第35話 蚊帳の外より


「雪村、私用で済まないが、使いをたのまれてくれないか?」


 兼継殿から声をかけられたのは、まだ朝日ものぼり切らない早朝。

 鍛錬場たんれんへ向かおうとしていた庭先でだった。


 いつも通りの兼継殿だ。

 夕べは大失態を演じてしまったけれど、気にしていないみたいで少し安心する。


「はい。どんなご用件ですか?」

慈光寺じこうじは知っているな? そこに大陸から伝わった珍しい書籍があるのだが、それの写本を頼んでいる。済まないが取りに行ってくれないか」

「わかりました。おまかせ下さい」


 慈光寺は寺子屋てらこやみたいな事もやっていて、子供の頃に行ったことがある。

 少し遠いから、出発するなら早い方がいいけど、桜姫のところはどうしよう?

 私の迷いをさっしたのか、兼継殿の声に笑いがふくまれる。


「桜姫になら心配せずとも伝わるぞ。越後ここ侍女衆じじょしゅうは優秀だからな。何ならゆうべの事も伝わっていて、根掘ねほ葉掘はほり聞かれると断言しても良い」


 ……私は桜姫のところには寄らずに出発することにした。



 ***************                *************** 


 早朝に出発したから昼前に寺には着いたけれど、少し困ったことになった。

 肝心かんじんの写本が、まだ終わっていなかったのだ。


 この時代にはコピー機なんて当然ないから、手書きで書き写すしかなくて、それだとやっぱり時間がかかる。


「写し終わるまで、ゆっくりしていなされ」


 雪村の子供時代を覚えていた和尚おしょう様が、ゆったりとひげでながら言ってくれたけど、何だかこっちの世界に来てから現世げんせ以上に動き回っているせいか、のんびりが逆に落ち着かない。


 縁側えんがわに座ってぼんやり庭をながめていると、遠くから子供たちの「し、のたまわく」なんて声が聞こえてくる。


 のどかだな。


「雪村殿、あれが何か覚えておいでかな?」

論語ろんごですね。「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」」


 いつの間にか隣に来ていた和尚様が、突然そんな事を言い出して、のどかな気分をぶっ飛ばす。

 あせった、いきなり問題をださないで。

 なけなしの古典知識を絞り出して危機を回避した後、私はふと気がついた。


 そうだ、兼継恋愛イベントで、確かこういう古典が関係するのがあったはずだ。

 何だっけ、風林火山の語源ごげんになっている……『孫子そんし』?

 兼継殿が兵法へいほうの話題を出した時に、桜姫がばんばん孫子の兵法知識を披露ひろうして、どすどす好感度が上がるイベントが。


「孫子」って兵法書だから、桜姫は読んでなさそうだよね。

 花言葉だって、今でこそ乗り気だけど、最初はやる気なさげだったし。「兵法書へいほうしょを読め」なんて言ったら絶対に拒絶される。

 この世界ではクイックセーブやロードが無いんだから、孫子を知ったかぶりするには、勉強しておくしかない。


 仕方が無い。私が読んでおいて、最低限の知識を直前にたたき込むしかないか。


「和尚、こちらに孫子はありますか?」

「ありますぞ。ちょうど写本したものが余っております。一冊差し上げましょう」


 良かった、それならゆっくりと読める。

 私は礼を言って、立ち上がった和尚様のあとについて行った。



 ***************                *************** 


 結局、写本が終わったのは三日後だった。

 ずいぶん遅くなってしまったけれど、久し振りに、子供たちと遊んだり本を読んだりと ゆっくり出来た気がする。

 思っていた以上に、気疲きづかれしていたのかもしれない。



「また寄らせていただきます。ありがとうございました」

「この先、様々な事が起こるでしょうが、いちもっこれつらぬく とも申します。どうか悔いなく、貴方にさち多からんことを」


 雪村とは一度しか会っていない筈なのに、白髭の和尚様は遠い何かを見ている目をして、ゆったりと私に微笑ほほえみかけている。


 もう一度、深々と和尚様にお辞儀じぎをして、私は寺を後にした。




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