第26話落ちていく(3)


『会えたら良かったな』


 その文面を見つめては、ホーム画面に戻ることを昨日から繰り返している。返信を送っていないのは、心のモヤモヤがずっとあるからだ。少しでも油断してしまえば、先約がいたくせにだとか、気を遣わなくていいよとか、そういうことを送ってしまいそうになるから。


「はぁ……」


 進まない自己分析表と書かれた画面を眺めてため息を吐く。面接も近いのにいまいち身に入らない。自分を理解していることでどんな質問が来ても対応ができる、という文章と事前の準備がキーポイントという文章には矛盾があるような気がするだとかつまらない反論が出てくるのだって、きっとこのイライラのせいなのだ。


 私は持参していたノートPCを閉じて、温くなったコーヒーに手を伸ばす。少し早いけれどバイト先に向かってしまおうか。今こうして時間を宥めることに使うことよりは有意義になる気がする。他の事に意識が移れば、この煩わしさもそのうち消えてくれるはずだから。

 残り少なくなったコーヒーを飲み干して席を立つと、スマホが短く振動する。画面には彼女の名前と、連絡の内容。


『誕生日どこか行きたいとこあったりする? 後甘いもの苦手とか辛いのは苦手とかもあったら教えてほしいなー』


 そんな私の気持ちなど奏は知る由もない。それはそうだ、彼女はきっと私がはるちゃんと呼んでいた子と奏が楽しそうにどこかに行くのを見ていたなんて思ってもいないだろうから。

 そもそも、そんな姿を見て私がこんな感情を抱いていることさえ、考えてなどいないのだろう。


「……」


 どうしてだろう。


 引き返せる場所はいくらでもあった筈なのだ。その都度私は気持ちが向かないよう気を付けていたし、思考を止めたり、自身に言い聞かせたりしていた筈だった。本当に、進むつもりなんて微塵も無かったのに。


 進むべき時は進めなかったくせに、どうして今。


 スマホをそのまま鞄に仕舞って、パソコンを専用のケースに入れてカフェを出る。商業施設内に併設されたそこからバイト先へは、エスカレーターで二階に上がってそのまま突き当りまで歩けばたどり着く。決まりきった順路と変わらない距離は、決まった通りに進めば必ずたどり着く。


 この感情も、そんな単純なものだったら良かったのに。

 そうすればこんな苦しさや苛立ちなんて知らなくて済んだのに。


***


「お疲れ様です」


 店長に挨拶をしてバックヤードから外に出る。昨日と同じ時間、昨日と変わらない気温、町並み。それなのに、昨日よりも随分と気分が違っている。昨日は少しでもライブが見れるのなら足を速めることを厭わなかった。むしろ心はその足並みと等しく速く鼓動していた気さえする。

 

「返信、しなきゃ」


 スマホを取り出せば、新しく通知が三件。どこかのお店のURLと、奏の文章。開けば美味しいケーキのあるカフェだった。


『ここら辺とかどう? 湊おススメらしいから味は間違いないと思う』


 どのお店も内装が綺麗で、ケーキの写真は本当に綺麗に撮れた写真ばかりだ。どちらも美味しそうで綺麗で、私はどちらでもいいよとだけ返す。返した文面を見つめて、私はまた息を吐き出す。


 行ってしまっていいのだろうか。これは奏がお礼をしたいと言い出したことではあるし、私もきっとそれなりに楽しみにしていたと思う。けれど、今はそれだけでは収まりきらないものがあると自覚してしまった。


 きっと私は己惚れてしまったのだ。己惚れて、そして期待してしまった。何度も何度もそれはありえないのだと言い聞かせていたのに、高槻くんにだってあれだけ注意されたのに。少しだけ特別になっているのではないかなんて思ってしまった。そして進んではいけない場所に足を踏み入れて、こんな無様な結果になっているのだ。


 だから、更に進んでしまうかもしれないそんな選択を取ってはいけないのではないか。二人で誕生日を祝って、あの夜のお礼なんかされて、私はもしかしたらまた期待をして、そうしてまた痛い目を見るのではないか。


 駅のホームで電車を待つ。この場所で彼女と電話をしたことを思い出す。思えばあの時だって、私は十分に危ない場所にいたような気がする。電話先の声が心地よくて電車を一つ見送るなんて、今思えば十分に。


 ……分からない。


 どこで何を間違えたのかも、どうして今ここにいるのかも、これからどうなってしまうのかも、何も自分では掴めていない気がする。真っ暗な闇の中、ぽっかりと空いた穴に落ちていくような、藻掻いてもどうにもできないようなそんな不安が体を覆っていく。


『二つ目のお店はコーヒーもおススメみたいだからこっちにしようか。 他の人との約束もあったりする? なければお昼ごろに予約しちゃおうかな』


 このまま流されてしまってもいいのだろうか。既読がついたまま、この文章に送る言葉が出てこない。

 到着した電車に乗り込む。満員に近い車内で身を縮めながら揺られている間にも、ただただ結論が出ない問いに頭がこんがらがり続けている。


 様々な想定は思い浮かぶのだ。家で親と約束があると言えばお昼の短い時間で済むからそこまで問題はないだろうとか、就活があるという理由でキャンセルしたって奏は怒らないだろうとか、そういう算段はいくつもあるというのに。

 それで、私は止まることが出来るのか分からない。この感情が無くなるのか、苦しくも辛くもなくなるのか、それが分からない。どの選択がいいのか、全く分からないのだ。


 どうして。

 その言葉に再び戻ってくる。どんな物事でも塗りつぶせない、消えてくれないその問いが私の心を独占する。


 私は一体、どこで間違ってしまったのだろう。

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