮屈きゅうくつだ。

 でも、座面はとても柔らかく。空調も程よい温度に調節されている。

「あの黒い外車をいて、旧国道246号に出て」

「仰せの通りに」

 運転手の若い黒服は頷き、リムジンをUターンさせて旧市街地に向かって走り出した。

 新しく整備された国道を使わずに、あえて旧道を使ったということは、既に街中で混乱が起こっていることを示唆しているのだろう。それとも、渋滞に構っていられないという焦燥感からなのか。

 リムジンは旧国道を少し進んだ先の細い路地に右折した。しかも、その先はコンクリートの舗装すらされていない獣道だった。

 道が悪く車体自体は揺れているが、柔らかい座面のおかげで不愉快さは感じられない。

「いったい俺をどこに連れて行く気なんだ?隈田たちを撒いたとしても、あいつのことだしナンバープレート特定してると思うぞ」

「そこについては問題ないわ。偽装プレートだもの」

 楓は怪しげな笑みを浮かべて俺を見た。ずっと気になっていたが、こいつの首飾りの紋章を俺はどこかで見たことがある気がする。

 円形の中に星のような模様。更にその中に小さな丸とそれを縦に貫く1本線。

 リムジンは山の上に建つ赤レンガの建物の前で停車した。赤レンガの建物から伸びる1本の煙突から察するに、ここはごみ焼却場だろう。

「——さぁ、着いたわ。計画通りにやって」

 楓の命令を受けて、大柄な男たちが俺の体を拘束する。

「お前、誰の命令で俺を殺そうとしている?そもそもお前は何者だ?」

 楓は扇子を仰ぎながら微笑するばかりであった。

 焼却場の中は埃臭い空気で包まれていた。機械類は錆びれており、ずっと前に使われなくなった施設だろう。

 そもそも最近では焼却場なんて言葉すら聞かなくなった。時代がリサイクルの波に呑まれて、この施設もここで働く者の仕事もなくなったのだ。

 黒服たちは俺をコンクリートの床に叩きつけ、分厚い紐で俺の手と足を縛った。そして、男が電源を押すとともに、ベルトコンベアーが動き出した。

 男は俺をコンベアーに乗せた。目の前にはごみを焼く業火が爛々と光っている。

「あなたはあと2分で灰になるわ」

「教えてくれる気はないんだな、お前が何者なのか」

 楓は黙ったまま、俺の視界から消えた。

 足元からゆっくりと熱が伝わってくる。隈田が順調に追ってきているとしても、2分で辿り着くことはできないだろう。あいつが乗ってるのは普通車だし、小回りが利くわけじゃない。

「せめてでも、抗うか」

 いもむしのように体をくねらせて、少しでも炎から逃げようとする。もちろん、ベルトコンベアーの加速の方が早い。

「——無理か」

 視界のすぐ先には燃え盛る炎の海が広がっていた。


 地球の終了間際に外車の修理を請け負ってくれるところなんてないだろう。

 隈田はそう確信していた。そして何より、こんな車より春陽の安全の方が最優先だった。

 あいつらの車は獣道に入っていった。しかし、車は獣道どころか道すらない山の中を突っ切った。

 地図に表示されている限り、この道の先は行き止まりでなにもない。ただ、迷が言うに、この先には昔使われていたごみ焼却場があるらしい。

 草木がフロントガラスにぶつかり、泥が跳ねて、車内が揺れる。

 突如として開けた視界に現れたのは、赤レンガのごみ処理場だった。しかも、煙突からは煙まで出ている。

 隈田は車を降りるなり、銃でベルトコンベアーの制御盤を破壊する。それと共に音を立てて動いていたコンベアーは停止した。

「おい春陽!いるなら返事しろ!」

 隈田は梯子はしごを登ってコンベア―の先を見る。

「これ見っけてなかったら今頃死んでるわ」

 春陽はベルトコンベアーの先端で、体の半分が炉に落ちる形で止まっていた。

 春陽は諦めようとした時に、たまたま壁に突起があるのを見つけた。春陽はそれを利用して、自分の手を拘束していた紐を突起に引っ掻けたのだ。

 春陽の落ちかけていた体を隈田が引っ張り上げ、どうにか春陽の保護には成功した。

「つまらないわ。結局、助けが間に合っちゃうなんて」

 背後から声がしたと思えば、コンベアーに立っていたのは消えたはずの楓だった。

「お前、何のためにこんなことしてるんだ?それにその服と言い車と言い、高校生のお前が用意できるほどのものじゃないだろ」

「———黙れ」

 

 こちらに向かって一歩踏み出した楓は、隈田を蹴り飛ばした。

 顔面を蹴られた隈田は、体の重心の傾きと共に業火の中へと落ちて行った。

 春陽は隈田が落ちて行った炉の中を呆然と見つめていた。

 親に捨てられた春陽を育て上げた義理の親が、訳の分からないほぼ初対面の女によって殺されたのだ。

「どうして、どうしてあなたはそんなに冷静でいられるの?大事な人が、死んだというのに」

 楓は好奇心に満ちた——否、赤き殺意にたぎる目をほとばしらせながら春陽を見る。

「知りたいか、なんで俺がこんなに冷静でいられるのか」

「えぇ、知りたいわ。あなたがそこまで平常心を保っているられる理由が――」

 春陽は楓の首飾りを掴んで、立ち位置が入れ替わるようにして楓を炎の海に叩き落とした。

 春陽の大事な人を葬ったのと同じように。同じり方で、同じ殺意を込めて。

「俺は冷静なんかじゃない。お前を殺せる機会を伺ってただけだ。お前は誰にも見つけられぬまま、地球と共に滅んでく。味方などいない、1人で、ただ独りで滅んでくんだ」

 春陽はそう言い残して、自分の手に残った首飾りに目を落とした。まだ、どこで見たのか、なんの紋章なのかは思い出せない。

 さらに追手が来ることを恐れた春陽は、早々にベルトコンベアーから降りた。

 焼却場の駐車場では、車内で待機している陽葵たちと、地面に倒れた黒服たちがいた。

「無事だったか、坂神春陽。ところで、隈田芳晴はどうした」

「——殺された。大畑楓によって。そしてその大畑楓も、俺が殺した」

 五十嵐の言葉に冷たく答えた春陽の言葉に、一同は絶句するのみだった。

 車の電気は底を尽きており、黒服たちが乗っていたリムジンも姿を消していた。

 最悪の空気に包まれる中、春陽だけが獣道を下って行った。

「おい、坂神春陽。お前に行く当てはあるのか」

 春陽は五十嵐の言葉を無視して、1人で坂を下った。


 所持金はもちろんゼロ。海に飛び込んで濡れた制服は炉の熱でいつの間にか乾いていた。

 所持品は、身に纏っている制服と手に握る首飾りだけ。

 車通りも少なくなって、改修工事もされていない地盤の悪い旧道をゆっくりと歩いてた。

 隈田は暴力団にいたわけだし、いつでも死ぬ可能性があった。そんなこと、ずっと前から知っていたし、彼自身が俺に忠告してきたことだった。

 だが、いざそれがいなくなったとなれば、心に開いた穴は大きなものだということに気づかされる。

 隈田は、最低限度の生活すら保障されてない俺に、最低限度の生活を与えてくれた。最低限度の飯と、最低限度の洗濯と、贅沢な進学援助。

 いつの間にか、俺の周りには田園風景が広がっていた。さっきまで横を通っていた車も、忽然と辺りから消えていた。

 季節は冬。田んぼに稲がなる訳でもなく、寂しい風景が地平線の彼方まで続いていた。

 でも、なんだかんだここが1番落ち着くところなのかもしれない。

 俺は車通りの少ない旧国道のど真ん中で大の字に寝転がった。

 空は暗くなり始めている。空の上には青い隕石。もうクレーターがぼんやり見える大きさになっている。

「隈田、俺はもうバッドエンドだ」

 よりにもよって、自分の最期を見守っているのが大事な人を殺した犯人の遺品だなんて。

 川を流れる水は非情な心のように冷たかった。少しでも死を遅延させようとする寒さなのか、ずっと手を水に漬けていると感覚が麻痺していく。

 両手を触っているはずなのに、触れている部分は何故か痛い。

 綺麗な小川に顔を漬ける。手で寒さに慣らした後だから、そんなに冷たく感じなかった。

 次第に呼吸は困難になって、口から生気を宿した気泡が溢れていく。

 あと少しで意識が途絶えそうになったところ、俺は何かに抱かれるようにして水から引き上げられた。

 一瞬で感覚が戻り、冬の風が顔についた水をさらに冷やす。

「なんで、そんなこと、するの」

 水のせいで視界がぼやける中、しっかりと、先輩の甘い香水の匂いがした。

 俺を引き上げたのは歩夢、今俺を正面から抱きしめているのは先輩か。

「春陽君?」

 先輩は、俺の意識を確かめてから不安そうな表情を浮かべている。愛している人が入水自殺なんてしようとしたらそんな表情にもなるか。

「先輩、俺、どうしたらいいのかな」

 俺がずっと冷静を振りまいていたのは、目の前に確かに地面があったからだ。

 その地面を踏めば、自分に危機が訪れることはない。自分の足を置く地面さえしっかりと意識しておけば、あとは何とでもなる。

 そんな絶対的な役割を果たしていた地面は、ついさっき炎に包まれて崩れ落ちた。

『味方などいない、1人で、ただ独りで滅んでくんだ』

 女に放った俺のセリフは、俺の心の中でずっと残響していた。そしてそれは、自分を死に導く決意へ変わってしまった。

「先輩、俺にはもう、幸せなみらいがみえてこない」

 先輩の前で泣いたのは初めてだった。

 それどころか、泣いたのなんて生まれた時以来かも知れない。親に捨てられた時だって、泣くのを我慢して。それでも、俺の前には思い出の書店っていう地面があった。真面目の取り合ってもらえなかったけど、本を読むだけで俺は少し軽い気持ちになれた。

 俺の中にあった隈田という大事な柱が欠けて、それは俺にとって一番欠けてはならない大黒柱だった。

「なんで...なんで隈田はころされたのかなぁ...」

 あの時俺が隈田の体を支えていたら、あいつは死なずに済んだんだろうか。

 あの女が足を蹴り飛ばしたときに、この首飾りを引っ張っていたら隈田は助かったんだろうか。

 なんであんなに優しい男が、殺されなくちゃならないんだろうか。

 先輩の体の温かみが、今の俺の心には毒だった。

 先輩の優しさと、隈田の喪失感が俺の心でぶつかり合う。

「ボクは、今の君の問いに答えられる解を持ってないよ」

 先輩は、決して優しくなんかない。けど、この人は自分に正直だ。それが、先輩の持つ真の優しさ。

「君の心に開いた穴の埋め合わせにはならないけど——」

 先輩は、服で俺の顔を拭いてから、俺の目を真っすぐに見た。水で、涙で濡れていた視界は晴れて、いつもの可憐な先輩の顔がそこにあった。

「ボクは、君の大事な人になりたいな」

 先輩は、いつもと同じような笑顔で俺に告げた。

 ——今まであった地面はもう崩れ落ちた。でも、俺の隣には共に歩いてくれる人がいる。同じように道を見失い、断崖に立たされた人と、不確かで不安定で何か起こるか分からない未来を一緒に進んでくれる人がいる。

「幸せな未来が見えないなら、一緒に作ろうよ」

 ないなら作る。いつかの隈田も似たようなことを言っていた気がする。

 俺は、先輩から差し出された手をしっかりと握った。

「——ありがとう、先輩」

 目の前の地面は消えたけど、一緒に歩いてくれる人がいるなら俺はまた立ち上がれる。そう考えただけで、俺の心は楽になった。

「良いシーンに突っ込むのも悪いんだが、時に坂神春陽。その紋章はどこで?」

「あぁ、隈田を殺した大畑楓が首に付けてたやつ」

 俺は何かを知っていそうな五十嵐に首飾りを渡した。

「——レンタカーを借りよう。たぶん、こっから地球の崩壊まで、ありとあらゆる秩序が乱れ始める。逃避行を始めないと、最後まで生き抜くことはできないだろう」

 五十嵐の言葉に、3人は固唾を飲んだ。

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