言葉を聴かせて
里王会 糸
一章
第1話:最悪なクリスマス
「別れよっか」
そう言われてまず最初に、やっぱり、と思った。
その次に、よりによってこのタイミングか、と思った。
クリスマスソングが流れるレストランを出ると、今年一番流行ったラブソングが街のどこかから流れている。浮かれた空気と冬の冷気から逃げるようにマフラーに顔を埋めながら、ただ静かに歩いていく。付き合って、多分もうすぐ一年と半年。最初から順調とは程遠くて、むしろよく頑張ってくれていたと思う。
目の前を歩く背中を見上げる。その姿を見るのはもしかしたら今日で最後なのかもしれない。
そう考えて、ほっとする自分がいるんだから最悪だ。
まだ人で賑わう駅構内、改札の前で手を振る。改札を抜けてスマホを確認すれば時刻はまだ二十一時で、このまままっすぐ帰る気にはなんとなくなれなかった。逆側の改札に出て、少し歩こうかな。彼は地下鉄だし、流石に会うこともないだろう。
改札を出て少し歩けば、眩しい位にライトアップされた道に、鳴り響くクリスマスソング。道を歩く人々は皆楽しそうで、そんな浮かれた空気の中に白い息を吐き出す。
別れよっか、そう言って寂しそうにしていた彼の表情を思い出していると、その表情にどうしてと聞く事すらしなかった事に気づく。それはきっと、それだけ関心が薄いということで、きっとそういうところが年月をかけて彼の心に降り積もっていったんだろう。
良い人だなと思った。この人なら好きになれるかもしれない、少なくとも付き合うことに嫌悪を抱かなかった。二十にもなって未だに恋人が出来たことがない状況もなんとなく居心地が悪かった。そういう理由でしかなかったから、私と彼の間にはずっとズレがあった。それを埋めようと頑張ってくれていたけど、結局埋まらないそのズレに彼は遂に諦めてしまった。私が彼を好きになるということを、彼は諦めてしまった。別れてくれないかではなく、別れよっかという言葉だった意味も、今ようやく理解する。
「うわ……」
自分の最低さを改めて自覚させられて、溜まらず頭を抱える。やっぱり今日は大人しく帰ろうかな。一人寂しく酒でも飲んで、この罪悪感と一日くらいは向き合って反省した方がいいのかもしれない。どこかから聞こえるラブソングを背にして、近くのコンビニに入る。サンタクロースの帽子とコンビニの制服を着たスタッフを横目に、お酒が陳列する棚から適当にレモンサワーの缶を取り出す。お腹は減ってないし、つまみはスルメでいいか。適当に籠に入れて、サンタの帽子を被った店員さんのレジに並んで会計をする。
「ありがとうございましたー」
サンタさんの気の抜けた声に少しだけ和みながらコンビニを出て駅に向かう。クリスマスにコンビニでお酒を買ってライトアップされた道を歩く姿は、なんだか随分と世の中に摩耗された女になっている気がする。年を取るってこういうことだったりするのかな。そんなどうでもいいことを考えているときだった。
「————」
喧噪の中に聞こえた、誰かの歌声。駅に近づくにつれ、すこしずつそれが大きくなっていく。力強い歌声と、綺麗に抜ける高音が奇麗。声が聞こえる方に視線を移すと、そこには小さな人の輪が出来ていて、その中心で歌う人が見える。
なんとなく足を止めて、輪の少し外からその光景を眺める。今日一日でたくさん聞こえてきた歌の中で、初めてちゃんと耳に入ってきた気がする。流行のラブソングを歌うその人を見つめる。ジーパンに、オーバーサイズのパーカーとロングコート、それだけで様になる高い身長。ショートの黒髪はパーマなのかセットされているのかふわりと膨らんでいる。中性的な見た目だけど、声色は女の人だ。
奇麗な人。
何度も聞いた歌詞が、不思議と言葉として響いてくる。魅了するって言うのかな、こういうの。あっという間に一曲が終わって、周りから拍手が聞こえて慌てて拍手する。力強く一音一音を歌うのとか、高音が奇麗なとことか、後は単純な声色の好みもあるかもしれない。もう一曲くらいは聴いてから帰ろうかなと思うくらいには惹きつけられている。
「最後の曲です。 この曲は自分で作った曲なんですけど、クリスマスだしせっかくなので聴いてください」
歌声より少し低い声がそう言って、ギターの弦を調整した後、ギターが鳴り響く。初めて聞く曲は、さっきの曲よりも少しだけ暗く、自信がなく、それでもただ誠実に思いを募らせていく、そんなラブソングだった。すっと伸びた背筋、まっすぐに伸びる歌声に反して、歌詞だけが少し情けなく感じられて意外だ。なんとなく、君が運命の人だ、なんて歌詞でも書きそうな雰囲気だったから。
なんて、この人のことなんて何も知らないんだけど。
最後までただ一人思いを募らせて、曲が終わる。拍手が起こって、彼女はそれをまっすぐ受け止めるように笑う。人の輪の中からカップルたちが去って、何人か女の人が彼女に近づいていく。声色や表情からしてファンなのかもしれない。彼女から少し離れた場所に立つスタンドからチラシを一枚取って歩き出す。バンドの名前は、これは何て読むんだろう。普段は三人バンドで活動しているらしい。
「あの」
「わっ」
「いきなりごめんなさい。 チラシ、ありがとうございます」
「え、あー……はい」
振り返るとさっきの女の人が目の前にいた。突然のことにびっくりして随分と不愛想な相槌をしてしまった気がするけど、目の前の人は人懐っこい笑みで気にしてはいなさそう。というか近くで見るとすごく奇麗な顔をしていて、売れそうだななんて適当な事を思う。全体的な雰囲気は、やっぱり自己表現が確立しているというか全体的に自信を感じる。
「それお酒ですか?」
「え?」
「ビニール袋の中身」
「あ、はい」
「じゃあ、一緒に飲みませんか」
「え」
会話の飛躍に言葉が詰まる。どことどこを接続したじゃあなんだろう。私とこの人は、たったさっき知り合ったばかりで会話はまだこの数回だけなはずなのに。
「こんな奇麗にオシャレした人が、こんなデートスポットでクリスマスプレゼントでもないコンビニ袋なんて持ってるの、見過ごせないですよ」
そう言って爽やかに笑う顔をまじまじと見つめる。印象という段階ではなく、確実に彼女は自分に自信があるタイプの人間だ。じゃなきゃこんな見ず知らずの人と一緒に飲もうだなんて発想にならない。男の人なら無視してしまうけど、女の人だから無視してしまうのは気が引ける。そんなことを頭で考えている間にも、彼女はこの後一人打ち上げを寂しくするところだったとか、片付けるから少し待ってくれだとか言って私の手を引く。さっきギターの弦を弾いていた指先は外の冷気みたいに冷たくて、その指の細さも相まって女の人の手だなんて当たり前な感想を抱く。
「準備できました。 行きましょうか」
ギターを背負って、振り向いた彼女が笑う。ライトアップされた木々や看板の照明を背景にして笑う彼女はドラマのワンシーンみたいで、呑気にも奇麗なんて思う。まあ別に、どうしても一人で飲みたいわけじゃない。危ない場所に連れていかれることもないだろうし、ここまできて断る理由もない。知らない人ばかりの飲み会だって大学に入って何度か経験したし、それよりは全然楽しそうな気がする。
「どこ行くんですか?」
「近くの公園か、私行きつけのせんべろ居酒屋か、持ち込みオーケーなカラオケ屋さんか、私の家かです。 今日は寒いから公園以外がおススメかな」
「家は申し訳ない気がします」
「じゃあせっかくクリスマスだしちょっとおしゃれなダイニングバーにしましょう」
「あれ?」
突然生えた選択肢に驚くと、歯を見せながら彼女が笑うからつられて笑みが漏れる。そんな選択肢なんて無かったのに、それが一番いい選択肢に思えてくるのはそういうコミュニケーション方法だったりするのか、彼女の愛嬌なのかどっちなんだろう。彼女の細い指が私のコートの裾を摘まんで、不意に私の手を掴む大きな熱い手と、前を歩く背中を思い出す。彼に付いていくとき、私って笑っていたっけ。
「すぐ近くですけど人が多いので、はぐれないで下さいね」
「流石にこの年で迷子にはならないですよ」
「私は先月位に迷子になりました」
内緒の話です、そう言って人差し指を立て口元に当てる彼女を見て笑う。ベビーカーに乗った犬を眺めていたら逸れたらしい。ライブでトークをしていたりするからなのか、話していると楽しいと感じる。彼女が笑うと、なんだか付いてきて良かったかもなんて気分になる。
そうして信号を右に曲がる頃には、彼の背中のことも頭から消えていた。
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