第3話最悪なクリスマス(3)


 奏の手のひらが私の手のひらに合わさって、恋人つなぎのように指が絡まる。肩に寄りかかる重みに、香水なのか何か花のような香り。少しでも首を右に捻れば、奏の顔に唇が触れてしまいそう。


「これはドキドキする?」


 思わず息を潜めてしまうほどの距離で奏が尋ねる。心臓がいつもよりも早く鼓動していて、体が熱い。なんでこんなことに。隣で奏がレモンサワーを嚥下する音さえも聞こえる。さっきまでテレビだってつけていたのに、なんで消されたんだろう。

 奏の手が、答えを急かすように私の手をぎゅっと握る。


「た、多分」

「じゃあ次」


 奏の家で飲み直して、更に話は深まっていったのは覚えている。二人でソファーに座って、コンビニで買ったレモンサワーで乾杯して、そもそもあんまり人に興味がないだとか人に対してドキドキしたりしないだとか、そんな事を言ってしまったのも覚えている。それに対して、じゃあ私が実験台になってあげようと奏が悪ふざけし始めたのまでは笑っていられたのだ。


 じっと見つめられるのも、肩を寄せられたのも少し戸惑うくらいだったのに、なんていうか、なんか少しいやらしい手つきがやけにリアルだし、何より声色が違う。艶のような、湿度のようなものを纏って名前を呼ばれると、喉がぎゅっと締まる。


「いい人だなって思うけど、手を握ったりキスをしたりすると違うなってなるんだったよね」

「え、まあ……。 え、え?」


 今手を握っている状況と、その奏の言葉が示すことが頭をよぎる。考えすぎに違いないとすぐにその思考を打ち消そうと身を引くと、奏が密着するように身を寄せる。

 ソファーの肘掛けに背中が触れた頃には、私の足の間に奏が入り込んでいた。


「本当に嫌になったらやめるから遠慮なく言ってね」

「まって、訳わかんないから」


 奏がテーブルに置かれた缶を取って、その飲み口を唇につけられる。缶の底を持ち上げられて慌ててそれを飲み込む。さっきから全部が突拍子なくて、もしかしたら奏も酔っ払っているのかもしれない。


「んっ、」


 飲み込み切れなかったお酒が口の端からこぼれる。ひんやりとした感覚が首を通って鎖骨へと流れてニットに染みを作る。でもそれを拭う時間も余裕もなくて、目の前の人を見上げることしか出来ない。心臓が壊れたみたいにドキドキ言ってる。

 嫌と言えば、全部止めてくれるのだろうか。そもそも私は、この状況を嫌だと思っているのか。


 私は今何を避けているんだろう。以前の、彼とキスをした時の心に溜まる不快さは今もあるのだろうか。早くあの空気から逃げたい、もうすべての関係を白紙にしてしまいたい。全部が間違いだと胸を叩きつけるような、あの気持ち悪さを今感じているのだろうか。


「梨紗」

「わっ」


 いつの間にか落ちた視線を引き上げるとびっくりするほど近くに奏の顔があった。あと数センチお互いが動いてしまえば、触れてしまう。目の前の瞳、奇麗な二重の曲線、形のいい薄い唇。こんなに近くでも見ても変わらず奇麗で、思わず唾液を飲み込む。

 目を閉じて、すぐに唇に何かが触れる。柔らかくて、自分のじゃない他人の温度。心臓はパンって音を立てて割れてしまいそうな位おかしくて、呼吸一つ忘れてしまいそう。


 嫌、じゃない。全然違う。無理だって逃げたくなるようなあの感覚が全然出てこない。ただひたすらにドキドキして、体の動かし方呼吸の仕方一つ分からなくなる位、ただただ熱い。


「……えー、顔真っ赤」

「うるさい」

「ふはは、段々口悪くなってきてる」


 奏が笑うと、その体の振動が密着した体に伝わってくる。奏の感情が体に流れ込んでくるみたいで、くすぐったい。猫の目のように細くなった目がまたまっすぐに私を射抜く。そうしてもう一度、唇が触れる。さっきは触れるだけだった唇は、感触を確かめるように角度を変えて触れてくる。啄むように何度も触れられて、頭が沸騰するように熱い。

 

 ぬるりとしたものが、上唇を僅かに撫でる。思わず逃げるように引いた頭を支えるように奏の手が撫でて、逃げるのを諫めるように後頭部に回る。目を開けると、そこには獲物を前にした猫のような目が真っすぐに私を見ていた。


「だーめ」


 食むように奏の唇が触れる。さっきよりも熱を誘うような触れ方。時折舌が撫でて、そのたびに体が緊張する。それを宥めるように奏の手が頭を撫でる。

 そうやってちゃんと私の反応を見ていたのか、少しずつ力が抜けてきた頃に舌が唇の隙間に伸びる。この先は、まだ誰ともしたことがない。


「梨紗、口開けられる?」


 甘く煮詰めたようなアルトの声。何かを考えるよりも、口を開いてしまう方が早かった。薄く息を吐き出すような笑い声の後に、滑る感触が口内に入り込む。けれどそれは、少しだけ触れてはこちらを待つように離れる。踏み込みすぎないように慎重に私の反応を見ている。強引なくせに、一つ一つはとても丁寧で慎重で、とても優しい。

 そっと触れるそれに、合わせるように触れてみる。少しずつ触れる面積が増えて、ゆっくりと絡めるように触れ合わせると、頭に電流が走るような感覚が生まれる。キスってちゃんと、気持ちいいんだ。


 誘われるようにゆっくりと合わせて動いて。撫でられると頭が痺れて。体の力が抜けていくような、思考が欠落していくような、もう全部がどうでもよくなっていくみたいな感覚。ただ全部、任せてしまいたい。

 

「……可愛い」

「そういうの、いい」

「本当に思っただけなのになあ。 ね、梨紗」


 奏がまたキスをして、それから口の端から顎、首元へと舌を滑らせていく。キスとは違うもっとバチバチと弾けるような強い快感が体を走って、思わず声が漏れた。レモンサワーが垂れた場所を拭うように動く舌は、鎖骨とニットの間まで舐めとると離れていく。


「電気消していい?」


 その声、ずるい。その声は最初から私の心を惹いて、言葉全部をまるでいいものみたいに響かせてしまう。散々溶かされた理性や倫理は簡単に通過してしまって、どうしたって否定の言葉が浮かばないのだ。

 頷きと沈黙の間のような声を出せば、奏は頬にキスをした後にリモコンで照明を落とす。


「あ、レモンサワーあと少しだけど飲む?」

「……飲む」


 うっすらと暗い常夜灯の中で、奏がレモンサワーに口を付ける。嚥下の音が響いて、その後に奏が私を見つめる。まずい、と思った頃に唇に奏の唇が触れて、隙間を無くすように触れたそれがゆっくりと開く。顎を持ち上げられて、隙間から生ぬるいレモンサワーが流れ込んでくる。零れないように必死に嚥下して、全部を飲み干してからクスクスと笑う奏の肩をグーで殴る。


「普通に飲ませて」

「ごめんごめん」


 親指の腹で唇を拭いながら楽しそうに笑う奏はそのままフランクに唇を重ねる。その後に嫌だったら言ってと確認する奏は、もしかしたら少しでも私の緊張を解くためにこんな悪ふざけをしたのかもしれない。

 だからこそ、嫌だなんて思わないのだと思う。愛情なんてものは私たちの間には存在しない。それでも、ただ気持ちよさに身を任せるような自分本位な行為ではないところが安心できる気がする。


 もう一度、やり直すように触れ合う。啄むように触れて、唇を甘噛みされて、舌を触れ合わせる。ゆっくりと熱を分け合うように丁寧に溶かし合う。やっぱり、気持ちいい。どちらかの熱だけが上がってしまわないように、呼吸を合わせて一緒に気持ち良くなっていく感覚が楽しい。

 奏はきっと、こういうのに慣れているんだろうな。もしかしたら怖い位遊んでいるのかもしれない。今日会っただけじゃ本当のところなんて測れないけど、多分、経験は多いのだと思う。世間的に見れば、私はいわゆる悪い虫に捕まっている状態だ。


 それなのに、恋人とするよりも安心してしまう。好意も欲も、直接受けると心が逃げたくなるから。これ位の距離感の方が素直に身を任せてしまえる気がする。そんな思考も、周りから見れば騙されているふうに見えるのだろうか。


「んっ」


 奏の手が、服の下の肌に直接触れる。今までのどんな時よりも熱い奏の手が触れると、熱が無尽蔵に体の中に溜まっていく。どれだけの熱をこの体は許容できるのか怖くなるくらい熱くて堪らない。そんな熱く甘い刺激が思考さえも溶かしていく。難しい事なんて、今はもうどうでもいいのかもしれない。いや、もうどうでもいい。

 今はただ、この時間に溺れたい。

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