五章

第39話自覚と行動

 控室に戻った瞬間、心配そうに新美さんが奏の元に駆け寄った。そうしてしまえば私と奏の間には透明で、それでいて決してすり抜けることは出来ない壁ができたようだった。


 怒りや悲しみの方がまだコントロールが出来るかもしれない。そう思う位に、この嫉妬という感情は抑えが効かない。ただ二人が話しているだけで、私の心は歪に歪んでいくのだ。そしてそれに、私はただ静かに息を潜めていることしか出来なかった。


「梨紗」


 だから、彼女の方からその壁を壊してくれたことにとても驚いた。彼女がまっすぐに私を見ていることが、私に見ていてほしいと言ってくれたことが嬉しくて堪らなかった。私は奏の事が好きなのだと思わされて、そしてそれを肯定されたようにさえ感じてしまった。


「いってらっしゃい」


 奏が綺麗に笑う。三人が控室を出るのを見送っても、余韻がドクドクと鼓動を打っている。あの言葉と視線だけで、この感情を持ったことに意味があったと思うのは、流石に言い過ぎだろうか。


「……あの」


 余韻に浸っていた思考が急速に浮上して、慌てて視線をそちらに向ける。

 

「あ、すみません、すぐ出ます」

「いえ、そうじゃなくて」


 ふわりと、花が綻ぶように彼女は笑う。柔らかくて、上品で、だからこそ緊張する。この人が私に声をかける理由は何なのだろう。予想もつかない次の言葉に、喉がぎゅっと締まる。


「梨紗ちゃんって、私も呼んでもいい?」

「え? あ、はい……大丈夫です」

「ありがとう。 梨紗ちゃんは、奏ちゃんの友達?」

「はい、そうです」

「……んー、そっかぁ……湊くんや晃くんとも、友達?」

「えっと……そうだと思ってます」


 なんなのだろうか、この質問は。

 この緊張感は、就活で経験した面接に少し似ている気がする。何を評価されているのかは知らないし、質問の意図もこちらの方がよっぽど難しいけれど。

 何かを考えるように首を傾けている姿は、今までの印象よりも少しだけ幼い。目の前で何かを思案するその顔は、大きな瞳、綺麗な二重、長いまつ毛、綺麗な鼻筋、どこを切り取っても人形のように整っている。


「なんとなく分かったような、分からないような」

「……えぇっと」

「でも、そうだなぁ……梨紗ちゃんは奏ちゃんのこと大事にしてくれてるでしょう?」

「……あの……?」

「じゃあ大丈夫かな?」

「すみません……なんの話でしょうか……?」


 容量の得ない会話で頭が混乱する。それでも彼女は何かこの会話で得るものがあったのか、先ほどよりも満足げにほほ笑んでいる。どうしよう、あまり接したことのないタイプかもしれない。


「ふふふ、内緒です」

「……」

「私たちも会場に行きましょうか」

「あ、はい……」


 朗らかにほほ笑まれると、反論の言葉が喉奥で萎んでしまう。よく分からなかったけれど、深追いしても得るものは少なそうだしあまり気にしないことにしてしまおう。それに、ライブが始まってしまえば自ずと忘れてしまうだろうから。


 控室を出て、新美さんの後ろに続いて表に通じる扉を出る。少し歩けばロビーに戻ってきて、そのまま会場に入る扉へと向かう。


「梨紗ちゃん」

「あ、はい」

「奏ちゃんのこと、宜しくお願いしますね?」

「え?」


 柔らかな目尻が優しく弧を描く。その言葉は、きっとさっきの会話の続きなのだろう。新美さんの真意は結局のところ分からないままだけれど、奏のことをサポートしてほしいという趣旨なのだとしたら、私の答えは一つしかない。


「私に出来ることなら」

「ふふふ、良かった」


 そう言って笑う新美さんの笑顔は、何故だか今まで一番嬉しそうに見えた。


***


 奏たちのライブは相変わらず大盛況だった。後ろ側でゆっくり見ようと思っても会場に窮屈な位に人がいて、人の頭からなんとか覗くのが精いっぱいになっていた。

 それでも、何度か奏と目が合ったような気がするのは気のせいだろうか。力強い歌声が真っすぐに響いたような、そう思わせてしまうのがアーティストなのだろうか。


「梨紗」


 ライブハウスの近くの本屋で待っていれば、彼女の声が私の名前を呼んだ。振り返れば、そこには走ったのか少し肩で息をしている奏がいる。


「ごめん、待った?」

「全然。 それより打ち上げはいいの?」

「もう最近は毎日のように会ってるしね。 それに」


 開いた口は、言いかけた言葉を飲み込むように閉じてしまった。あまりにも分かりやすいその閉口に私は奏を見上げる。


「湊とはるちゃんが久々なんだし二人で話してきたらって」

「……あぁ……」


 なるほど高槻くんなら言いそうだ。新美さんは、良く知らないけれど。

 それでも、いいのだろうか。また千羽さんが怒ったりしなかっただろうか。そんな考えが頭の中に浮かぶけれど、わざわざ私の方へ来てくれた奏に、それは無粋な問いかけだろうか。


「……何か考えてる?」

「え?」

「そういう時の顔してる。 私にはなんでも言っていいのに……って、そろそろ聞き飽きてない? この言葉」


 安心を与えるように、そうやっておどけてみせる奏に少しだけ笑みが漏れる。奏はいつも、私の言葉を聞いてくれる。


「……良かったのかなって。 この前も湊くんと帰っちゃって千羽さん怒ってたから」

「なるほどそういう心配してたんだ。 来月は絶対皆でやろうって約束してちゃんとオッケー貰ってきたよ。 今度は梨紗も一緒に行こうよ」


 そういうことなら少しだけ安心できる。二回連続でこんなことにしてしまったのは私のせいだからやっぱりまだ罪悪感はあるけれど、その分来月は必ず参加しよう。


 本屋を出て、賑やかな繁華街を歩いていく。奏とこうやって二人で歩くのも何時ぶりだろうか。楽しそうに話している奏の横顔に、ライブ前のような疲れは見えない。むしろ、どこかスッキリとさえしているような感じがする。ライブ後の開放感だろうか。


「それでね梨紗」

「ん?」

「ご存じの通り、ここ最近はライブに向けての練習が多くてさ、スタジオ代はかさむしバイトは減らさなきゃだしで、実は懐が寂しくて」

「だからその……居酒屋じゃなくて……家に来ませんか」


 まっすぐに私を見ていた視線が、彷徨うみたいにどこかへと逸れる。いつもみたいな快活とした話し方ではない、どこか少し自信がない声色。その一つ一つが、いつもの奏らしくない。


「私はそれでも全然いいよ」

「ほんと? あー……あのさ」

「何? さっきからちょっと言い淀んでる気がする」


 いつもとやっぱり少し違う?


「私今日、梨紗のこといっぱい触りたい」

「え」

「我慢できないと思うけど、いい?」


 留めきれない熱が溢れるみたいに、奏の瞳が熱く揺れている。瞳だけじゃなくて、頬とか、髪から覗く耳とか、そんな部分にまで奏の熱が灯っていて、それが燃え移るかのように私の体にも熱が灯る。

 いい?と聞かれて、私はなんと答えればいいのだろうか。


 肯定するにはあまりにも恥ずかしく、かといって否定するにはあまりのも惜しい。思考の渦が嵐のように吹きすさんで、結論へ至らない。


「その顔さぁ……肯定ってとっちゃうけど」

「え?」


 奏が顔を覗き込んでくる。私が今どんな顔をしているのか分からない。分からないけれど、そんな熱で見つめないでほしい。喉が渇いて、心臓が煩くて、私の方まで我慢がきかなくなりそうだから。

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