第40話自覚と行動(2)


 お邪魔しますという声の後に玄関の鍵を掛ければ、途端に体が緊張しだした。自室に梨紗がいるのは何時ぶりだったっけ。別に模様替えをしたわけでもないのに辺りを見渡す梨紗の後ろ姿を眺めながら、買い込んだアルコールを冷蔵庫へと片していく。


 ビニール袋からつまみや総菜を取り出して並べて、ソファーを背もたれに座れば隣にちょこんと梨紗が座る。先ほど口に出した言葉に嘘はない。けれど、家に着いてすぐなんて余裕のない真似もしたくなくて、私は隣を見ないようにしてストロング缶に手を伸ばす。


「じゃあ乾杯」

「ライブお疲れ様」


 優しく響くその声色に視線が引っ張られる。隣で微笑む梨紗は、そう言って缶ビールを一口飲み下す。そんな姿にさえ熱を煽られるんだから中学生に戻った気分だった。熱を冷ますように缶の中身を飲み下していく。一気に半分程を飲んでしまえば隣で梨紗が大丈夫かと聞いてくる。大丈夫じゃない、全然。

 別にざるでもなんでもないし、空きっ腹に九%のアルコールを流し込めば後々まずいのは分かっている。分かっていても、そうやって何かに逃げていないと早々に我慢の限界がきそうだった。


「変な酔い方するよ?」

「お腹減っててさ」


 そう言って誤魔化しながら惣菜に箸を伸ばす。そんな様子さえ何かおかしいのか梨紗はご機嫌にクスクスと笑い声をあげている。それがとてもくすぐったくて、耳に熱が篭る。


「さっきから何笑ってんの」

「そんなに慌てなくても取らないから」

「いや、そういう訳じゃ」


 そう言った瞬間に笑いの神でも降りてきたのか急速に物を入れたせいか私のお腹がぐるぐると鳴った。それを聞いてまたクツクツと笑う彼女を尻目に卵焼きに箸を伸ばす。もういっそのこと襲ってしまおうか。そんなことを考えながら掴んだ卵焼きを梨紗の口に放り込む。


「笑いすぎじゃない?」

「んん」


 睨むように、非難するように目が鋭くなる。最初の頃はよくそんな顔ばかりしていた気がする。最初はそうやって警戒していたくせに、私の屁理屈みたいな言葉に流されちゃうんだもんね。そうやって梨紗が流されてくれたおかげで、私と梨紗はこんな関係になったんだけれど。

 初めは、お互い心地いい関係でいられたらそれでいいって思っていたっけ。無理なく楽しめたらそれでいいって、確かにそう思っていた気がする。静かに咀嚼する梨紗の顔を眺めていれば、彼女の手の平が私の視界を隠すように目の前に置かれる。


「奏は、見すぎ」


 真っ暗な視界の中で、それでも梨紗が照れていると分かった。本当に、どうして、いつのまにこんな風になっていたんだろう。自覚させられてしまえば、私はこんなにも変わってしまっている。梨紗の表情一つで気分が高揚し、そして落胆する。本当に、いつの間にこんなに。


 視界を遮るその手を握れば、その手が僅かに震えたのが分かった。取捨選択は感情よりも理論でするタイプだったし、感情と状況はいつだって切り離して考えられるタイプなはずだった。その手をずらして、ついでにその手に指を絡める。戸惑いを瞳の揺れに乗せて、熱を頬や耳に乗せて、体を硬くしてもなお、梨紗は私の前から逃げることはない。梨紗は本当に、いつだって私を受け入れてくれるね。


 だから期待したくなってしまうのかもしれない。梨紗なら私を受け止めて、私の欲しかったものを与えてくれるかもしれないって。


 絡めた指に唇を当てて、ゆっくりと肌に滑らせていく。甲を滑って、手首辺りに触れた頃に梨紗の手に力が篭る。視線を向ければ、梨紗が顔を赤くしながらどうにか空気をかえようと思考しているらしかった。


「お腹減ってるんじゃないの」

「我慢できないって言った」

「……スイッチ入る瞬間、意味不明すぎるから」

「梨紗が隣にいたらそういう気分になるよ?」

「バカなの?」

「どうせバカだし」


 梨紗に近づいて、梨紗の腰を引き寄せる。細くて、それでもちゃんと柔らかいその体を抱き寄せれば、僅かな形ばかりの抵抗の後にすっぽりと腕の中に収まった。言葉や表情とは裏腹にそうやって流されちゃうのは、私にだけだって信じたい。

 好きになったことがないって言ってたし、触れられた時に生理的に逃げたくなるとも言ってた。そんな子が私には全部を許してくれるなんて、己惚れるには十分な理由になるでしょ。俯く顔を手で持ち上げて、熱くなったその頬に唇で触れる。触れる度に、手放せなくなっていく。


 梨紗の唇は私のそれと同じ位熱くて、舌だって同じくらい熱い。気持ちいいだけじゃなくて多幸感まで感じるのは、自身の気持ちを自覚してしまったせいなんだろうか。いつまででもこうしていられるような気持よさは、今までのそれと確かに違うのだと分かる。


「っ、かな、で」

「ん?」

「なんか……いつもと違う」

「……嫌?」


 言葉にするより簡単なことはたくさんある。他者となんて言葉でなければ正確には共有できないと知っている。逆に言えば、言葉にすればそれは伝わってしまう。一行では無理でも、積み重ねればそれは細かく具体的になって伝わる。それは、まだ少し怖い。でも、梨紗ともっと深くつながりたい、もっと全部を知りたい、そんな気持ちは勝手に体からきっと溢れてる。梨紗はそれを言っている。


「嫌じゃない……けど、なんか……溶ける」


 そんなあふれ出した私の気持ちが嫌じゃないと言ってくれて、自惚れじゃなければ同じ温度で感じてくれている。そんなの、手放せないに決まっている。受け入れてくれる人、同じだけのものを返してくれる人。

 それは正真正銘梨紗が初めてで、だから今までの全部を振り払って、手を伸ばすべき人。


「じゃあ一つになろ」


 唇に噛みつく。溶けだす全部を余さず食らいつくす様に。漏れる息も、落ちてくる唾液も、背中に浮かぶ汗も、目に溜まる涙さえも。

 やっぱり、全部欲しい。


 好きだから。

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