第15話日常に溶けていく
この奇妙な関係が始まって一ヶ月。外の桜は蕾を日々膨らませ、昼間は随分と暖かくなってきた。春はもうすぐそこまで来ている。まあ、私が今いるのは埃臭い倉庫だけれど。
「両角さーん、これもお願いしていいですか?」
「あ、はい」
宜しくと朗らかな笑顔で去っていく佐藤さんの後姿を見送ってから、段ボールを仕舞う作業を再開する。上手く力仕事を押し付けられた気がするけれど、腰痛がどうだとかよく話しているのを見ているし仕方ない。黙々と作業をして、最後の段ボールを置き終わった頃にポケットに入れたスマホが振動した。振り返れば、特に人の気配はない。
素早くスマホの画面を確認すればそこには彼女の名前があった。気まぐれに連絡を寄こしては、気まぐれに優しく、気まぐれに触れてくる。そこには私の理解できる思考と理解できない思考があって、それらを含めてそういうものだと慣れてきている自分が確かに存在している。
「明日はセミナーがある……」
「両角さーん、こっち手伝えるー?」
「はい、今行きます」
都合が合えば会うし、合わないなら断る。そんなフランクな関係は悪くないと思う。同時に、私が断った場合他の誰かがいるのだろうかという気持ちにもなる。
店内に並ぶ本の在庫状況を確認して、少なくなっているものは裏から補充して、お客に聞かれた本の場所まで案内して、暇で仕方がないというわけではないけれど、ずっとフル回転なわけでもないこのバイトは結構割に合っていると思う。でも就活も本格的に始まるし、そしたらこの場所も辞めることになるのだろう。
「……人生はコントロールできる」
胡散臭い笑顔の写真と、大きな文字でそう書かれた本を見つめる。全部上手くいったと言える人は、この世にどれくらいいるものなのだろうか。
喜怒哀楽全てを含んで、感情は成り立つ。
そう言って歌う奏の音楽の方が、この本よりも心を寄せられる気がする。
「お疲れさまでした」
店長に挨拶をしてショッピングモールを社員用出口から出ればオレンジ色の夕日が眩しい。随分と日が長くなってきたし、服の隙間に入り込む風も少し柔らかくなってきた。暖かくなってくるのはいいけれど、花粉は耐え難い。
そんなことを考えながら駅に向かっていると、スマホがまた通知を知らせて振動する。
「電話……?」
奏からの着信に少しの不信感を募らせながらも通話をタップし耳に当てる。もしもし、という声が雑音混じりに聞こえる。奏も外だろうか。
「奏……どうしたの」
「明日用事あるって返事きたから、本当は直接言いたかったんだけど」
どことなく、声色が明るい気がするのは気のせいだろうか。なんだと思う?とその声色が尋ねて、頭の中で奏の目が中のように細まる笑顔を思い描く。嬉しそうに聞こえる、のは嬉しい報告があるからだろうか。
その報告先が私なことには、どれだけの意味があるのだろうか。
「……」
「なーに、そんなに熟考しなくても。ヒントは嬉しいこと」
「……曲ができたとか」
「いいね、それも嬉しい。 でもそうじゃなくて」
次のライブが決まったのだと奏が笑う。随分と性急な答え合わせだ。ゴールデンウィークに今までで一番大きな会場を押さえた単独ライブだから、今から緊張するのだと嬉しそうに言う。その声色を聞いていれば、奏がどれだけ喜んでいるのかが伝わってきて、思わず釣られるように笑みがこぼれる。
「おめでとう」
「いひひ、ありがと。 ねぇ、梨紗はライブ来てくれる?」
「え? えっと、夜なら都合つくと思う」
「……迷ったり、今回はしないんだ」
「……」
指摘されて初めて自分の答えに驚く。どうしても外せない用事がない限りは、行かないという選択肢が頭の中になかった。就活のセミナーだって学校だって、夜までには終わっているだろうという算段だけしかしなかった。
じわじわと気恥ずかしさが体を蝕む。何もわざわざ突っ込まなくてもいいはずなのに。通話の向こうでは楽しげな奏の笑い声が聞こえてくる。今の奏なら何を言っても笑ってくれるかもしれない。今の私からすれば、全然嬉しくないけれど。
「笑いすぎ」
「嬉しくて。 絶対来てね、梨紗」
「……うん」
そんな声色で言われて、行かないなんて選択肢は選べない。
カレンダーに予定を入れておこう。そう頭にメモして、通話の向こうで次のライブに向けての意気込みやスケジュールを話し出す奏の声を聞く。まるで小さな子供みたいで無邪気、それでいてところどころ理論的な戦略も織り交ぜてくるから興味深い。奏は、私が思うよりもずっと誠実に音楽と向き合っているのかもしれない。
「あれ、梨紗今駅にいる?」
「え、うん」
「電車が到着しますってアナウンス聞こえる。 ってか電車くるなら電話切るね」
「え? いや、逆側のアナウンスだからまだ大丈夫」
「ほんと?」
明るい声が、また饒舌に続きを語る。私はただそれを聞いて、相槌を打って、それだけなのにこの時間を楽しく感じている。猫の頭を撫でているときのような、穏やかで暖かで幸せな時間に似ている。
閉まるドアにご注意ください———
目の前で扉が閉まって電車が発車する。それを見送って、奏の言葉に相槌を打つ。なにをやっているのか、そんな言葉が頭の隅で響くけれど、それよりも大きな声が自身の行動を肯定する。電車を一本見送ったところで帰宅するだけなのだから大きな問題ではない。それよりも、この声の方が。
「CDも次のライブ迄には出来るから、早く聞いてほしいな」
この時間の方が大事だった。
「ふふ、私も早く聴きたい」
次はどんな曲を歌うのだろうか。歌詞が少しだけ情けなかったり寂しかったりするのは、奏がそういったものも大事にしているからだと知った。だから次の曲も、奏の大事にしているものを歌うのだろうとそんなことを思う。
「そしたらまた感想聞かせてね。 あ、電車来た? アナウンス聞こえる」
「え? あー、うん。 来た、かな」
流石に何度も同じ嘘は言えないか。奏の声に頷けば、この時間の終わりが近づく。電車が遠くに小さく見え始めた頃、携帯は沈黙し自動的にホーム画面へと戻ってくる。明るい声色のまま、嵐のように去ってしまった。
到着した電車に乗って、鞄からイヤホンを取り出して耳につける。CDから取り込んだ曲を再生して、バンドのSNSを検索すればまだ公式な発表は出ていなかった。優先して知らせてくれた事実が胸を甘く擽る。
前までは奏からライブの事を聞けなかったり行くか迷っていたりしていたのに、随分と違う関係になったいると思う。月日は年を取るごとに早く過ぎていき、変化はどんどん目まぐるしくなる。それでもその変化をごく自然に受け入れている自分がいる。五月のライブを楽しみにしている自分が、確かにいる。
イヤホンからスマホの通知音が鳴る。スマホの画面には奏からの連絡が来ていて、そこには先ほどのテンションが抑えきれていないのが伝わるような文面があって
いよいよ電車の中で一人笑う不審者になってしまいそうだった。
咳払いでなんとか誤魔化して、自分の素直な気持ちを書いて送信する。瞬く間に既読が付いて、見たこともないヘンテコなスタンプが返ってくるからあわてて口元を押さえる。
『頑張るから、見ててね』
スタンプから少し経って送られてきたその文面に、私はどうしようもなく心を惹かれてしまう。言葉では恥ずかしかったかもしれないけれど、文面でなら素直になれる。一文字一文字ゆっくりと打って、その文面を見つめてから送信する。それだけで心臓がトクトクと早くなる。
『見てるから、頑張って』
奏の事、ちゃんと見ているから。
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