第4話:過ちか過程か

 

 自分がこんなにもバカだとは思わなかった。


 ワンナイトなんてどこか遠くの世界の出来事だと思っていたし、恋人と手を握ることすら苦痛な自分がそんな立場になるだなんて夢にも思っていなかった。そう、つまり浅はかで愚かで、バカだったのだ。


 数日頭を悩ませたその事実は、随分と時間が経った今でも不意に体に降り注いでは体をずぶ濡れにして重くさせる。

 大学の講義室、年明け初めての講義でもそれは不意に降りてきた。


 両手で顔を覆い俯く。何度も思い返してしまったせいか、頭の中ではいやにリアルな再生映像が流れている。普通こういうのは酔って記憶がないとかじゃないの。現実の方がドラマなんかよりよっぽど無慈悲だと思う。


 奏とは、あれ以来会っていない。そもそも連絡先を交換すらしていない。朝起きて裸の自分と奏を見て、服だけ着て奏の家を飛び出してきたから。カーテンから差し込む朝日に照らされた白く美しい体を思い出す。

 

「……」


 鞄に仕舞ってあった紙を取り出して広げる。A4の紙には、あの人が所属するバンドの名前と、バンドメンバーの軽い紹介と、バンドのSNSアカウントが掲載されている。

 いや、連絡なんかしないけど。流石にそれはありえないけど。


「あれ、それ」

「え?」


 後ろからの声に振り返ると、同じ学科の男の子が私の方を指さす。指の先へと視線を移動させると、どうやら私の持っているチラシを指しているらしい。これ?と聞きながらチラシを渡すと、彼はそれに顔を近づける。


「知ってるの? このバンド」

「この前偶々見かけて……」

「マジ? 俺このバンド好きなんだよね。 あ、ていうかライブあるけどもしかして見に行ったりする?」

「あ、いや……」

「……そっか。 ごめん講義中に話しかけちゃって」

「いえ」


 会釈をして前に向き直る。びっくりした。学科の中でも目立つメンバーの一人だった気がする。高槻君、だっけ。というか周りに知っている人がいるなんて、もしかして有名なバンドなのかな。

 歌声すごく良かったし、人気だとしても頷ける気がする。あの綺麗なアルトの歌声がもう聴けないのは惜しい気持ちもあるけど、もしライブに行って顔を見られようものなら耐えられない。


 チラシをじっと見つめる。SNSのアカウントに動画が上がっていたりするかな。


「それじゃ、今日の講義はここまで」


 はっとして視線を上げると、教壇前の黒板には書ききれていない文字がたくさん羅列されていた。ぞろぞろと出ていく生徒に、すかさず文字を消していく教授。とりあえず一枚写真を撮る。後は誰かにノート借りよう。


「りょうちゃんお昼行こー」

「有華。 ちょうどよかった」


 両手を有華の前に広げてノートを催促する。唯一同じ大学同じ学科の幼馴染は、こういう時に有難い。有華は目を細めて、人さじ指を立てる。

 食堂のプリンを条件に取引は無事に成功した。


「てかさ、さっき高槻君と話してた?」

「あー、ちょっとだけ」

「何の話するの二人って」

「クリスマスに路上ライブしてた人のチラシ見てたんだけど、そしたら俺も好きーだって。 有華知ってる?」


 鞄から取り出したチラシを広げて有華に渡す。有華は近眼の人のように顔を近づけたり逆に遠ざけたりしながら一通り見た後、知らないと答えた。

 やっぱり知らないよね。高槻君がライブハウスによく通う人種なのかもしれない。イメージ的には全然あり得そうだな。なんならバンドとか組んでそう。


「クリスマスって言えばさ、デートどうだった?」

「……」


 自分でも驚くことに、あれ以来すっかりと忘れてしまっていた。そして今の今まで忘れていたその事実にじわじわと染み込むように罪悪感が胸に広がっていく。あんだけ最低なことしといて、何忘れてるんだ私は。


「何その罰が悪そうな顔。 喧嘩でもしたの?」

「いや……ええっと、別れた」

「え?」


 困惑の声を数度上げた有華は、私の肩を掴みながらなんでと問いかけてくる。なんで、なんてどう言えばいいのだろう。適切な言葉は浮かばず、説明をするには長すぎる。しばらく頭を回転させた挙句、振られたと、それだけを言葉にする。


「あー……ごめん、そっか」

「いや、そもそもあんまり雰囲気良くなかったし、仕方ないよ」


 どの口が仕方ないと言っているのか。そう自虐する自分に、奏の言葉が再生される。隙あらば入り込んでくる彼女の記憶は、それだけ強烈だったことの証左なのだろうか。私を悪くないという声、私を梨紗と呼ぶ声、笑う声、どれもが全部、生活の隙間に未だ根強くい続ける。


「……ねえ有華」

「ん?」


 自分のトレーから有華のへとプリンを移す。

 目の前にいる有華から視線を落とし、うどんの麺を掬いながら続ける。


「バンドマンってどう思う?」

「ん?」


 訝し気に見つめる有華に、どこまでをどう説明するかを考える。夜の事はまず言えないとして、言えないとすると途端に説明が難しくなるな。客観的な意見を乞いたいけど、事情は説明できない。流石に友人にワンナイトしましたなんて言えない。有華がなに、と催促する。うどんを汁の中に戻す。


「クリスマスの日、そのチラシ貰ったバンドのボーカルの人に話しかけられて」

「は? え、そういう話? いやいやバンドマンはやばいでしょ」

「やばい?」

「周りにそういう人がいる訳じゃないけどよく言うじゃん、付き合っちゃいけない3Bみたいな」


 それは私も聞いたことがある。やっぱりそういう類の悪いパターンなのだろうか。いや、そうなのはきっとそうなんだろう。私は何で例外かもしれないといえる何かを探そうとしているのか。


「その人がどういう男かは知らないけど……知らぬが仏みたいな感じじゃないかな……りょうちゃんが泣いてる姿は見たくないよ私」

「いや、別にそういう訳じゃなくて。 でもやっぱ不用意に近づかないほうが良いよね」

「そうそう、そっちの方がいい!」


 あの日は最悪の日で、あの日の私は人生で一番バカだった。次は絶対に同じ過ちは繰り返さない。そう決めた選択肢で合っているはずなのだ。


『ライブあるけどもしかして見に行ったりする?』


 何を思い出しているのか。ない。断じて無い。

 あの日は全部過ちで、そしてそれは全部あの日で終わりにしなくちゃいけない。

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