エピローグはいらない

 階段をのぼりきる。

 藍色がかった空が広がる。

 嘉勢は渡り廊下の中ほどに立っている。

 手すりに片手をのせ、放心したように中庭を見おろしている。

 春の記憶が重なって消える。青空を舞う桜の花びらも、希望や期待に輝いていた未来も、もはやない。感覚も思い出せない。それがあったということだけを覚えている。

 胸が締めつけられるような感じがする。

 いままで守りたかったものへの気持ちがあふれそうになる。

「嘉勢!」

 声をはって呼ぶ。

 嘉勢がふり返る。短い黒髪が風になびく。

「ごめん、ぼーっとしてた」

「鍵は返した?」

「うん、返したよ」

「萩尾が待ってるけど」

「うん」

 頷くけれど、嘉勢は動かない。

 右手の中に光るものがある。古びた腕時計。

「芹澤さんから返してもらったの?」

「返してくれたの。もう、必要ないんだろうね」

 すこし寂しそうに、嘉勢はいう。

「芹澤さんは、愛也くんがいなくても大丈夫なんだよ。みんな忘れられる。前を向いて生きていけるの」

「そんなこともないと思うけど」

「あるよ。あの人は強いもの」

「嘉勢も弱くはないでしょ」

 嘉勢は口角をわずかにあげて、下手くそに微笑む。

「太一くん」

「なに?」

「きっと、なにも願わなくなれば、いいんだと思うの。暖かい場所と、おいしいごはんと、楽しい友だちがいて。好きになってくれる人を好きになって。愛されなくても、愛するだけで満ち足りて。誰も恨まず、妬まずに、いやなことがあってもなにもかも忘れて」

 手の中の上野の遺品を見つめたまま、誰にともなくつぶやく。

「そんなふうに、生きていけたらいいのに」

 嘉勢はまた中庭へ視線を送る。さきには小さな池がある。

 腕時計を握った右手が、暮れなずむ空へとのびる。

 ぼくは答える。

「そういうわけには、いかないよ」

 ぼくたちはあまりうまく現実が見えない。それが閉じる前には、名探偵の推理も魔法少女の設定も、もっと基本的なことでさえ、区別がつかない。だから願ってしまうし、間違えても裏切られても、その瞬間から動けなくなる。どろどろでぐちゃぐちゃとした感情は混ざりあって、もとに戻らない。

 やりすごさせてくれやしないのだ。

 忘れても、何度だって思い出す。

 嘉勢は、なにかにひっぱられるようにゆっくりと手をおろす。腕時計を両手で握りしめ、胸に押しつける。肩をこわばらせ、わずかに震え、俯いた顔を苦悶で歪ませて、唇を噛んでは切れ切れの息を吐く。

 声は出ない。涙も流れない。

 また、その感情を抑えこむ。

 嘉勢は上野のことが好きなんだと、あらためて思う。体の中を、性懲りもなくなにかがうごめく。そいつが不規則にのたうって、ぼくを内側から焼いていく。

 これが、嘉勢が隠したかったもの。

 ぼくが殺したかったもの。

 閉じこめたかったもの。

 もしかして、上野がいってしまった理由?

 また、勝手なイメージを押しつけてしまっているのだろうか。でも、とりあえずの結論としておいていいんじゃないだろうか。

 けれど、ぼくたちはまだ、こっちで老いていくのだ。

 立ちどまれないし、やりなおしはできない。

 ぜんぶ、持っていくんだ。

 嘉勢は顔をあげる。

 疲れきった表情でかすかに笑う。

「帰ろっか」

「うん」


 時間を知らせるチャイムが鳴る。

 魔法は解けない。そんなものは、そもそもない。魔法があるという言葉だけがある。けれどそれこそが、ぼくたちを何度でもつき動かしていく。

 いずれ魔法も、憧れも輝きも、恥も嫉妬も愛も、すべて忘れ去るのかもしれない。たぶん、それがあったことさえも。

 だからせめて、ここで物語を閉じよう。エピローグはいらない。そしていつか意味づけを変更できるよう、同じかたちのまま残しておこう。

 もうぼくたちと老いない誰かと一緒に。

 小さなガラスの靴のように。

 あるいは、まだぼくの部屋に置いたままの、あの熊のぬいぐるみのように。

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魔法少女の密室 むぎばた @sakusogram

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