第2話:最悪なクリスマス(2)

 

 オレンジの照明で暖かく彩られる店内は、騒がしいというよりは穏やかな雰囲気だった。喧騒の中聞こえるように出していた声とは違う、隣の人にだけ聞こえる音量で話す彼女の声は耳に心地良い。他人の声を心地よく感じるのは初めてな気がする。

 落ち着いたアルトの声が、言葉を紡ぐ。


 つるまかなで。

 鳥の鶴に間、音楽を奏でるの奏で鶴間奏。


「あなたは?」

「両角梨紗です」

「もろずみ、初めて聞いた苗字」


 両方の両に、ツノの角、ナシの梨に糸偏に少ないと書く方の紗。説明する時にいつもめんどくさい名前だなと思う。もろずみと正しく呼ばれることの方が少ないし、ちょっと不便な名前。


「珍しくて一回聞いたら忘れられないんじゃないですか?」

「意外とみんな忘れますよ」

「えー、つるまよりカッコよくて良いのにな」


 そう言って気さくに笑いながらメニュー表をテーブルに広げる彼女は、何を飲みますかと笑う。目に入ったビールを指さすと、鶴間さんがビールを二つ店員さんに頼んでくれた。すぐに運ばれてきたグラスを持って、彼女のグラスに傾ける。


「メリークリスマス」

「え、あー……メリークリスマス?」

「ふははっ」


 よく笑う人。凛とした雰囲気のある目は、笑うと猫のような弧を描く。鶴間さんおススメのメニューに全部頷くと、彼女はそれを全部頼んでしまって、テーブルはおつまみや料理でいっぱいになった。まるで自分が作ったみたいに一つ一つ料理の説明をしていく鶴間さんの声を聞きながら、口に含む。たくさんの説明に対してただ一言美味しいとしか返せない私に、鶴間さんはまた猫の様に目を細めて笑う。


「良かった、意外と元気だ」

「元気?」

「えっと……怒らないでくれますか?」


 小さくなった声に首を傾げる。怒るようなことでもあったっけ。言葉の意味をいまいち飲み込めないまま、一先ず今回一番のお気に入りである生ハムへと箸を伸ばす。


「よくわからないですけど、多分怒らないです」

「じゃあ単刀直入に言うと、両角さん今日恋人と別れたのかなって」


 箸から生ハムが落ちる。テーブルに落ちたそれを箸で掬って皿に避難させてから、鶴間さんの顔を見つめる。一体どうしてそんなことが分かるのだろうか。


「こんな奇麗な人がやけ酒買ってクリスマスの夜一人で歩いてるのを見れば、そうなのかなって。 不躾だったらごめんなさい」


 私の表情を伺うように黒い瞳が私を見つめる。怒らないでくれますか、とは不躾な質問に気分を害さないかということか。動揺しているのは確かだけど、そこに怒りの感情はなくて、驚きの方が圧倒的に大きい。もう一度彼女の目を見つめる。こんなプライベートな話を鶴間さんにして、彼女は退屈しないだろうか。でも、この話題を振ってきたのは彼女の方だし、変に濁したりする方が不自然な気がする。


 先ほどのハムを食べて、ビールを飲み込む。苦味が喉を通って、ハムの塩気と相まって美味しい。


「鶴間さんの言う通り、今日振られたんです」


 濁したり隠したり、そんな必要が無いような気持ちに彼女といるとなってしまっているみたいだった。それは彼女の気さくな雰囲気のせいかもしれないし、アルコールのせいかもしれない。確かに少し、体が熱い気がする。

 もう一度ビールを飲んでから、ぽつぽつと言葉を吐き出していく。グラスの中のビールが無くなる頃には、ただ静かに耳を傾けてくれる鶴間さんが時折ビールに口をつけるのを横目に心に溜まっていたものをあらかた話してしまっていた。


「自分でも最悪なことしたなーって」

「別に良くないですか。 好きな人と付き合えないより好きな人が自分のことを好きになろうって努力してくれる方が嬉しいと思いますよ」

「いや、多分、努力という努力もしていないというか」

「じゃあちょっと言い方変えます。 チャンスがないよりチャンスがあった方がいいってことです。 両角さんに好きになってもらえるよう頑張るのは向こうです」

「うーん……でもその結果がこうだし……」

「それは向こうが勝手に諦めただけで両角さんは悪くない」


 そう断言して、彼女はビールを飲み下していく。お互いのグラスが空になって、何か飲みますか、と彼女がメニューを渡してくる。その声や表情は相変わらず心地よくて、私の意見を否定したいというよりは私は悪くないって言ってくれている感じがする。


「レモンサワーで」


 レモンサワーを二つ注文し、頬杖をつきながらサーモンのカルパッチョを咀嚼する鶴間さんは、考えを整理しているような神妙な顔でテーブルを見つめている。鶴間さんの言うことも一理あるとは思うけど、私の判断が不用意に他人を傷つけてしまったという事実はやっぱり変わらないと思う。どちらが悪いかで言えば、流石に私が悪い。でも、考え込みすぎるのは良くないという事も少しは心の中に留めておこう。


「クリスマスくらい、自分が悪いなんて思わなくたっていいじゃないですか」


 拗ねたような声色でそう言い、彼女は分かりやすく口を尖らせる。私が悪いというジャッジにはやっぱり納得がいかないらしい。だからといって、クリスマスだからなんていうなけなしの理論がおかしくて思わず笑えば、猫がじっとりと人を見つめるような視線が目の前にあって更に頬の筋肉が緩まる。


「鶴間さんのおかげで大分気は紛れてますよ」

「それならいいですけど」

「というか実際、そんなに落ち込んでるのかと言われると分からないです。 本当は落ち込まなきゃ相手に悪いって思ってるだけなんじゃないかって」

「だから、そうやって自分を虐めるのはやめましょうよ。 自分本位でいいじゃないですか、殊更恋愛に関しては」


 そういうものなんだろうか。鶴間さんは奇麗だし、きっと私よりも経験は豊富だろうな。


「お待たせしました」


 運ばれてきたレモンサワーを店員から受け取って、一つを鶴間さんに渡す。鶴間さんの手がグラスを持って、同時にもう片方の手が私の手を掴む。突然のことに意図が分からずその手を見つめる。レモンサワーの代わりに繋がれた鶴間さんの手は、やっぱりとても細くて柔らかくて、私のよりも冷たい。


「私は今すごい我儘でここまで両角さんを連れてきましたけど、後悔してないです」

「それは私も、結構楽しいですよ」

「結構?」

「そこ引っかかるんだ」


 クスクスと笑うと、鶴間さんの顔も少し綻ぶ。

 鶴間さんの指が手の甲を撫でて、そして離れていく。レモンサワーに口を付ける彼女を見て自分の分に口を付ければ、口に広がる酸味とアルコールの苦味に、喉がくっと締まる。

 なんだろう、会話そのものが楽しいっていうのかな。意見をぶつけ合っているというより、会話でじゃれているようなそんな感覚。言葉遊びにも及ばない、もっと幼稚なやり取りだと思う。きっと明日には忘れているようなそんな他愛のない話。

 それが不思議と楽しい。


「両角さんって他所他所しいって思わないですか?」

「え?」


 突然の言葉に、意図が分からず頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。私の頭が回っていないだけなんだろうか。酔っているのかもしれない。確かに体は熱くて、多分酔っている。

 

「友達からはなんて呼ばれてますか?」

「あ、呼び方の話。 りょうちゃんって地元の友達からは呼ばれてますね、大学の友達は皆梨紗ちゃん」

「え、なんでりょうちゃん?」


 予想通りの反応に肩を揺らす。小さい頃に付いたあだ名って大体変というか独特というか、だから大学ではこのあだ名で呼ばれているなんて言っていない。鶴間さんだにだけ、特別に教えている。


「両角をりょうかくって呼ばれて、それがきっかけでりょうちゃんって」

「あー、そういうことか。 私もつるちゃんって呼ばれたりするから同じ系統かも。 梨紗って呼び捨ては呼ばれない?」

「……元彼はそう呼んでました」

「げ、じゃあ梨紗って呼びます」


 じゃあの使いどころが独特だなぁ。なんだかそんな部分さえも面白いけど、それは私が単純に酔ってなんでも面白い状態なだけかもしれない。なんで、と聞けば、上書きしていい思い出にすると鶴間さんが言う。


「それって上書きになるんですか」

「梨紗って呼ぶ声が私の声の方が良くないですか?」

「あはは!」


 思わず店内の雰囲気にそぐわない声量の笑い声が漏れてしまった。だって、流石に彼に同情するくらいの酷い言われようだし、自信たっぷりに言うしでツボに入ってしまったのだ。口元を抑えながら必死に笑い声をかみ殺していると、目の前で鶴間さんが肩を震わせて笑っている。そのまま二人して必死に笑いを堪えて、息を吐きだして、見つめ合ってまた笑う。

 出会ってたったの数時間の筈なのに、こんなに楽しいなんてことあるんだ。


「はー、涙出るくらい笑った」

「いや、これ鶴間さんのせいですから」

「梨紗は私の事なんて呼んでくれる?」

「え、あー……つるちゃん」

「却下」


 黒い瞳が急かす様に私を見つめる。


「じゃあ、奏」


 私をまっすぐに見つめる瞳が弧を描いて、形のいい薄めの唇が嬉しそうに吊り上がる。どうやら満足のいく答えだったらしい。私は底に溜まるほとんど水のレモンサワーを飲み干す。


「さて、もうそろそろ終電を気にした方がいい時間なんだけど」

「そっか、もうそんな時間なんだ」

「そう。 でも、もう少し梨紗と話したりしたいなーって」

「……家、近いんだっけ?」

「家は申し訳ないんだっけ?」


 幼稚な言葉の投げ合いをして、また顔を見合わせて笑う。空になったグラスに、なくなったつまみや料理たち。終電が迫る遅い時間。それは言わずもがな解散か移動かの合図で、どっちがいいかはお互いきっと同じ意見な筈だ。奏の手がギターと荷物に伸びて、椅子から立ち上がった奏が私を見下ろす。


「私の家で、飲み直しませんか?」


 その言葉に、私は迷うことなく頷いた。


 

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