六月十八日水曜日④

 ふいに視界の端を影がよぎった。

 ぼくは美術室の出入り口に目を向けた。

 嘉勢静奈が立っていた。

 蛍光灯の刺すような光に照らされ、その顔色は蒼白に見える。胸に宛てた右手には、折りたたんだルーズリーフが握られている。

 大きな目が、まっすぐにぼくを見ていた。

「太一くん――」

「嘉勢、なんで」

 自分の顔がにわかに紅潮していくのがわかる。扉は開いていた。さっきまでの会話を聞かれてしまったのではないか。

「静奈ちゃん、それは」

 萩尾が指さす。嘉勢はルーズリーフを見て、それから萩尾を見る。小さく一息ついて美術室へ足を踏み入れる。

「下駄箱に入ってた」

 机のうえに広げたそれには、下手くそな字で短い文章が記されていた。


   六月十日の放課後、おまえが美術室にいたのを知っている。

   上野愛也を殺したのはおまえだ。

   おまえは、上野の気持ちが自分から離れていることに耐えられなかった。

   準備室で殺し、自殺に見せかけるために鍵を閉めた。

   上野の遺品を持っているはずだ。

   それを明日の放課後六時、美術準備室まで持ってこい。

   従わなければ、おまえの罪をいいふらす。


 脅迫状、といっていいだろう。

 ぼくは嘉勢を見る。

 嘉勢は、虚ろな目で紙面を見つめている。

「たすけてほしいの」

 ぽつりとそういって、震えた声でまくしたてる。

「わたしは、愛也くんを殺してなんかない。噂だってぜんぶでたらめ。こんなことされる筋あいなんかない」

 萩尾が嘉勢の肩にそっと手を触れる。

「大丈夫だよ、疑ってない」

 子どもをあやすような声音だった。

 嘉勢は悔しげに顔を歪ませる。いままで見たことのない表情だ。

 ふつうではない。額が汗ばむ。鼓動が早くなる。腹の底からなにかが這いあがる。悲しいとか腹立たしいとか思うより、しつこい身体的反応で動けなくなってしまう。

 なにかしなきゃ、と思うけれど、かける言葉も見つからない。

 文章を読み返す。あまりに一方的で、明らかな悪意がこもっている。乱暴に書かれた字が気持ちをさらに逆なでする。推理らしいことを書いているけれど、不十分すぎる。たぶん、書いた本人も正しいかなど気にしていなくて、挑発のつもりしかないのだろう。

 けれど、すべての内容を不問にふすわけにもいかない。

 上野が死んだ日、嘉勢は部活から早めに帰ったはずだ。

「嘉勢。この、美術室にいたっていうのは――」

 尋ねると、嘉勢は言葉をつまらせた。

「それは」

 口を一文字にぎゅっと結ぶ。伏せた目は微かに潤んでいる。

「わからないの」

 蚊の鳴くような声だった。

 なにかが体の中でのたうった。瞬時に冷静になる。このままではいけない。自制心を保たないと、自分がまたなにか間違いを犯してしまう気がする。

 焦りともどかしさを抑えつつ、ぼくはいう。

「助けてって、いったよね。ぼくも嘉勢の力にはなりたい。でもぼくたちに頼むからには、なにか先生たちにはいえない事情があるんだろう。勝算がなければ協力できない」

「木皿儀!」

 萩尾の抗議は無視する。

「ちょっとうしろめたいことでも、話してもらわなくちゃ困る」

 嘉勢はぼくを見る。瞬時、その視線が揺らいで、また紙面に落ちる。無理やりなにかを吐き出すように口を開く。

「いたよ。愛也くんを待ってた」

「待ってた?」

 

「美術室で、待ちあわせしてたの。放課後、話があるって。ここに書いてあるとおり、あんまりうまくいってなくて、あの子の本心を問いただそうと思ってた」

「あの子――」

「けれど、愛也くんはこなかった」

「それまではどこに?」

「図書室」

 美術室から中庭を挟んで向かい、第一校舎の一階にある。

「待ちあわせは何時だったの?」

「……六時」

 あの日の美術室に、ふたつのイメージが重なる。

 片方には芹澤さんと上野がいて、もう片方には嘉勢がひとりきり。

 われに返ったように、嘉勢は顔をあげた。

「美術室へいく途中、芹澤さんとすれ違った」

 ぼくは言葉につまる。

 嘉勢の表情には、明らかに歓喜の色が窺えた。自分でも気づいたのか、嘉勢は一瞬だけ虚を突かれた顔をすると、唇を噛んでしたを向いた。

 こみあげる思いを必死に抑えこんでいるようだった。

 これも、いままで見たことのない表情だと思う。

 はっきりいって無様だった。

 ぼくは話の接ぎ穂を探す。

「芹澤さんもいたんだね」

「うん。けっこう急いでたみたい。走っていった。まだめぐるちゃんみたいに冬服着てたから覚えてるの」

 服のせいだけじゃないと思うけれど、いわないでおく。

 六月十日の放課後、上野は芹澤さんと話していた。けれど、嘉勢がきたときにはいなかった。そのあとやってきて死んだというのか。真実なのだろうけれど、苦しいと思う。脅迫状の事実がクラス中に知れ渡ったとして、その答えで信じてもらえるとは思えない。

 にしても、あの日、芹澤さんはまだ冬服を着ていただろうか。萩尾のように冬服を着つづけたがる生徒は少なからずいるけれど、それは一部の「個性的」な人たちで、たいていは周囲の傾向にあわせて替えていった。芹澤さんは後者の側の人だ。

 やはり剣崎に確認するべきだろう。

「上野の遺品っていうのは」

「たぶん、腕時計のことだと思う。誕生日にもらったやつ」

「腕時計?」

「上野くんが、すごく大切にしてたものなの。お父さんからもらったんだって」

 彼の家には一度いったことがあるけれど、会ったのは上野の母だった。

 家族と話す上野。

 嘉勢に大切なものを贈る上野。

 すべてなんでもないというふうに微笑む上野の像が歪む。

 彼には切実さが似あわない。

「それは、嘉勢にとっても、渡したくないくらい大切なもの?」

 嘉勢はあっけにとられた表情でぼくを見る。考えたことがないみたいだった。やがて無表情のまま視線をそらすと、ただ自動的にそうするようにいう。

「うん。絶対、渡したくない」

 ぼんやりと思う。

 嘉勢は、上野のことが好きなんだ。

「わかった。なんとかしよう」

 萩尾が真摯さのにじむ声でそういった。

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