二章
第12話始まり
目が覚めた瞬間叫び声をあげそうになった。少し声が漏れたかもしれない。咄嗟に両手で口元を押さえて、息を止めて目の前の光景を必死に読み解いていく。
シーツにくっついた頬が柔らかな曲線を描いて、すっと綺麗な鼻筋とこれまたすっと綺麗にラインを形どる目尻。可愛いとかかっこいいとか表現するよりも、美しいとか綺麗が似合う。そんな顔が私の目の前にある。その顔の向こうには見覚えがあるようなないような、真っ白な壁と服が掛けられたハンガーラックが見える。
逃れようもない事実が体にのしかかってくる。
最後の望みにすがるように、布団を少し持ち上げて自分の体を確認すれば、裸族でもないのに裸になっている。私って私が思うよりも随分と馬鹿で阿保で倫理観が破綻していたらしい。
「……」
声に出来ない叫びを心に響かせる。次こそ、ちゃんとした関係を築いていこうと思っていたのに。奏のいろんなことを知って、友達になれたりしたらいいなって思っていたのに。
————滅茶苦茶したいよ。
あの言葉でただでさえお酒で鈍った頭がすっかりと機能を放棄したことを覚えている。どういう関係になりたいのか、奏とこれからどうしていきたいのか、ずっと考えていたことが何処かへと消え去って、喉奥を焼くような熱さに思わず私もと言いそうになって。
目の前にある奏の顔を見つめる。熱を灯した声や瞳は、今は深い眠りについていて、規則正しい呼吸音だけが聞こえている。
私は、私が思うよりもずっと馬鹿で阿保で、倫理観が破綻しているのかもしれない。お酒は二日酔いも持ち込まずにすっかりと抜けているし、頭は正常に物事を考えられるくらいにはすっきりとしている。それなのに、奏を見ているとほのかに熱が生まれるような感覚がある。閉じた瞼の縁や、綺麗な鼻筋、形の良いピンク色の唇、全部が綺麗で、心臓がトクトクと早くなって、体の温度が上がっていく。
割り切れるなら、どんな関係でもいい。
そんな都合の良い言葉が頭に浮かぶ。いい訳がないのに。ゆっくりと伸ばして、ほっぺに人差し指で触れる。触れた場所から熱が生まれるみたいで、それなのに手を離し難い。理性と本能が真っ向から対立していて体や思考をどちらに傾ければいいのか分からない。これからは健全な関係を築いていくはずだったのに、実際はこんな情けない事態になっている。
「……ん……」
「あ」
「……おはよ」
おはようと返した声が思いのほか裏返った。奏はそんなことは気にしていないようで、あくびを一つかみ殺すとこちらをじっと見つめてからふにゃりと子供みたいに笑う。
「いひひ」
「な、なに?」
「んー、おるなーって。 前は朝起きたらいなかったから」
「……」
前回は、状況を飲み込む前にここから逃げ出した。それで全部間違いだったってことにして終わろうとした。
でも、今回は逃げようという発想は無かった。やってしまったことを無かったことにしようとは思わなかった。もしかしたら理性は少しずつ劣勢になっているのかもしれなくて、私はどんどん馬鹿で阿保になっているのかもしれない。昨日の夜も二度目の過ちで、今日から健全な関係になんて正常なら思うはずなのに。生まれた熱が中々消えてくれない。もう、いっか。そんな悪魔の囁きが遠くから聞こえている。
「奏は」
「んー?」
「こういう関係の人が、たくさんいるの?」
言ってからなんとも面倒くさいセリフだなと思う。まるで重い束縛女みたいだ。思わず奏が答える前に奏の口を塞いで、前言撤回する。多分そういうことじゃなくて、ほんとうにいいのか?そういう事が知りたい。
奏のことを知りたいと思ったことは事実で、こんなつもりじゃなかったのだって事実で、けれど今、最初の頃のように後悔しているかと問われればそこまで後悔もしていなくて、割り切れる関係ならそれでもいいのかもしれない、なんてまんまと乗せられそうになっている。だから、もっと判断材料が欲しいのかもしれない。本当にそれでいいのか、馬鹿で阿保で、おまけに愚かになってしまわないか。
つまるところこの感情の落としどころが欲しいのだ。
「……。 なんていうか、お互いそういう欲を満たすため、みたいな人ならたまーにいるよ」
「答えなくていいって言った」
「だってずっと難しい顔してたから。 またなんかぐるぐる考えてるのかなって。 でもその人たちは私の本名だって知らないし、バンドやってることだって知らないしこうやって朝起きて隣にいると嬉しいとかないし。そういう意味では梨紗みたいな人はいない、って事になるんだけど」
「梨紗にとってこういう関係が、いるになるのかいないになるのか、どっちが答えなのか難しい」
予想外に難しい答えが返ってきた。分かるような分からないような。つまりはただ欲を満たすためだけの関係ならいるけど、私はまた少し違う、ということだろうか。そうすると私はそれをどう評価したらいいのだろう。いや、そもそも割り切った関係がいるのはどうなのだ。
「……ごめん、やっぱり全部ひっくるめてなし」
「えー……何、梨紗は何考えてるの。 教えてよ」
自然光だけがほのかに照らす室内で、奏の目が真っすぐに私を射抜く。言葉がまとまりきらなくて、どう言えばいいのか分からない。本当にこの関係でいいのか、誰か教えてほしい。
「梨紗」
「え、ん」
額に柔らかい感触が触れて、目の前に奏の胸元があって思わず息を止める。真っ白な肌が視界一杯に広がる景色に、思考が霧散して、思考に埋もれていたはずの熱が芯を持って育ち始める。また知らない何かが私の中で生まれてしまっている。
私がどんどん、私から離れていく。
「梨紗が何を考えてるのか私は分からないから代わりに私の気持ちを言っておくと、私は梨紗ともっと仲良くしたいなって思ってるから。 だから出来れば何も言わずにまたいなくなるなんてしないでね。 我儘言っていいし、文句とかいっていいから、変に我慢はしないでよ」
奏の手がゆっくりと頬に触れる。私よりも低い体温が頬を撫でて、その後に唇に奏のそれが触れる。もう何度触れたか分からないそれは変わらず柔らかくて、変わらず優しいと感じる。天秤に悪魔が座って、ゆっくりと天秤が本能の方へと傾いていく。
奏が心配しているようなことを考えていたわけじゃない。私はそんなまともな場所でそもそも悩んではいない。この関係を無かったものにするなんて今日は一度も考えてなんかなくて、ただ割り切ってしまうための言い訳を探していただけで。
つまり最初から、私が出したい答えは決まっていたのだ。
「……私も……奏ともっと仲良くなりたい」
「……えー、ちょっと。 今のいいね」
ぐっときた、なんて言って目を細めて笑うから、私はとうとうこのどうしようもない馬鹿で阿保で倫理観の破綻した自分を受け入れることにして、ひとまず朝ごはんを奏に強請った。
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