2-3 『Journey』

 ——俺、隈田芳晴は早朝の高速道路で漆黒に染まる外車を走らせていた。

 世界が青白いのは、着実に地球ここに近づきつつある隕石のせいなのか。霞がかった空の向こうで、隕石はゆっくりとこちらへ落下してきている。大気圏を超えてしまえば、あとは一瞬だろう。

 北台市に入ったと同時に、空が黒く染まって雨が降り出した。

 高速を北台市で降りて、俺は瀬崎町にある廃倉庫へ向かった。漁師たちが既に漁の準備を始めているのをしり目に、俺は17番倉庫の前に車を停めた。

「——相変わらず、だな」

 継ぎ接ぎだらけのソファーに寝転がっているのは、俺が一番よく知る貧民である坂神春陽だ。もう冬も間近だというのに、布一枚を体にかけてぐっすりと眠っていた。

「置いとくからな」

 俺は洗っておいた彼の制服を、彼がテーブル代わりにしているドラム缶の上に置いておいた。そして、車のトランクに積んでおいた布団を彼の体にかけておいた。

「——風邪、引くんじゃねぇぞ」

 俺は次の仕事を思い出して、再び車に乗った。

 倉庫から出る頃には、雨足はだいぶ強まっていて、ワイパーを最大限使わなければ、前も見えないような状況だった。

 確か、春陽と出会ったのもこんなゲリラ豪雨の日だった気がする。


 6年前の夏、同じように大豪雨の日に俺は車を走らせていた。助手席には、当時の鳳凰会の会長だった石崎が乗っている。

 フロントガラスには雨が容赦なく打ち付けていて、前方の確認をすることすら困難だった。

 少し勢いをつけながら坂を下っていたところ、いきなり視界の先に『何か』が現れて、急ブレーキを踏まざるを得なくなった。

「隈田、俺を乗せてブレーキとは何事だ?」

 腹立たし気な石崎は置いておいて、俺はすぐに車を降りて『何か』の正体の確認を急いだ。

 そこに倒れていたのは、全身傷だらけになった小学生ぐらいの少年だった。

「ガキか、こりゃ何度か轢かれてやがるな」

 傘を持って降りてきた石崎はそう言って、吸っていた煙草を踏んで火を消した。

 少年の周りのアスファルトには血液が滲んでいて、口元の荒れようを見るに、なんどか喀血しているようだ。

「石崎様、運転は柏崎に任せます。俺はこいつを病院に連れて組んで先にお帰り下さい」

 なんでか知らないけど、ここで彼を見捨てる気にはなれなかった。

 石崎はそう言う俺を差し置いて、部下に目で指示を下した。黒いサングラスをかけた構成員2人が俺に向けて拳銃を向ける。

「それは人が良すぎってもんじゃぁないか?仮にお前が病院に連れて行って、我々の身分が割れたらどうなる?少しはこちら側のことを考えてみたらどうだ?」

 新しい煙草を取り出した石崎はそう言って、俺の目を睨みつけた。

「俺らの身分が割れないように配慮は——」

「撃て」

 俺が言い終える前に、石崎の命令で男の1人が俺に向かって発砲した。

 俺は、急いで体勢を崩して何とか致命傷は防げたが——。

「ふん、ずらかるぞ」

 石崎と男らは車に乗り込んで、俺は雨の中に置き去りにされた。肩から滲み出る血は止まらず、痛みも治まることはなかった。

「——息はある、まだ間に合う」

 俺は取りあえず最寄りの病院の北台病院に向かおうとしたが、俺の出血具合からしてたどり着けないと判断した。そこで俺が選んだ場所が、瀬崎町の芦崎埠頭17番倉庫だった。

 当時は廃倉庫になっておらず、人がいると思ったのだが的は外れた。俺はせめて雨宿りをと彼を倉庫の中に入れ、そのまま俺の意識は途絶えてしまった。

 俺の目が覚めた時、一番最初に視界に入ってきたのは少年の顔だった。

「お前、俺を助けたのか?」

 少年は無垢な目で俺を見つめていた。俺は焦点が定まっていなかったが、少年が生きていたことに取りあえず安堵した。もしかしたら石崎が後を追って来て殺していたかもしれないから。

「助けたなんて清々しく名乗れねぇよ。俺はただ、お前を雨を凌げる場所に運んだだけだ」

 ようやく焦点が定まり、俺はソファーか何かに横になっていることに気が付いた。俺は体勢を起こして、肩を確認する。

「なんか血が出てたから布で止血しておいた」

「その年齢で止血の方法知ってるとか、最近のガキの成長って早いんだな」

 若干の感心を覚えながらも、止血してくれた少年に感謝した。

 倉庫から外を見ると、雨は既に止んでいた。それどころか、水平線に消えていく夕陽を拝めるほどだった。

「少年、お前はあんな道路のど真ん中で何をしてたんだ?」

「少年じゃない、坂神春陽だ」

「オーケー春陽、お前はあそこで何をしていたんだ」

 春陽は少し苛立たしげに、俺の質問の解を教えてくれた。

「生きるために逃げてたんだよ。俺、ここ数日なんも食べれてなくて」

「お前、家なき子なのか?」

 春陽は小さく頷いた。そこには、明日を生きられるかという不安と、今日を生ることへの必死さが感じられた。

 俺は、ここで初めて彼を助けておいて正解だったと心から思えた。

「——よし、今日からここがお前の家だ。俺も付きっ切りってのは無理だけど、お前に飯を持ってきてやるからよ。大人しくここで待ってるんだぞ」

 春陽は嬉しそうにそう言った。


 ——これが、あの春陽との出会いだった。あの時、石崎たちが撃った弾丸は今でも俺の肩の中で疼いている。

 俺はふと、丘の下で車を停めた。気にかける気なんて微塵もなかったのに、地球最後だと思うと何故か悲しくなったからか、俺は傘をさして丘を登った。

 見えてきたのは1軒の古臭い本屋だ。戦前から何度か建て替えをしながら今に至るまでこの地を守ってきた古書店。

 店内に電気は灯っていなかったが、掠れた文字で『営業中』とは書かれていた。

 出入り口から一直線に伸びる道は、カウンターに繋がっている。なんとも懐かしい光景だ。

「なんで、お前が?」

 店主の老人は困った顔を浮かべていたが、その裏では微かな喜びも感じられた。

「ただの客だ、悪いか親父」

 俺の旧姓は、秋葉芳晴。そして、ここの店主である秋葉史人は俺の実父だ。更に付け加えれば、ここは俺の実家だ。

「世界の終わりになる時ぐらい、挨拶しようと思ってな」

 親父は俺を見るなりすぐに目を逸らした。

 俺は高校に上がると同時に家出した。原因は、親父との喧嘩だった。この本屋を継ぐか、継がぬかのしょうもない喧嘩。俺は古臭いものが嫌いで、本に興味すらなかったからここを継ぐ気は一切なかった。

 そう考えてみると、ここに帰ってきたのは実に26年ぶりだ。

「親父、俺が今何の仕事をしてるか知ってるか?」

「暴力団だろう。お前の奥さんがここへ来て全て説明してくれたよ」

 親父は冷たい口調でそう言った。ずっと新聞ばかり見ていて、俺に目もくれてくれなかった。

 そのことに、少し苛立った。せっかく帰ってきてやったのに、その態度は何なんだと。

「親父は、俺がそれやってるって知って悲しんだか?」

 親父はその質問を聞いて初めて、俺の目を見てくれた。その糸目は昔からずっと変わっていなかった。

「——悲しみより、呆れが勝ったな。社会貢献の出来ぬ子に育てたのは私だがな。あの日のことを詫びに来たのか?ならば帰れ、お前という存在を、私は必要としていない」

 いつも大人しい親父が気を荒げる。16年間親父と生活して、俺に怒鳴ったのは喧嘩の時たった1回こっきりだった。

「親父、春陽って奴、知ってんだろ」

 春陽の名前を出した瞬間、親父の糸目が少しだけ開いた。やっぱり、俺があの時助けた少女と共にいた少年は春陽だったのか。

「——なぜ、お前の口から春陽君の名前が?」

「6年前、瀕死だった彼を救ったのは俺だ。そして、8年前に春陽に案内して少女をここへ届けさせたのも俺だ。俺は、親父なら何とかしてくれると思ってた。実際、ことはうまく運んだんだろ?」

 親父は終始、無を貫いたままだった。俺の目をまっすぐ見て、何も発さぬまま直立不動の姿勢を保っている。

「俺は、親父に感謝してるんだ。ありがとう親父、俺は親不孝だったけどよ、あいつらを救ってくれて」

 俺は埃だらけの書店の床に土下座し、額を床にこすり付けた。

「——顔を上げろ、芳晴。お前のしたことは、確かにいいものだったのかもしれないな」

 顔を上げた時、親父の顔は少しだけ微笑んでいた。26年前、俺が見た親父の笑顔と全く変わっていなかった。

「芳晴、私はお前の父だ。そしてお前は一生親不孝の息子、それを精一杯誇るといい。ただ、暴力団なんて柄に似合わないものはやめてしまえ。私の子である時点で、お前は『優しすぎる』のだから」

 その親父の言葉を聞いて、俺は涙が溢れてきた。

 石崎や壇の命令で殺してきた数々の人々、親父は俺がそんなことをしているのを知らない。今だって、少年少女を助けた英雄譚を、上面だけを語っているだけだった。

「40を過ぎた男が何泣いてるんだ」

 親父はそう言って、懐かしい匂いのするハンカチを俺に手渡してきた。

「この緑溢れる星の寿命もあと少しだ。最後ぐらい、真面目な人生を歩んでみたらどうなんだ」

「あぁ、暴力団、なんてな」

 俺はスーツの襟元についていたバッジを引き千切った。かつて、俺が鳳凰会に入会したときに石崎から貰った、黒い鳳凰を象ったバッジ。俺はそのバッジを踏みつけて割った。

「じゃぁな、親父。予測じゃあと5日だけど、俺はもう犯罪から足を洗う」

「あぁ、最後の日まで、生き抜けよ」

 親父と固い握手を交わして、俺は港屋書店を後にした。俺が家を出て行った頃はとても大きく感じた家も、世間を知ってそれも小さく感じるようになった。あの時家出していなければ、俺は今頃この本屋を営んでいたのだろうか。少しは、親父の介護をしてやれることができたんじゃないか。

 店を出る頃には、いつの間にか雨も止んでいた。刹那の後悔を胸の内に押し込んで、俺は車に乗り込んだ。

 俺はその後、家に勝って妻にお礼を言い、亡き息子の直彰の仏壇に線香を上げた。そして、妻と久々にショッピングモールに出かけて娯楽を楽しんだ。暴力団という集団社会に揉まれないほっこりとした日常は、俺の心に一時の安心をもたらした。

「じゃぁ、俺は最終日まで戻らないと思うから、お前も後悔は潰しておけよ」

 妻は俺とは違って温厚な正確な持ち主である。それに、俺が春陽の面倒を見ていることも話してある。どうやら妻はこの後、俺の残した金で豪遊するらしい。

 俺も俺の仕事を、春陽の面倒を見るために来た道を戻ることにした。

 せっかく昼頃は雨が上がったが、夕刻には狐の嫁入りとなった。

 

 珍しく法定速度を守って運転していると、ふと違和感に襲われた。

「——そいうえば、あいつと飯を食ってるときにも悪寒が」

 それは、ちょうど港屋書店のある丘の下を通っている時だった。そしてそこには、見覚えのある少女が立っていた。それも、とても困惑した表情で。

 俺は路肩に車を停めて、少女の下へ寄った。

「お前、もしかして8年前にいじめられていた子か?」

 俺のことが誰なのか分からないといった表情だったが、彼女は俺の言葉を聞いて何かを思い出したようだった。

「そっか、だから春陽君は——」

 訳の分からないことを言っているが、彼女の顔から不安が感じられなくなった。

「その、あの時はありがとうございました」

 彼女は律義に頭を下げたが——。俺は頭を下げる彼女の足元に目をやった。

 赤い。コンクリートが赤黒く染まっている。

「まさか、血液」

 この雨で流れていないということは、少し前にここで何かがあったということだ」

「これ、やっぱり血ですよね。これも落ちてたし...」

 彼女がポケットから取り出したのは、春陽がスマホにつけている気持ち悪い形のストラップだった。しかも、それにも微量の血が付着している。

「まさか、春陽がここで襲われたのか?」

 ここに一番多くの血痕があるが、血痕は歩道に途切れ途切れになって続いていた。

「厄介ごとに巻き込まれたみたいだな」

 俺は急いで車に乗り込んで春陽の行方を追おうとしたその時だった。

「待ってください。ボクも、連れて行ってください。あなたは、春陽君のことを知っているんでしょ?」

 少女の目は、彼への心配で満ちていた。恐らくこの女は春陽と恋仲といったところだろう。

「——多少の危険が伴うことを承知の上で言っているのか?」

「はい。ボクは、春陽君との鬼ごっこを放棄するつもりはない」

 言っていることは支離滅裂だが、この女に春陽を追う気持ちがあることは分かった。それに、春陽への想いも心から伝わってくる。

「乗れ、春陽を、奪還するぞ」

 彼女は頷いて、車の助手席に乗り込んだ。

 ——何者かに襲われた春陽を取り戻すための旅が幕を開けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る