3-2 『Catastrophe』

 ——なんという快感。

 この生温い液体を浴びるたびにそう思う。溢れ出る液体は止まることなく、私の体を朱に染め上げる。

「やっぱりお前は残忍だな。まるで人のこころを分かっていない」

「——人の、心」

 何度聞いた言葉か。何度聞いても、理解できなかった言葉だ。



「あなたには人の心がないのかしら!」

 私に最初にそう言ってきたのはママだった。

 今考えれば、小学生に人の心なんて説明しようとする馬鹿な親だったんだなーって思う。

「人の心?私は、あの子が嫌いだったからいじめただけ。悪いのは私じゃないもん」

「だからって、人の顔に向かってボールを投げるなんて...普通の人は考えません!」

 ママはそう言って、私の右頬を平手打ちにした。痛かったけど、それ以上に目の前のママが『嫌い』になりそうだった。

「じゃぁママ、普通の人って何?私はなんで普通じゃないの?ママの思う普通って何なの?」

「普通の子はね、たとえどんなに相手が嫌いでも暴力で解決したりしないんです。話し合いで解決するんです」

「でもあの子、お話通じないよ。だったら、多少の力で解決するしかないよね」

 ママはそれっきりだんまりだった。小学生に論破されるなんて相変わらず馬鹿な女。こんな知能の低い親から私は生まれたんだと思うと失望する。

「お父さんもなんか言ってあげなさいよ!」

 私に何も言えなくなったママは、怒りの矛先をパパに向けた。

 パパはソファーで寝転んでいたが、その怒声を聞くなり立ち上がった。

「おい由美ゆみ、相手は子供だ。そんなに怒らなくたっていいだろう。早めの反抗期だって」

「そうやってあなたが躾けないから——」

 うちのリビングに銃声が響いた。耳がキーンとなって、たちまち煙と火薬の匂いが鼻を突いた。

「偉いなぁ朱音。いいかぁ、聞いても分からねぇ奴ってのはな、力と金で解決させるのが正解なんだよ」

 鋭い殺意に満ちたパパは格好良かった。話が伝わらなければ力で。パパがそう、私に教え込んでくれたんだ。

 だから私は、私より男子から持ててるあの女を徹底的にいじめた。あいつのせいで、若田君は手首を斬るケガをした。でも、それはあの女に一生モノのトラウマを染み込ませたから必要な犠牲と言えるだろう。一度は不登校にさせることもできた。もう二度と、あいつの顔を拝まなくていいともうと清清した。

 なのに、あいつは小3になって保健室って檻からのこのこやってきた。だから、靴を隠してやったんだ。そして、楓がこっちのものだったって分かった時のあの女の顔と言ったら実に面白いものだった。人をいじめる快感が、私の心を満たしてくれた。満たぬ渇望が私を虜にする。血に飢えた獣って、こんな気持ちなんだ。

 小3はあいつが2度と学校に来ないように徹底的にいじめ上げた。公園まで追いつめて、奴の血を見るまで虐め尽くそうとした。それなのに——。

 ちっさいガキが出て来て、大人を呼んできやがった。あいつさえいなければ、あの女をもう一度自殺に追い込めたかもしれないのに。

 あの時の——。

「そうか、もしかしてお前はあの時のガキか」

「ようやく気が付いたか。さっさと俺を解放しないと、またあのおじさん呼んじゃうぞー」

 朱音は歯ぎしりをしてナイフを握りしめたが、俺を殺すまでには至らなかった。何せ、俺は人質。先輩の前で俺を殺すのがこの女の最終目標なのだから。

 


「こういう、漢字の人です。春陽君をさらったのは」

 隈田さんは、ボクの書いた名前を見るなり目を丸くした。

「遥山って...あの遥山家の人間か」

「知ってるんですか?」

「あぁ、俺は暴力団の人間なんだが、第二鳳凰会ってグループのボスが、遥山裕次郎はるやま ゆうじろうって言うんだ。十中八九、そいつの娘だろうな」

 仮にそれが事実なのだとすれば、既に春陽君は暴力団に囲まれてしまっているかも知れない。

「あの、隈田さんはどこに向かってるんですか」

「——家だ、あいつの。瀬崎町の芦崎埠頭17番倉庫。たぶん、あいつはそこで捕まってるはずだ」

「なんで、そんなことが分かるんですか」

 隈田さんは黙ったま、アクセルを踏み込んだ。速度メーターはどんどん上がっていき、法定速度の2倍の速度で県道を駆けた。

 芦崎埠頭は埋立地である。30年前の再開発によって運輸業の利便性向上のために開発された土地。今は既に使われておらず、倉庫の行政処分も検討されている。

「——妙だな」

 隈田さんの呟き通り、確かにいつもの光景とは異なっている。

 今では廃れた埠頭に、何隻ものコンテナ船が停泊しているのだ。

 17番倉庫に辿り着いて、隈田さんは車を停めた。

 17番倉庫の錆びた鉄柱に括りつけられた春陽君。その隣のドラム缶に腰かける女が1人。


「やっと!やっと来たかァ!」

 狂ったような笑みを浮かべる遥山朱音はそう叫んだ。そして陽葵の顔を見るなり、その目を睨みつける。

「久しぶりだな、陽葵。この男の子が誰なのかはすぐに分かるよね」

 朱音は握っていたナイフを春陽の首に近づけた。

「何者なのかは知らねぇけど。お前はどうして、春陽君とこの子に執着するんだ」

 1人部外者の隈田は、朱音に向かってそう質問した。

「——もうじき地球は終わる。その前に、ずっと憎かったこの女を殺してあげたかったんだよ」

 支離滅裂な感想だ。遥山朱音という1人の女の身勝手な執着の為に周囲の人に怪我をさせてまでこの状況を作り上げているのだから。


「殺すんなら、さっさと殺して」

 

 ——錆た倉庫に、1人の少女の声が残響する。

 春陽が歯を食いしばり、隈田が顔を俯け、朱音が満面の笑みを浮かべる。

「先輩、なんでそんなこと...」

 春陽の哀しい呟きを上塗りするように、朱音の笑い声が倉庫を満たした。

「言った!言ったわね!じゃぁ容赦なく、この私が、私の手で!お前のことを、ぶっ壊す!」

 春陽に向けていたナイフを正面に構え、目の前に立つ陽葵の胸を目掛けて朱音が走る。

 春陽は、拘束されて何もできないことに少しでも抗おうと身をよじらせる。

 隈田は、その場から一歩も進まず、ただ棒立ちで俯いているだけだった。

 朱音の瞳に宿る赤い殺意が、真正面に立つ陽葵を目掛けて発せられる。

 陽葵は、ゆっくりと自分の唾を飲んだ。

 何かを切り裂く音がして、赤い液体が倉庫のコンクリート床に点々と垂れた。

 ナイフは宙を舞って、朱音から離れた所へ落下した。


 斬られたのは、隈田の右腕だっだ。

 ナイフが手から離れた朱音は、目を閉じる陽葵の前で呆然と立ち尽くしていた。

「あんた、何勝手に割って入ってきてるの?自分が何をしたか分かってんの?」

 朱音から出る殺意は強さを増して、腰から抜いた新しいナイフで隈田のわき腹を刺した。

 隈田はその場でしゃがみ、床を真っ赤に染めていった。

「さぁ、これで終わり。何もかも、あなたが悪かったんだから。あなたが私より目だって、私から大切なものを奪っていくから悪かったのよ。楓だってあなたの見方じゃなかったし、あなたの味方なんて元から1人もいなかったんだよ?あの時、あの場にいた男子たちはみんな、あなたのことを忘れてた。何より、若田君だってあなたのことを忘れていたわ。まぁ、おかげで私が彼の1番を取ることができたから満足しているんだけどね。さらに言えば、歩夢ちゃんは君が来なくなった小5の頃、自殺しましたとさ。原因は私の虐めなんだけどね。いつまでも、一向に私の方につかずに1人であなたを味方をしていたの。いつか陽葵は来るんだって、ずっと1人でほざいてた。ま、結果的に良かったんじゃない。私の前から自分から消えてくれてせいせいしたくらい。そ、これであなたの味方はこの世界から1人たりともいなくなったってわけ」

 朱音は容赦なく、陽葵の心に眠っていた希望を打ち砕いた。支えてくれた全てのものを一瞬で奪っていた。全ては、朱音の満足の為。陽葵をおとしめる為。

「そう、あなたが絶望で歪むその顔が見たかったんだよ私は」

 陽葵の閉ざされた瞼から溢れる涙を見て、朱音はそう歓喜した。

「もう、あなたを庇うものはない。ね?これであなたが生きる希望なんてないんでしょ?この苦痛から逃れたいなら、今すぐ私に殺してくださいっていいなさいよ!」

 朱音の快感は最高潮に達していた。それは、陽葵のメンタルの決壊が寸前まで迫っていることも同時に意味する。

 

 抽冬陽葵の心の中は、既に崩壊していた。

 ありとあらゆる過去と現在の記憶が混濁し、互いにぶつかり合っては消滅する。

 遥山朱音の身勝手によって全てが狂わされ、まともに生きてこられなかったことへの怒り。

 遥山朱音の身勝手によって大事なものが失われたことへの悲しみ。

 遥山朱音の身勝手の中心が、自分自身だということへの失望。

 もう、私に味方はいない。連絡取れなくなったけど、ずっと友人だと思い続けてきた歩夢が自殺したなんて。それもあの女によって。でも、それは私がちゃんと学校に行っていれば防ぎきれた死なのかもしれない。

 ——沼岡歩夢の死は、ボクが原因なんだろう。

 最大の親友を、私が関わったばかりに殺されてしまったんだ。

 ——思い出してみれば、隕石で滅ぶなんてことを望んでたっけ。

 味方のいない世界で、歩夢のいない世界で生きる価値は、意味は、あるのだろうか。

 私のがさっさと死ねば、春陽君は死なずに済むだろうか。私の一番大事な、彼だけでも助かるだろうか。

「——今すぐに、私を...」

 

 遥山朱音の望んでいた言葉が最後まで紡がれることはなかった。

 なぜならば、抽冬陽葵にとっての『救世主』が現れたからである。


「——残念ね、一寸先は闇」

 倉庫の入り口から聞こえた声は、倉庫内に残響する。

 いつも、どんな窮地に陥った時でも、抽冬陽葵という少女を救い続けた女がそこに立っていた。

「なんで...先生」

「久しぶり、抽冬陽葵」

 かつての養護教諭、五十嵐迷いがらし めいは陽葵の顔を見るなり微笑んだ。

 むかしと変わらず白衣に包まれたその姿、まだ若いのに真っ白になっている髪。それは、遥山朱音にとって最大の敵だった。

「——話をしようか、抽冬陽葵」

 迷は陽葵の涙で充血する目をみて話し始めた。

「私はあの時言っただろ、お前には、私が付いている、と。その言葉を忘れたんじゃないだろうな」

「でも...ボクは、せんせいが転任するときに、裏切るようなこと、いったよ。せんせいが必死に学校にいかせようとしてくれたのに、もうがっこうには、いかないんだって」

 迷が来たことによる安堵か、恐怖から解放されたからか、溢れる涙は止まらない。

「あぁ、お前は確かにそう言ったな。だが、私のあれは嬉しかった涙だ。だからもう、後悔するな。お前は意地でもあの教室に行こうと努力してた。でも、その度に恐怖に打ちひしがれていた。でも、あの時のお前はちゃんと『逃げる』って選択肢を見つけられていたんだ。私との別れの間際に、そんな成長を見せてくれ、私はとっても嬉しかったんだ」

「でもせんせい、もう、ボクの前にみちがないんだよ。前向いて、たまにはにげて、それでも、手に入れるもんなんてなかった。ただ、ずっと、なにかをうしなうだけだった」

 道がない。前を向いて、時には逃げても道は続いてたのに。いま、抽冬陽葵が立っているところは断崖絶壁で、退路は強大な悪によって絶たれていた。

「だから..たすけて、せんせい...」

 陽葵は迷の白衣に縋りついたまま座り込んだ。

「——あぁ、私がお前を助ける。聞いてたか、遥山朱音」

 遥山朱音は、迷が現れたことへの恐怖なのか、ずっとその場に棒立ちになっていた。金縛りにあったかのように、同じ態勢で同じ位置に突っ立っていた。

「先生は、私の夢を邪魔するんですか?そいつを殺せれば私は満足なの。ここでピーキャー騒ぐ私を抑えるより、その女を殺せば物事は円満解決なの」

「そんな言語道断な理屈で、私が退くとでも?」

 迷は殺意で燃える朱音の瞳を睨み返した。朱音は迷の圧力に負けて目を背ける。

「私は全部聞いてたとも。お前が陽葵に言った様々な暴言を。嘘つくのも大概にしたらどうだ?妄言で自己満足を得ようとするなら、陽葵抜きでやってろよ」

「妄言でも自己満足でもない!私はありのままの事実をッ!」

 倉庫に入ってくる人影を見るなり、朱音は口を紡いだ。それは、驚愕のあまり喉から言葉が出てこないという表現の方が正しい。

「大丈夫だよ、陽葵。私、ちゃんと生きてるから」

 綺麗なポニーテールの少女、沼岡歩夢はそう言って、再会を喜ぶ満面の笑みを陽葵に見せた。

「若田の1番がなんだか知らないけど、半ば脅迫だったんだろうな。さて、お前の嘘も壊れたぞ」

 五十嵐迷は一歩踏み出し、立ち尽くす遥山朱音の胸倉を掴んだ。

「——どうする、遥山朱音。お前の負けは結したな。お前の味方、誰もいないぞ」

 朱音はその恐怖から後ずさった。そしてそのまま後ろに倒れ、しりもちをついた。

 そして、さっき隈田によって弾かれたナイフを手にし、もう1度狂った声で笑い転げた。

「そこをどけ、邪魔者がッ」

 朱音は迷を腕でどかし、陽葵の首を掴んで押し倒した。

「これで、私の勝ちィィ!」

 大きく振り上げたナイフが、即座に振り下ろされることはなかった。コンテナ船の一隻のコンテナが爆発する轟音が鳴り響いたからだ。

「——なんで、まだ起爆のボタンは押してない!」

 爆散したコンテナが火種となって、各所の船で爆発が起き始める。無論、最初のコンテナ爆破は隈田が撃った拳銃だ。

「逃げろお前ら、この埋め立て地ごと吹き飛ぶ爆弾だぞ!」

 脇腹を抑えて立ち上がった隈田は、自分の車に全員を誘導しようとした。

 朱音が陽葵を抑えている間に、迷によって春陽は解放された。

「少年、あの男からこれを渡されたんだが、何か仕込んでるのか?」

 助けに来た迷が握っていたのは火のついてない煙草だった。

「あぁ、ありがとう。『先生』も早く逃げた方がいですよ」

 迷は困惑したまま隈田が手招きする車の方へ走った。

「お前、何者だ?」

「”元”暴力団ってだけだ」

 助手席に乗り込む迷とエンジンをかける隈田。

「陽葵、急がないと!」

「でも...」

 春陽は呼びかけに応じずに、その場に突っ立つだけだった。

「隈田、さっさと車出せ。俺にはやらなきゃいけないことあるからさ!」

 車に乗るのを拒む陽葵を歩夢が強引に押し込む。

「少年君、絶対生きて陽葵と再会するんだよ!」

 歩夢の言葉に、春陽は頷いた。

 そして、隈田は思いっきりアクセルペダルを踏み込んだ。


 埠頭を囲むようにして停泊している船は、第二鳳凰会が所有するものだ。手配したのは遥山朱音の父の裕次郎だろう。

 車が行って2分、既に17番倉庫の中は火の海と化していた。

「話をしようぜ、遥山朱音」

「いやだ。あいつを逃したんならターゲットはお前だ。なんでどいつもこいつも、私の願いは叶わないようにできてるんだか」

 燃え盛る倉庫の中で、ナイフを持った少女と小柄な少年が互いに睨み合っていた。

「お前の夢が叶うことなんてあるわけないだろ」

 春陽は冷酷な目で朱音を睨む。それは、陽葵へのいじめの怒りも込められていた。

「どれだけ他人を蹴落とそうと、お前が頂点になることあり得ない。なぜなら——」

 春陽は油断した朱音の手首からナイフを弾き、胸倉を掴んだ。

「お前が敵に回したの、俺の最愛の人だからな」

 強引な理屈。それが、春陽から朱音へ贈る最大の皮肉だった。

「じゃぁな、遥山朱音。来世で会えたらなぶり殺してやるから覚悟しとけ」

「待てガキィ!ここでお前を殺して、私はこの世界の終わりを——」

 炎の海を抜けた先、目の前にはコンテナ船があった。17番倉庫の1番近くに停泊しているコンテナ船。

 春陽はポケットから隈田から受け取ったものを取り出して、船へ投げた。そして、海へ飛び込んだ。

「何を投げて——」

 爆炎が朱音の体を包み込み、17番倉庫を含む芦崎埠頭は海に沈んだ。



「ところで、向かう先は決まっているのか?ここに来るまでに街を見てきたが、世界の終わりと言われているだけあって、相当の混乱だぞ」

「箱根の手前でUターンする、そして沈んだ芦崎埠頭に戻る。生きていれば、春陽を回収する」

 煙草の火で朱音に止めを刺す作戦は隈田が考えたものだった。なにせ、あの状態は3年前の鳳凰会の内部抗争に酷似していたからだ。武勇伝としてその時の隈田の脱出劇を聞いていた春陽なら、煙草を渡しただけでその先の展開を読んでくれるだろうと予想した。

「でもさぁ、あそこまでする必要なかったんじゃない?少年君を乗せてあいつを乗せなかったとしても、爆発で死んでただろうし」

 それが確かに最善の方法だった。しかし、坂神春陽という人間は諦めが悪い。あの女にケリを付けなければ気が済まない性格だろう。そのチャンスを、危険ながら作ってあげたまでだ。歩夢の言う通り、春陽を乗せるのが一番安全な手段ではある。

 街路を走る車だが、車窓に映る景色は最悪に近かった。強盗、通り魔、交通事故、様々な事件が起こっていた。どこにいてもパトカーのサイレンが響いていた。

「ちょっと陽葵、そろそろ泣き止んだら?少年君を愛してるなら、生きてるって思わなきゃ」

 歩夢が必死に陽葵を元気づけようとするが、陽葵が顔を上げることはなかった。

「なんでここで渋滞になってんだ...」

「検問だろう。この事件の嵐じゃ警察だって張るだろう」

 あと少しでUターンできる場所なのだが、運悪く渋滞にはまってしまった。

「さっさと行かないと、少年君が危ないかもね」

 今日の気温から考えて、海から上がってそのままの体でいては衰弱するだろう。

「しゃぁねぇか」

 隈田はそう呟き、前の車が少し前進した直後、ハンドルを切って反対車線へUターンした。タイヤの擦れる音がして、反対車線から走ってくる車にクラクションを鳴らされたが、事故には至らなかった。


 相当まずい状況になった。坂神春陽の置かれている状況は最悪そのものだった。

 海に飛び込んだはいいが、コンテナ船の爆風による水圧をもろに受けたせいで、体中が痛みを発していた。

 まぁ、水流で吹き飛ばされた先がなだらかな対岸で助かった。制服はところどころ破けている。そんな冷えた体に容赦なく吹き付ける冬の風。

 そんなことより、本当に今置かれている状況はまずい。

「ねぇ、お姉さんと遊ぼうよ」

「さっきから断ってるんですけどね」

 やたら豪華な服に身を包んだ女。年齢的にみれば先輩と同じくらいといったところだ。だからこそ、それが余計に嫌な予感を刺激する。

「ねぇ、そんなこと言われたら悲しよ。せっかくこんなに可愛い高校生が冴えない君を誘っているんだよ?」

 初対面でディスられてないかこれ。にしても、雰囲気からして明らかに朱音寄りのタイプの人間だ。

「なぁ、誘うってんなら先に名乗るってものじゃない?」

「あぁ、確かに。私の名前は大畑楓だよ」

 聞いたこともない名前だ。けど、この女の目に宿る『何か』は、朱音の殺意を感じさせるものがある。

 人を騙すことを何とも思わない、朱音とは違った意味で人の心を持っていないような人間。嘘で着飾って中身は空っぽな、そんな感じを思わせるオーラを振りまいている。

「ね、お姉さんと一緒に行こうよ」

 この恐ろしい女は、いったい何を考えているのだろうか。

 俺が考えを巡らせている丁度その時、日光が突然に遮られた。

「——嘘だろ」

 今まで地球に降り注いでた太陽の光は、巨大な彗星によって隠された。

 この世界は着実に、終わりに向かって歩みを進めていた。

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