三章

第19話違和感


 電車から降りると五月にしては冷たい風が頬を撫でる。両脇に手を差し込み震えながら階段を下りて待ち合わせ場所に急ぐ。羽織る上着を間違ったかもしれない。ライブ終わりのことを憂いながら人通りの多い通りを見渡せば、右側から声が聞こえる。


「きたきた」


 視線を向ければ、通りの向こうにある電灯の下に彼女が立っていた。人を避けながら通りを横断すればアルトの声が私の名前を呼ぶ。私はそれに頬を緩ませそうになって、慌てて力を込める。


「ごめん、待った?」

「ぜーんぜん。 今日が早く来てほしいって意味では待ちわびてたけど」

「なにそれ」

「だって、梨紗に会うの久しぶりじゃない?」


 そうやって奏はまた私の顔を覗き込む。確かに、最後に会ったのはまだ桜も咲いていない三月で、冬用のコートを着ていた気がする。ピアスを付けた部分が冷たいって言いながら耳を赤くさせていたのを思い返す。

 少し上に位置する奏の顔を見上げれば、少しの違和感。少しの間その違和感の正体を探していれば、奏の目が何かを企むかのように弧を描く。


「なに? 久々の顔に見惚れてる?」

「……あぁ、髪が伸びてるのか」

「なんだそっちか」


 奏の手が自身の髪を撫でる。手に取った髪がさらさらと落下して、毛先が肩に触れる。前は肩までは無かった気がする。


「最近練習ばっかしてたから、梨紗に会う時間も美容院行く時間も捻出出来なくて」


 その言葉に少しだけ安堵する自分がいて、その思考を追い払うように視線を逸らす。連絡はそれなりにあったけれど、会おうとは一度も言われなかった。それに対して意識して気にしないようにしていたことはもう忘れてしまいたい。そういう思考の一つ一つが、積み重なってはいけないものだから。


 奏の隣を歩きながら奏の止まらない話を聞く。積もった分を少しでも消化するように次々と話題を変えながら話す姿は小さな子供のようだ。ギターの話、新曲の話、CD制作の話、尽きない話題はどれも音楽を中心としたもので、音楽に対する熱が溢れている。


「梨紗がさ、頑張ってねって言ってくれたでしょ」

「……一番大きな場所って言ってたから」

「うん。 一番大きな会場で、多分一番力入れたライブになると思う。 だからこそ頑張ってって言ってくれたことが嬉しかったし見てるよって言ってくれたことが心強かったんだよね」


 いつだって凛々しい印象を与える目尻が、その言葉に釣られるように垂れる。そんなに柔らかく笑わないでほしい。そんなに簡単に私の心を揺らさないでほしい。

 積み重なってはいけない、心を揺らしてはいけない、好きになってはいけない。


 その笑顔に、私は今までと同じ場所から言葉を吐き出す。


「……楽しみにしてる」

「もちろん。 楽しみにしてて」


 進む先はないと知っているからこそ一歩一歩が自覚的になるし、自覚的になれば歩幅を狭くすることも、先を変えることも出来るはずなのだ。笑顔に心が動くなら、その笑顔を見なければいい。そうして逸らした視線の先で、お店の看板に明かりが灯る。


「梨紗」


 自覚的に逸らした視線は、その声一つで奪われる。何気ない会話だ。話題が私と奏のことになっただけで、ライブが終わったらまた遊びたいね、なんて言葉は別に特別でもなんでもない。それでも、このタイミングでそんな言葉を投げないでほしい。上がろうとする熱を宥めるように、静かに息を吐き出す。


「就活次第だけどね」

「あー……そっか次は梨紗が忙しくなるね」


 残念そうな声色は、けれどすぐに切り替わる。予定が合わなければ仕方がない、合う時があれば会えばいい。それはいつもの奏らしい選択で、その言葉に高槻くんの言葉が重なる。

 

「着いたよ。 ここが今日の会場」


 扉を開けて中に入る奏の後ろをついていく。

 今日は純粋に楽しもう。落ちそうになる思考はとことん放棄してしまえばいい。見なければ、考えなければ、それはないのと変わらない。

 それに、ライブを楽しみにしていたのは本当の気持ちなのだから。


***


 大事な日。

 大事なライブ。

 人生で一番ってくらいの日。

 

 路上ライブで名刺をもらったことはある。四枚はくそみたいな詐欺まがいで、一枚は本物だった。でも、歌詞もメロディーもプロが作ったものを私はただ歌えばいいと言われたからやめた。


 でも今日は違う。

 今日ははるちゃんが見に来る。コネって言われれば否定できないのが辛いけれど、湊が就活を始めてしまった今もう時間はない。コネなんて使ってしまえ。私が私の音楽を続けられるなら、それくらいどうってことない。


『着いたよ。 奏ちゃんのライブ楽しみにしてるね』


 画面がキラキラしている気がする。私は直ぐに返信をして、ついでに燃え滾る猫のスタンプを送る。はるちゃんに私の作る音楽を聴いてもらえるなんて、そんなことあっていいのかな。


 私の幼馴染み、私が初めて好きになった人。お兄ちゃんのバンドを一緒に見に行った思い出に思わず頬が緩み、そのお兄ちゃんと付き合いだしたのを知ってショックを受けた古傷に顔をしかめる。そのショックが私がはるちゃんの事を好きだったのだと教えてくれたんだけど。私が女の人を好きになると知ったのも、それが初めて。


「奏、そろそろ行くよ」

「おっけー」


 最後にセットした髪とばっちり決めた服を確認して、よし。

 今日の為に出来ることは全部やったと思う。全部の時間を費やして練習したし、制作した渾身の出来のCDだって売り上げは好調。後は、売れると思わせることくらいしかないよね。

 この胸の高鳴りの中に、ライブ前の高揚感だけでは収まりきらないものがある。それぐらい、今日は大事な日。梨紗だって応援してくれている。


 真っ暗な中のざわめきを感じる。いつも通りの発声確認、コード進行、調子は万全。ライトアップと同時に音を鳴らせば、一気に会場のボルテージが上がる。チカチカする位眩しい照明の中で、彼女を見つける。


 あの頃ロングだった黒髪は、今日は茶髪でポニーテール。それでも一瞬で分かるくらいには、変わらない可愛い顔をしている。その顔が、お兄ちゃんを見ていた目が、私を見ているのは最高に気分がいい。いつも以上に声に感情が乗れば、周りの音もそれに引き出されるように音圧を増す。こんなに大きな音の中でもかき消されない位の大きさで心臓がドキドキいってる。

 届いてたらいいな、私の音楽。

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