第27話好き


 断ることも出来ないまま、解決策も分からないまま月日は過ぎていく。

 更衣室に貼られたカレンダーは七月の日付で、二十七日までが斜線で消されている。今日は二十八日、問題の日はもう明日にまで迫っていた。


 今更断る正当な理由など思いつきはしない。私にやれることは覚悟を決めて、心を硬く重くし揺れないよう努めることくらいしかないのだろう。

 カレンダーの前で明日への気合を入れ更衣室を出れば、今まさにノックをしようとしていた店長が目の前にいた。


「あ、すみません」

「ああ両角さん、まだいらっしゃって良かった」

「何かありましたか?」

「ええっと……大変申し訳ないのですが」


 その言葉通り眉を下げながら、店長は要件を話し始めた。


***


「ごめんね」


 そう伝えれば、電話越しの彼女が言下に否定する。


「ヘルプ頼まれたんなら仕方なくない? 誕生日当日にバイトになっちゃった梨紗の方がご愁傷様ですって感じだよ」


 その言葉に苦笑すれば、また気にしないでいいと奏が言ってくれる。

 佐藤さんの息子さんが熱を出して急遽明日のシフトに一人穴が空くのだと店長は言い、まるで命乞いでもするかのような姿勢の低さで私に明日来てほしいのだと頭を下げた。


「ケーキは逃げないしまた別の機会にでも行けばいいよ」

「うん……ありがとう」

「せっかく梨紗から電話きて嬉しかったのにそんな声嫌だなー?」


 それは確かに奏の“仕方ない”という言葉通りなのだろう。店長はきっと私を就活生のバイター位にしか認識していないだろうし、そんな人の誕生日など覚えているわけは無い。息子さんが熱を出したのだってどうしようもないのも分かっている。


 それなのに、気にするなと言われてもこの罪悪感は消えない。その理由もはっきりと分かっているからこそ、余計に心は軋むような痛みを伴う。


「今日は? 今バイト終わって家?」

「え? うん……もう家だよ」

「ふーん……そういえば梨紗ってどのあたりに住んでるの?」


 そんな私の心情を察してか、奏は話題を逸らそうとしてくれているみたいだった。こんなことを知ったところでどうしようもないだろうに、相変わらず楽しそうに会話をする。そんな声は心地が良くて、気持ちが落ち着いて、心を穏やかにしてくれるみたいだった。


 いいのだろうか。

 店長に明日の事を頼まれたとき、頭の隅でほっとしてしまった自分がいたというのに。これで明日断れるとそう思った自分がいるというのに、だからこそ重くのしかかる罪悪感をこんな風に優しく取り除かれる資格が私にあるのだろうか。


「……あれ、奏は外?」

「んー? ふふー、踏切の音聴こえる?」

「うん……ごめん、電話して大丈夫だった?」

「ちょっと用事が出来ただけだから大丈夫。 電車乗ったら流石に切るけどね」


 こんな時間に突然外に出る用事が出来るのか、しかも電車にわざわざ乗ってまでの。そんな思考がいの一番に頭を覆いつくすのは、もう手遅れとしか言いようがない。

 あの日から随分と考えないように、心に平穏が訪れるようにしていたというのに、梅雨が明けるくらいの期間では心に変化は生まれないらしい。


 奏の一挙手一投足に心が揺れる。不安に染まり、穏やかに凪ぎ、そしてまた暗雲が立ち込める。


「……夜道気を付けてね」

「うん。 多分一時間はかからないんじゃないかな」

「十分遠いよ」


 今からそんな場所まで向かって、帰りはどうするのだろう。

 そんな思考を振り払うように首を振る。そんなの気にする必要はないし、そんなものを知って更に心を揺らしたくなんかない。


 電車ホームのアナウンス音の後ご機嫌に揺れる奏の声が消えて、通話終了の画面に切り替わる。最悪、とまず最初に形容したくなるような心地だった。

 直前になってしまった断りの連絡は電話の方がいいだなんてそんな馬鹿な配慮をしなければよかった。連絡を数通やり取りしてそれで終わりで良かったのだ。


「……っ」


 マグマが湧き上がってくるかのような、粘度のある黒い感情が溢れてくる。

 何が悪いとか、何処で間違ったとか、もうそんな理論や理屈を飛び越えて説明の仕様がない曖昧で利己的な苛立ちと悲しみだった。スマホを叩きつけたくなるような暴力的な衝動や目頭が熱くなるような悲しみを必死に堪える。体をぎゅっと縮こめれば、そんな感情がどろどろと流れ出てくるのが自分でも分かるようだった。


 こんな無様な現状を高槻くんに言ったら、どんな反応をされるのだろう。


 私以外に遊び相手がいることも、この関係が遊びであることも、この先に関係の進展はないことも、どれも知っていたはずなのに。自分が遊び相手の一人だと実感させられて、他の人の影が見えるだけでこんなにも惨めに嫉妬しているなんて。


「バカだなぁ、私」


 俯けば、目から涙が一つ落ちる。私はずっとずっと見て見ぬふりをし続けた。見なければないのと同じだと言い聞かせていた。その結果今せき止めていた様々な感情が濁流のように混ぜこぜになって吐き出されているのだ。


 こんなことなら、もっと早くに認めてしまえばよかったのかな。


「認めたところで、何も変わらないか……」


 無様すぎて、涙を流すことすら情けない。瞑った瞼に力を込めて涙が引くのをじっと待つ。そうやって部屋の時計の秒針の音だけを聞いていた時だった。握りしめていたスマホから着信音がなって、俯いていた顔を上げればそこには彼女の名前が表示されていた。


 わざわざ何をかけ直してくる用事があるのだろうか。もう取らない方がいいのではないか。今必死に流れ出ていく感情を受け止めていたというのに、これ以上決壊されたらどうしていいのか分からなくなってしまいそうだ。


———ピンポーン


「……え?」


 インターホンの音。

 こんな時間に訪問してくるなんて何か特別な理由がある人か不審者位だ。鳴り続ける電話の着信音と、インターホンのタイミングにまさかと思う。頭の中が文字通りぐちゃぐちゃになってしまって、体が思うように動かない。


 通話ボタンをタップして、耳にスマホを当てる。

 通話を切った時よりも更に弾んだ声が、私の名前を呼ぶ。なんで最寄り駅を聞いたのか、なんで突然用事が出来たのか、住所までは教えてないのにだとか、そんな行き当たりばったりな事なんてとか、全部がこんがらがって声が震える。


「梨紗ー、開けてよ」


 くすぐったく笑う声に魅かれるように、玄関へと向かう。さっきまであんなに禍々しく渦巻いていた感情が幻だったかのように消えていることも、ドクドクと煩く拍動する心臓の音も、全部奏のせいだ。


 ドアを開ける音、目の前で彼女が私を呼ぶ声、それらが電話越しに二重に聞こえる。目の前の奏が通話を切ってスマホをポケットに仕舞った後も、私は人形のようにスマホを持ったまま固まっていた。


「ふはは、びっくりした?」


 そんな私を見て、奏は猫のように目を細める。それだけで、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。


 いや、明日会えないからってわざわざこんな夜に外に出て一時間もかけて家まで来る方が悪いのだ。わざわざそんな手間までかけて目の前で優しく笑う方が悪い。そんなの、嬉しくない訳がない、特別だと己惚れない方が難しい。


 分かっている。全部自惚れだと。そこまでされたって私は特別じゃなくて、単純に奏がそういう人であるだけなのだと、誰かの言葉だけじゃなく実感をもって私は知っている

 それでもどうしようもなく思うのだ。そうであったら、特別であったらどんなに嬉しいだろうと。そんな期待が、彼女への思いが我慢できない程に募るのだ。


 嬉しさも、苛立ちも、悲しみも苦しさも、全部が私にそうだと告げる。

 私は、奏の事が好き。

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