2-2 『Aeonian』
隕石衝突の報道から1夜が開けても、俺が生活困窮者であることに変わりはなかった。もはや、生活困窮者としての生活の方が長いから、むしろこっちの方が安心なまである。
「——さて、鬼ごっこを始めましょうか、先輩」
先輩のことだ、まずはきっとこの公園に来ることだろう。そして、先輩はかつて不登校児だった。その時の生活を今でも引きずっているのだとすれば、先輩が起きるのは11時ごろといったところか。
「俺はそれまで何をしていればいいのやら」
さすがに1日で見つけられては、ゲームを始めた側として味気ない。そして、きっと先輩は、『あの日のこと』について忘れている。だから、それを思い出してもらわなければ。
「俺と、先輩の思い出の地へ足を運んでもらわなくちゃな」
先輩のことだし、まず思い出の地を詮索するだろう。でも、基本先輩と話したのは東校舎の隅の教材教室。そして、そこから考え出される答えとして、俺が本好きということだろう。実際、俺は読書以外の趣味を持っていない。そしてさらに、この町に本屋は港屋書店ただ一つしかない。それを考えると、先輩が向かうのはきっと港屋書店だ。
古びた木製のドアを押し開け、馴染みある匂いに体が包まれる。
「久しぶり」
俺がカウンターにいるお爺さんに向かって声を掛けると、お爺さんは何とも不思議な表情を浮かべた。
「——君は、春陽君か」
いつもは閉ざされているはずの瞼が少しだけ開いていて、安楽椅子から立っているお爺さんの姿は初めて見たかもしれない。
「きっといつか、また来てくれると思っていたよ。あの日、『人間失格』を買って行ったあの日から、ずっと」
お爺さんは俺の手を握ってそういった。お爺さんの手は冷たかった。こんなに書店の中は温かいというのに。
この本屋に来ると、いつも幻想の国のように感じる。電子書籍化が進む中で、この本屋だけは永遠にこの地に残り続けている。そして、ここは俺と母さんの唯一の思い出の地でもあった。母さんと二人で出かけたあの日、『ハリーポッターと賢者の石』を買ってもらったあの日を、俺はまだ鮮明に覚えている。
瀬崎町は田舎とされているが、高層ビルの建設が急速に進んでいる。でも、この書店だけは何年経ってもノスタルジーを纏う不思議な魔力を持っているようだった。
「今でもやってて安心したよ。最近来てなかったからね」
「あぁ、私もまた君の顔が見られて嬉しいよ。そして——」
お爺さんは来ていたチョッキを直して、俺に向かって深々と頭を下げた。
「——あの時は、本当に申し訳なかった」
あの時、きっと、俺が母さんたちに捨てられる直前の出来事だろう。行く当てをなくした俺はお爺さんに泣きついた。ノスタルジーの世界に住む住人のお爺さんなら、絶望的状況から打開してくれると思っていたから。でも、お爺さんもこっち側の人間だったから何もできなかった。
「頭を、上げてください。あの時、あなたは言ってくれたじゃないですか、がんばれって。おかげで俺は今も頑張って生きてます。あの時、あなたが何も声を掛けないまま俺を送り出していたら、俺は瀬崎港で身を投げていたと思います。でも、それをせずに今もキツキツの生活で足掻いでるのは、あなたのがんばれって言葉を今も心に宿してるからです。遠い、ノスタルジーの世界の人からの助言だったんですから」
お爺さんの目じりにはうっすらと、涙の幕ができていた。俺の言葉に嘘はない。確かにあの時、秋葉さんは掠れるような声で、俺に「がんばれ」と言った。俺はその言葉に報いる義務がある。それを背負って生きる覚悟があるから、ここまで生きてきたんだ。
「——秋葉さん、実は俺が店から出てった後、店仕舞いしようか迷ったんじゃないんですか?」
「——ッ。なんで、それを?」
お爺さんは図星を突かれたように驚き、唾を飲み込んだ。
「だって、お爺さんはあの時、本を投げ捨てたじゃない。俺が店を出る直前、本を捨ててまで俺に何かを伝えようとした。本をこの世で一番愛してるあなたが、そんな扱いにするなんておかしいんです。本より俺を優先した。そして、俺にその一言を投げかけられなかったことをずっと、今でも後悔しているんじゃないですか?」
「——そう。私は君に最後の一言を伝えることができなかった。読んでいた本を捨ててまで、カウンターから身を乗り出してまで君に伝えたかった。『人間失格』を買って行った君が、もしかしたらそれを読んで薬物に浸るんじゃないかとか、心中しようとしてるんじゃないかって、悪い方向に考えたんだ。それをどうにか正当化しようとして、私はずっと、ここに『人間失格』を置いていたことを誇っていた。当時の君の心象と似合っているなんて不合理な言い訳をつけて」
お爺さんはカウンターに項垂れ、あの日の後悔がむせ返したことに嘆いた。俺はなんて言葉を掛ければいいか戸惑ったが。
「秋葉さん、俺はその誇りを間違ってはいないと思います。あの日、ここに『人間失格』が置いてあって。この小説が俺を救ってくれるかもしれないって思ったから購入を決意したんです。今も昔も、俺の財布の中には小銭が入っている事すら珍しいです。そんな状況でも、その本を買ったんだから。あなたがここにあの本を置いてあったことには、確かに意味があったんです。
だから、誇ってください。これからも。俺の人生を救ってくれた本を置いたことを」
お爺さんはようやくカウンターから顔を上げて、俺の顔を見た。たぶん、お爺さんの目には、昔と変わらない俺の姿が映っているんだろう。昔は着る物すらなかったけど、この制服を着ていれば昔よりましに見えるんじゃないかな。
「あぁ、分かった。私はこれからも、ここに本屋を構えていたこと、誇りに思う」
お爺さんは店の奥からコーヒーを持ってきて、俺に差し出した。この本屋は、出入り口のドアから一直線でカウンターに続いている。古本の匂いに満ちているが、このカウンターの前だけは微かにコーヒーの香りがするんだ。
「あぁ、それと。たぶんお昼ごろに抽冬陽葵って女子高生が来ると思うので、彼女が着たらこう伝えておいてください。『——先輩、先輩は何の本が好きですか』と」
「もしかしてだが、陽葵君というのは、あの雨の日少女のことかい?」
なんだか複雑な気持ちだ。先輩が覚えていない思い出をこのお爺さんが覚えているというのは。
「はい、俺がここに来るように案内した子です。でも、彼女はきっとそのことを忘れていますから」
「そうか。にしても、まさか君があの子に好意を寄せることになるとはね」
俺は恥ずかしさのどさくさに紛れて、カウンターに『世界の中心で、愛をさけぶ』とお金を置いた。
「俺はそろそろ失礼します」
「いいのかい、陽葵君を待たなくて」
「ええ、俺にはまだ行く場所がありますから。それと、俺は1つだけあなたに伝えておきたいです」
お爺さんは頭の上に?マークを浮かべているが、これは俺の嫌な、とても嫌な直感でしかない。この未来予知だけは外れてもらいたいが——。
「秋葉さん、お体は大切にしてくださいね」
「——君は、どこまで見抜いているんだろうね。安心なさい、役目は果たすから」
——ありがとう。
俺とお爺さんは互いにそう言って、俺は店を出た。たぶん、もう2度とこの店に訪れることはないだろう。隕石とともに、この丘も崩壊していくと考えると寂しいが、ノスタルジーに合った終焉と言ったところか。
——俺が小1、即ち7歳の頃に母と来たのとは別に、港屋書店に訪れたことがあった。それには、あの公園も関わってくるのだが。
俺は家が近かったこともあって、あの公園でよく遊んでいた。
あれは、俺が友人の家から帰る途中の出来事だった。梅雨の季節、その日も雨が降っていた。
俺は帰り道にたまたまこの公園の横を通った時、砂場で泥だらけになって泣いているお姉さんを見つけた。体中に痣と傷があって、冷たい雨は容赦なく彼女の体温を奪っていた。
「大丈夫か、お前」
俺は初対面にも関わらず、そんな風に声を掛けた覚えがある。お姉さんは俺に声を掛けられて更に泣き出した。空もそれを助長するかが如く、雨足を強めた。
俺は小1の時から勘の鋭い子だったのを覚えている。彼女の体の痣と傷から察して、いじめを受けているという結論に至った。
「お前、まさかいじめられてたのか」
当時の俺には、こんな美人のお姉さんがいじめられる理由までも察することはできなかった。でも、お姉さんは俺の質問に微かに頷いた。
すると、どこからか馬鹿らしい声が聞こえてきた。カラフルな傘を持った、怪しい集団。全員大西小学校の体育着を着ており、3人の小3と1人の小1から成っていた。
そしてそいつら4人ほどは、泣いているお姉さんに向かって傘の水を飛ばしまくった。
そう、明らかな『いじめ』だった。
俺はかつて、母に言われたことがあった。「見て見ぬ振りが、一番のいじめ」と。
「お前ら、やめてあげろよ」
俺は、俺よりずっと背の高い女子集団に向かってそういった。
「どうせ、お姉さんの可愛さに嫉妬してるんでしょ。だったら、いじめてないで、自分の顔を見つめなおしてみたら?」
俺はその数秒後に女集団によってフルボッコにされた。だが、ヘイト誘導をする目的通りになった。
「小1が生意気なこと言ってんじゃねぇよ」
「そうそう、こんな泥だらけなこよりうちらの方が可愛いし」
そう言って、1人じゃ何もできない馬鹿どもが悪魔の微笑を浮かべていた。あぁ、可哀そうな人たちだな、小1ながら馬鹿な小3を哀れに思ったのも覚えている。
「お前ら、何やってんだ」
いじめの現場に現れたのは、黒い服を着た明らかに人が悪そうな男だった。首には金色のネックレスまでつけている。
「キャー逃げろー」
俺をいじめていた女どもはどっかへ逃げて行ったが、彼女は依然として泣いたままだった。
「小僧、大丈夫か?」
男はそう言って俺の前にしゃがんでそういった。
「ここにいても風邪引くだろうし、車乗れよ」
知らない人の車に乗るのは躊躇いがあったし、何より明らかに悪そうな人だったからさらに躊躇した。
「小僧、これは脅しになるかもしれねぇが、そいつを救いたいんなら今すぐ乗せな」
そうドストレートに脅されて、俺はお姉さんと一緒に車に乗った。
車内はとっても煙草臭くて、お姉さんはやっぱり終始泣き止むことはなかった。
「いじめられてたんだろ、俺も仕事帰りだから長くは付き合ってやれねぇ」
そういって、黒服の男は俺とお姉さんを港屋書店のある丘の下で降ろした。
「あとはこの坂を登って、港屋書店の爺さんに説明しろ、あの人なら何とかしてくれるさ」
男はそう言って、雨ふる街道に消えていった。
これが後に、俺の生活の切り札となる隈田芳晴との出会いである。
俺は彼女の手を引っ張って、秋葉さんに話をつけた。
この子はいじめられていたこと、たぶん家は大西町にあるということを告げた。
彼女が来ていた服は、大西小学校の体育着だったから。そして、大西小学校の学区には瀬崎町も含まれるが、大西町が多くを占めているから、
「あとのことは任せなさい、先生に話はつけておくよ。ありがとう春陽君、風邪をひかないように帰るんだよ?」
「うん」
俺はそう言って、港屋書店を後にした。
後から知ったことだが、あの時助けた人物こそ抽冬陽葵で、あの時のいじめっ子にいた小1の女こそ、遥山呉羽である。
遥山の姉は小3で、陽葵をいじめる集団の渦中にあったのだ。
俺がそれを知るのは、3年後。俺が小4になって隈田と知り合うときであるが——。
その日のことを思い出してもらうために、書店へ向かわせるよう仕組んだのだが、あの人のことだし学校に登校するかもしれない。今日は通常登校だし。
「思い出してくれるかなー」
彼女の鈍感さは、俺が生きてきた中でも相当なものだ。それか、単純に俺の勘が良さすぎるだけ?
書店を出て丘を降りている最中だった。
「——ねぇ、春陽君、また会ったね」
回想の中で聞いた女の声が聞こえたと思ったら、俺の意識は無くなっていた。
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