3日目

3-1 『Euphony』

 隈田とか言う怪しい男性の車に乗って早5分。歩道に残っていた春陽君の血痕は完全に途絶えた。

 隈田は路肩に駐車し、しゃがみながら微かな血痕を見つけようと試みていた。

「無理だ。この路地の前で途絶えてやがる」

 2軒の雑居ビルの間にある、日当たりが悪くジメジメしていそうな路地裏。人が1人入るだけでも狭そうな幅である。ここに人を持った状態で入れるだろうか。春陽君は身長が170㎝ある。体重だって結構あるはずだ。運び込むには無理があるのではないだろうか。

「どうするんですか」

「んなこと俺に言われてもなぁ」

 隈田は言うなりため息をこぼした。行く当てはボクだってない。彼は、ボクとの思い出の地を回ろうとしていたのだろう。でも、きっとボクはまた記憶に蓋をして、そのことを忘れているのだろう。

 無理にでもこの蓋を開けたなら、ボクはまた人間不信に陥るかもしれない。そして、対人恐怖症を併発して、次はこの人に迷惑をかけてしまうかもしれない。

 でも、ここで蓋を開けなかったら、一生春陽君は見つからないのではないだろうか。ボクのせいで春陽君が遠くへ行って、見つからなくて、世界は終わりを迎える。ボクは、このゲームに違う意味で負けてしまうのかもしれない。一瞬だけ、あのキスをした女の顔が思い浮かんで、脳内でそれを粉砕させた。

「——やるしか、ない」

 いくつかある蓋の1つを、ボクは数年ぶりに開け放った。



 小学1年生の春、ボクは南ケ丘小学校に入学した。

 保育園の頃は、大して対人関係にトラブルを抱えたことはなかったし、小学校でもすぐに友達が作れるだろうと思っていた。

 けど、現実はそう甘くはなかったんだ。

 入学式、私は常に何か強い視線を感じていた。その時は、保護者の目線に少し不安を抱いているだけだろう、ただの緊張だろうと、自分を落ち着かせていた。

 入学式が終わって、クラスのみんなが教室に移動したとき、それが保護者からの目線じゃなかったことに気が付いた。私の右後ろの席の生徒が、ずっと私のことを睨んできていた。

 容姿端麗。綺麗な茶色の長い髪に、整った顔立ち。とても綺麗な女の子だった。

 入学初日は、それだけだった。

 時が進んで、6月になってクラスに馴染みが出てきたころだった。私はグループに所属するのが嫌いだったから、基本は1人で席に座って本を読んでいた。

 すると、いつもいつも男子たちが私を遊びに誘ってくるのだ。私は本を読みたいというのに、しつこく私をドッジボールに誘ってくる。私は何回か断ったけど、幼稚園の頃から仲の良かったかえでちゃんにも誘われたから、仕方がなく一緒に遊ぶことにした。

 別に、運動が嫌いだったわけじゃない。リレーだってビリではなかったし、ドッジボールだって、どちらかと言えばよく取ってよく投げる方だ。

 ——何事にも積極的に。

 かつて生きていた父が教えてくれたことだった。

 1人当てるたびに、味方の男子や女子から歓声が上がる。私はちっとも、そんなのが嬉しくなかった。どちらかと言えば、当たってしまった子は痛くなかっただろうかと心配の念の方が強かった。

 試合も佳境に入り、私のチームの残り人数は5人。相手チームの4人と接戦だった。審判のクラス委員長も、固唾を飲んで見守っている。

 私は相手チームの子を1人当てたが、その子はクラスでも泣き虫な女子生徒だった。弱くおなかに当てたつもりだったが、結構痛かったらしい。

 私はすぐに相手コートに駆け寄って、その子の声を掛けた。

「ごめん、強く当てちゃった。けがとか、してないよね」

「うん、大丈夫。陽葵ちゃん、ドッジ強いんだね」

 彼女にも目立ったケガはないようで、その子が立ち上がろうとした時だった。

「うわ~、歩夢あゆちゃん泣かせた~」

 ボールを持っているのは、あの時私を睨んできた女だった。その女は至近距離で私の顔面目掛けてボールを思いっきり投げつけた。私の意識は、そこで途絶えている。

 話によれば、その後、楓ちゃんと歩夢ちゃんが私を保健室につれていき、事情を説明。一方で、コート内では男子がルール違反だとその女に殴りかかって大惨事になっていたらしい。

 挙句の果てに、その女は男子に殴られたのを私のせいだと説明したらしい。私は保健室で目覚めて早々に、担任から叱責された。

 ———いじめはよくない、と。

 楓ちゃんと歩夢ちゃんがどうにか釈明しようとしたようだが、担任はそれを聞き入れず、その釈明も無に帰したという。

 その日から、私は楓と歩夢と暮らすようになった。クラス内では、ドッジボールという遊び自体が禁忌となって。以降半年、うちのクラスがドッジボールで遊ぶことはなかった。

「いつまで被害者面してるの?あなたのせいで私たちの遊びが減ったんだけど」

 ある日の放課後、あの女は私にそう怒鳴ってきた。

「おい、朱音、やめろよ。もうその話は終わっただろ」

 クラスの男子勢力の筆頭、若田わかだ君が止めようとしてくれるも、女は続けた。

「若田君は黙ってて、ねぇ、なんか言ったら?私、怒ってるんだけど」

 見りゃ分かる。けど、こいつは何を終わった話を掘り出してきているんだ。集団で私にガンを飛ばしているが、それが威嚇になっているつもりか?

「ねぇ、いつまで黙ってるつもり?」

「やめろよ朱音、さすがにやり過ぎてる」

 私の胸倉を掴んできた女に対して、若田君が間に入ってそれを引きはがす。

「だいたい、いつまで引きずってんだよ。陽葵が何したんだか知らねぇけど、明らかにボールを投げつけたのは朱音だろ」

「へぇ、若田君はその弱虫の見方するんだ~」

 いかにもうざったい口調で女は若田君を煽った。しかし、若田君は一向に動じる気配はなかった。正義の2文字を貫く、かっこいい子だった。

「えぃ」

 唐突に、女がお道具箱から何かを取り出した。

 それは、明らかに小学生用の物とは思えない、先の尖った鋭利なはさみだった。

「驚いた?ママから借りたの?ねぇ、ちょっとは何か言ったらどうなの!」

 女は勢いよくそれを振り上げ、降ろした。

 事態に追いつけないまま棒立ちになっていた私の頭上から、勢いよくはさみが振り下ろされた。

 そのままだったら私の胸は張り裂けていただろうに、斬られたのは、間に割って入った若田君の手首だった。

 おびただしい量の鮮血が飛び散り、教室の床や机に赤い跡を残した。

「あんた、馬鹿じゃないの?普通、刃物の前に立ったら斬られるって分からないの?」

 女は殺意をその瞳に宿したまま、手首を抑えて倒れ込んだ若田君を見下ろしていた。無論、女側の誰もが、若田君を心配しようとはしなかった。

「俺がいなきゃ、今頃陽葵が斬られてた。手首の出血で済んだんなら、それでいいだろ」

 若田君はそのまま、数人の男子と歩夢に付き添われながら保健室へと向かった。

「さて、邪魔者はいなくなった」

「1つ気になるんだけど、私何かした?」

 私は、ここで初めて口を開いた。怯えてはいるけど、私がさっさと喋らなかったせいで若田君がケガをしてしまったことの罪悪感からだろう。

「した。お前は私たちの悪口を言っていたって聞いたわ。それも、裏でこそこそとね!」

 はぁ、あんたらみたいなのがいれば誰でも悪口言いたくなるだろうに。そんな性格してるのが原因って気づいてないのかこのバカ女。

「私がそんなこと言ってたって証拠、どこにあるの?」

「そんなもの、私が聞いたから。それが証拠よ」

 女は私に刃物の先を突き付けて、そういった。その刃物には、びっしりと若田君の血が付いていて。

 ——脳裏で、さっきの悲劇がフラッシュバックした。

 振るわれるはさみ、飛び散る血液、叫ぶ若田君、心配しない女どもの悪辣な顔、倒れる若田君を蔑む目、負傷した彼を運んでいく生徒——。

 私は頭を抑え込み、そのまま行動が取れなくなった。

 女どもは大きな笑い声を上げながら教室を出て行った。最後まで残っていたのは、立ちすくむ楓だけだったという。

 若田君のことを聞いた教師が何人か来て、私はそのまま親に引き渡された。

 翌日から、私は学校を休むようになった。

 眠っても眠っても、若田君の手首から飛び散る大量の血が忘れられなかった。

「これは...PTSD。心的外傷後ストレス障害ですね」

 医者は難しい言葉を喋っていたが、私はもう『普通』じゃないんだ、と落胆した。

 1か月も休んでいれば、親も呆れ始めて私と口を聞いてくれなくなった。トラウマに親が見捨てたという孤独をプラスされ、私はさらに学校を行く気をなくした。

 例の事件から3か月後の9月。ようやく私は登校の道を歩んだ。

 久々に歩いた通学路には、見慣れない建物が立っていたり、新たな道路工事が始まっていたりして、私って人生の3か月棒に振ったんだろうなと、また心が針に刺されたように痛んだ。

 久しぶりの登校と言っても、私が向かったのは保健室だった。

 保健室の先生とは全く話したことがなかった。会ったのだって、あのドッジボールの日以来だった。

「いいんだ、ゆっくりで。そのうち気は安らぐ」

 保健室の先生はそう言って、ひたすらノートパソコンとにらめっこをしていた。

 時々、歩夢や若田君が私のことを見に来てくれる時が合った。若田君が言うに、「教師からはお前に会わないように言われてる。なんでかはしらねぇけど。俺の傷はもう治ったから気にすんな。なんか変なもん見せちまって悪いな。早く俺らと遊ぼうぜ」

 どんな時も若田君は強くて、かっこよかった。それと同時に、私にも戻る居場所があるんだと教えてくれた。

 翌日は久しぶりに教室に足を運んでみた。みんなは、体育で外にいるし、今なら誰も見ていないということで、保健室の先生と一緒に教室へ行ってみたが——。

 教室のドアを開けるなり、あの時の記憶が、忘れかけていたあの光景が蘇って脳を痛めつけた。

 私はその日、早退した。そのあと親には、仕事の邪魔をするなと怒られた。

 私のトラウマが蘇った翌日の日は祝日だった。でも、親はやっぱり仕事だった。父が亡くなって、私と2人きりの生活をどうにか支えている母。あの時の怒りには向かってきたけど、私のことだと思えば怒って当然なのかもしれない。

 そういう思いを噛みしめながら、だらりとソファーで寝転んでいると、インターフォンが鳴った。

 カメラに写っていたのは、若田君と歩夢だった。

「よ、お前が昨日早退したって聞いて、心配になったからきちまった」

「大丈夫?クッキー作ったから食べようよ」

 私は2人を家の中に入れて、お菓子パーティーを開くことにした。

 私は2人に、昨日早退した理由を話し、若田君のあの時の光景がトラウマになっていることも包み隠さず話した。

「若田君が謝ることはないんだけどね」

「悪いのは全部あの朱音だからな」

 若田君はムスッとした顔で、歩夢の作ったクッキーをやけくそに頬張った。

 3人でボートゲームなどをしているうちに、いつの間にか陽も暮れかけていた。

「じゃぁ、お大事にね」

「ゆっくりでいいから、また俺らと遊ぼうな」

 そう言って、2人を見送った。

 今まで生きていて、1番楽しい日だった。

 私は、若田君と歩夢の言葉に応えられるように、翌日から必死に登校を続けた。

 そしてもう一度、教室の前に立った。もちろん、生徒は体育で教室内にはいない。

 私はドアの取っ手を抑えて、少し怯えた。だって、この先は私が踏み入れられない領域。

「案ずるな、抽冬陽葵。お前には、私が付いている」

 そう言って、保健室の先生は私のてにそっと温かい手を添えてくれた。

「先生はさ、ずっと先生だったの?」

 変な質問だったのは分かっている。でも、私の伝えたいことを正確に伝えられる言葉を私は知らなかった。

「うむ、私もいろいろと難しい人生を歩んでいるからな。まぁ、とにかく——」

 保健室の先生——五十嵐いがらし先生が続けた言葉は、私のこの先の人生を支える大きな言葉となる。

「——前を、向け。抽冬陽葵。止まっていては、景色も変わらないし、大事なものだって手に入れることはできない。私は、お前を信じている」

 まるで色が抜け落ちたかのような白い髪の毛。外見はそんなに老いているようには見えないけど、年齢不詳な五十嵐先生。

「分かった」

 私は前を向いて、教室のドアを開けた。

 あの時と何ら変わらない形の教室。私は言われた席に着いて、みんなと同じように支度をした。

「じゃぁ、なんかあったら呼ぶんだよ?いつでも来るから。前を向いて歩むのも大事だが、たとえ後ろを向いたとしても、それはお前にとって前になる。逃げるってもの大事なことさ」

 五十嵐先生は笑いながらそう言って、教室を後にした。

 みんなが体育から帰ってきて放った言葉は人それぞれだった。

 若田君や男子、歩夢と楓は私の下に寄ってきて、女どもは舌打ちをして、担任はため息をついた。

 私には、確かにこれだけの仲間がいる。そう思うだけで心が楽になった。

 その日から、私は毎日教室へ登校するようになった。普段は若田君たちと生活し、たぶん他の男子たちはあえてあの女たちと遊ぶことで、私との接触を避けさせようと配慮してくれているのだろう。

 まぁ、それも長続きはしなかった。

 年明け、1月に行われた最初のクラス会議。あの女はいつの間にかクラス委員長に上り詰めていたらしい。ちなみに、歩夢によれば過半数が女勢力の票らしい。

 クラス委員自体が、あの女の支配下に置かれたグループで構成されている。そして、最初に女が黒板に書いたのは、教師への説明や配布されているプリントとは全く異なる趣旨のものだった。

『ぎだい1:ぬく冬ひまりをクラスからおい出す方ほう』

「ふざけんな朱音!」

「そうだそうだ、おかしいだろこんなの」

「まだ陽葵をいじめる気か、お前ら陽葵大好きかよ」

 怒号、笑い声、それを収めようとする者、大騒ぎになる教室を、担任は制圧しようとはしなかった。

「黙りなさい、1-3の生徒たち。これは今、私が決めた議題よ。今すぐにこれの解決策をそのプリントに書きなさい」

 喧騒を貫いて出されたその命令に、一同は次第と落ち着いていった。

「あれ、若田君は何も書いていないようだけれど」

「あたりめぇだろ。あいつを追い出すことを、俺は望んでない」

 その反抗に舌打ちをした女は、若田君のプリントを破り裂いた。

 これじゃぁ会議のしようもない。と言って、若田君は机に突っ伏してしまった。ほかの生徒たちもそれを模倣するようにして、自分のプリントを破って、机に突っ伏した。

 女の顔が段々と険しくなっていくが、何を思いついたか私の席の前にやってきた。

「君は、このクラスの雰囲気を乱していま~す!」

 そこまで言ったところで、担任はようやく席から立ち上がった——。

 私の行動の方が一足早かった。私は、喚起の為に開いていた窓から飛び降りた。

 ここは南棟3階、落ちれば確実に死亡する。

 私はあの議論の時間にずっと、ずっと、ずっと、このことしか考えていなかった。



 ——こんな世界、隕石で壊れてしまえ。



 私が落ちた先には、布団があった。それも3枚に折られて重ねられている。それがクッションになって、私の自殺は叶わなかった。

「ないすー。ピンポイントでよくここに落ちてきたな」

 そこに座っていたのは、すべてを見透かしたかのような養護教諭、五十嵐迷だった。

「なんで、死なせてくれないの?私って、悪い子なんでしょ?もういいから!私に何も言わないで、私はもう——」

「生きていたくないなんて、私が言わせないよ」

 私が言おうと思ってた言葉を先に言われ、私は言葉に詰まった。

「てめぇ、よく覚えておけ!」

 うちのクラスの窓から見下ろす担任に向かって、五十嵐先生は言い放った。

「お前は児童虐待だ、最近法律厳しくなったの知ってるだろ?今すぐ教育監査委員会に通達してやるからな」

 誰よりも鬼気に満ちた声でそう言った。

「お前の居場所は私が作る、だから2度とこんな真似をするな。この世界はお前が思う以上に綺麗なんだから」

 私は先生に抱かれながら数分間泣いた後、保健室のベッドで横になった。

 休み時間になってすぐに若田君たちが来てくれた。そして、あの後女たちが担任に怒られたことも教えてくれた。どうせ、五十嵐先生のお叱りに怯えただけだ。

「悪い、俺があいつらに歯向かったから——」

「いいの若田君、悪いのは常にあっちなんだから」

 若田君の顔は暗かったけど、少しだけ明るくなったように思えた。

 この笑顔の為にも、私はまだ生きなければならない。

 その夜、私は夢を見た。あの教室から飛び降りる光景が、次のトラウマになっていた。そしてまた、不登校生活が幕を開けた。

 歩夢が届けてくれた連絡帳が、毎日夕方になるとポストに投函されている。

『きょうは、若田くんと■■■がけんかしました。ふたりともせんせいにおこられてた。若田くんはがんばってひまりちゃんをいじめないように■■■たちに言ってたよ』


 ——記憶が疎かだ、奴の、女の名前が出てこない。蓋を開けた記憶の一部はまだ、封印されたままらしい。

 

 1年がいつの間にか終わっていて、ようやく1つの境地にたどり着いた。私が学校に行かなければ、どんな問題も起こらないんじゃないだろうか。誰の迷惑にもならないんじゃないだろうか。家で勉強すれば母も起こらないだろうし。

 結局、私は不登校を貫くことにした。それでも、歩夢はずっと連絡帳を届けてくれた。

 小2の離任式があった日。家のインターフォンが鳴らされた。モニターの向こうには五十嵐先生が立っていた。

「悪いね、陽葵。転任が決まってしまった。私も抗議したんだけど逆らえなかったよ」

「いいの先生、私、もう学校行かないから。私がいなければ、誰にも迷惑にならないもん。ちゃんと勉強だってしてるし....。先生、なんで泣いてるの?」


 ——その涙の意味、今なら分かる。ボクは、前を向けと言ってくれた教師の期待を、この時裏切ったんだ。信じてくれた1人の恩人をの期待を、仇で返した。


 五十嵐先生は何も言わずにそのまま雨の住宅街に姿を消していった。


 小3の初夏、私は何を思ったか学校に行くことを選んだ。

 保健室の先生は変わっちゃったけど、きっと優しい先生だろう。

 なんて、甘い期待したのが間違えでした。あいつは、私の腕を掴んで強引に教室へもっていった。

「先生、連れてきましたよ。不登校の生徒」

 まるでノルマ達成を喚起するような声で、ババァの養護教諭はそう言った。

 小2で1度も登校しなかったんだから、もう2度と私が来ないと想定していたのだろう。私とあの女のクラスは一緒だった。

「なんで連れてきたんだよ馬鹿教師...。あいつは保健室にいた方がいいのに」

「何言ってんの、クラスの仲間でしょ」

「黙れババァ」

 以前に増してかっこよくなった若田君も同じクラスだったが、それどころではなかった。養護教諭と若田君の喧嘩は新しい担任によって抑えられたが、私が保健室へ戻ることは許されなかった。

 小3のクラスは、小1のクラスとさほど変わっていない顔ぶれだった。そもそも少子化のせいで3クラスしかないせいだろうか。

 帰りの会が終わって、私はさっさと帰ろうとしたが、そうにもいかなかった。

 私の靴箱に、靴がないのだ。確かに今日来るときに入れておいたはずなのに。

「——なんで、無いの?早く帰りたいのに」

「久しぶりだね、陽葵ちゃん。何か探してるの?」

 聞き覚えのある声。髪型も服もおしゃれになった楓だった。

「私の靴が無いの——」

「——ある訳ないでしょ、私が持ってるんだもん」

 聞き覚えのある声。相変わらずのあの女だ。

「早く返して、私もあなたに迷惑かけたくないの。私がさっさと帰ればwinwinでしょ」

「前より卑屈になってんのおもしろ。確かにいなくなっては欲しいけど——」

 女は瞳に赤い眼光を宿らせて、校舎内に響き渡るほどの大きな声でこう叫んだ。


「——私は、私より醜いお前をいじめることに快感を覚えてる。お前の泣き顔が、お前がいなくなるたびに、私を際立たせる。この世界は、常に、私が可愛ければいいの。お前がいるせいで、私が目立たなくなる。確かにお前は必要ないね。それは当然、お前はゴミだもの。でもね、お前をいじめてるとき、私は1番注目されているの!大好きな若田にも見てもらえる、その後喧嘩をしたらもっと近づける!お前をいじめるってことは、私にとって大きな徳しかないの!そう考えてみると、お前をいじめるのっていいことなんじゃなぁい!本音を言えば、あの時飛び降りて死んでいれば、若田は私のものだったのにねッ!お前の居場所は、ここにないッ!」

「黙れ、私を待ってくれてる人はいる。歩夢だって、若田君だって、そこにいる楓だって私の味方だよ」

 これまでにないほど勇気を出して、彼女の赤い瞳を真っすぐに睨み返した。

「馬鹿ね。楓は傍からあなたの味方じゃないわ?小1の時、お前はお前が私の悪口を言ったことへの証拠を求めたわね。それはね、この大畑楓おおはた かえでが、私の下に告げ口してきたからだよ!」

 


 ——人を信じるのは、もうやめた。


 私は土足のまま雨降る夏の通学路を駆けた。

 嘲笑する上級生だか下級生だかの声も無視して、心配してくる地元の人の声も無視して。ひたすらに走った。

 そして、誰もいない道路でつまづいた。

 側溝に喀血するまで嘔吐し、ひたすらに泣いた。

 あいつの言葉の節々が、私の脳内で再生される。不必要なリピートまでかけてくる。あの楓が、『裏切者』だったなんて。

 私は脳内から楓の存在を抹消させた。

 そもそも私ってなんだ、あいつと同じ一人称。

 考えているだけで吐き気を覚えて、もう一回側溝に吐き捨てた。でも、さっきすべてを流したせいで、喉を焼くような胃酸だけが流れ出てくる。給食なんてほとんど喉を通らず残したんだから、胃に何も入って無くて当然だ。もういい、喉が痛いのは嫌だ。あいつらのせいだ。あいつらのせいなのになんで私が嫌な思いをしなきゃならないの?だから、私はもうきもちが悪いんだって。やめて、ワタシのなかでそんな地ごくを再せいしないで、のうがこわれる。いさんがわたしののどをこがす。なんでもいいから、わたしをすくって。かみさまがいるのなら、わたしをころして。いますぐに、いがらしせんせいのもとへつれていって。縺輔▲縺輔→遘√r谿コ縺励※。繧上◆縺励?蝟峨r譁ャ繧願誠縺ィ縺励※。


「——わたッ...ボクはもう、幸せが何なのか分からなくなったよ」

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