六月十二日木曜日③
嘉勢家を辞すころには、空はすこし暗くなっていた。
ぼくは萩尾を家まで送っていくことにした。
「誰があの紙切れを入れたのかな」
自転車で前をいく萩尾に向けて、ぼくはつぶやく。
太陽は山脈の向こうへ沈みつつあるけれど、すこし蒸し暑い。嘉勢家からそのまま自宅へ戻っておけば、という後悔の念もよぎる。
萩尾は無言だ。なにか考えているのか、考えたくないのか。
美術準備室で死んだ生徒。その恋人の犯行を指摘する紙切れ。おまえがころした。誰をかは書かれていないけれど、もちろん上野のことだろう。明らかに不穏な状況だ。しかも、わりと身近な人が関係してしまっている。
こういうとき、嘉勢や萩尾がどんな反応をするか知らなかった。
嘉勢は、ぼくが見た直後に紙切れを握りつぶした。一瞬、小学校低学年のころは彼女もかなり暴力的だったのを思い出した。ドッチボールの当たり判定から喧嘩になって、平手打ちを食らったり髪の毛をひっぱられたり。
一方で萩尾は、違うの、といいながらあたふたしていた。自分の仕業だと疑われるものと思ったらしかった。もちろん嘉勢は、萩尾が入れたとは思っていない様子だった。
やないたずらだね、と嘉勢は寂しげにいった。
「萩尾、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「嘉勢がクリアファイルを職員室に忘れたのが一昨日。ファイルが萩尾のところにきたのが今日で、その日の夕方には嘉勢のもとに戻ったわけだ」
「そうだね」
「この間で紙切れを仕込むすきなんてあるのかな」
自転車をとめて、萩尾はふり返る。ぼくもすぐにブレーキをかける。
萩尾の視線は冷ややかだった。
「なんか積極的だね」
そのセリフに、ちょっとどきりとする。
たしかに、どこか、理由の判然としない高揚感がある。
ぼくにとって上野の死は、もう虚構ではないのだ。嘉勢に影響が及んで、現実のできごとと実感できている、ということだろうか。
けれど現実として、やはり事件はぼくとは関係がないとも思う。
放っておけば、嘉勢の受難も含めて、事件はぼくになんの影響を与えることなくすぎ去るだろう。そうしてあとで、あんなことなったなと思い出すのだ。
「話半分だよ。不謹慎かもだけど」
「わたしを疑ってるんじゃないの?」
「そんなわけないだろ。警戒しすぎだよ」
「あの紙切れ、単なるいやがらせだと思うよ」
「まあ。上野が死んだ責任を、嘉勢に押しつたいやつのしわざだろうね」
動機の問題。上野は友だちが多かった。仲がよくなくとも、男女問わずさぞ人気があっただろう。さらに自殺するなんてイメージは皆無だった。その齟齬をうまく処理できない人がいてもおかしくない。
「もちろん、ほんとに嘉勢が原因じゃないとはいえないけど」
「静奈ちゃんがそんな人なわけないでしょ」
「嘉勢を信頼しすぎじゃない? 否定しないし、わからないでもないけど」
「静奈ちゃんだもん」
萩尾はアスファルトを見つめたまま、ぼそりという。頑なさを絵に描いたようだ。
「仲がいいのはけっこうだけど、なんか萩尾の場合、依存してないか心配」
ぼくの言葉が終わるより早く、萩尾はいやにはっきりとぼくを見た。
しまった。口が滑った。
「木皿儀はひとりぼっちでご立派ね。でも、木皿儀もわたしに対して、あんまりあけすけなんじゃないの。いまの発言をわたしが静奈ちゃんに告げ口するとか、考えないわけ」
「可能性として否定できないってだけだよ。蓋然性があるとは思ってない」
「またよくわかんないこという」
声が震えている。けっこう本気で怒っているようだ。
「ごめん、ぼくが悪かった。萩尾がいってることは正しいと思う。嘉勢が上野になにかしたとは思えない。あの紙切れは、嘉勢を逆恨みしたやつがいたずらしたんだろう」
「……」
「ぼくが訊いたのは、そのタイミングなんだ」
「……暑い」
萩尾は踵を返し、自転車を漕ぎはじめた。
たしかに道端で立ち話するには、蒸し暑すぎる。というか、萩尾はいいかげん夏服に替えたほうがいいと思う。
そのまま萩尾は家までなにもいわなかった。山間にある、サイコロみたいな白いシンプルな外観の一戸建てを前に、ぼくはなにかいうべきか迷ったけれど、けっきょくは別れの挨拶をしてひき返した。萩尾はいちおう挨拶に答えてくれた。
翌日、嘉勢はなにごともなかったかのように登校した。その日は上野についての話題を聞くこともなくすぎた。
このまま彼の死は忘れ去られていくかに思われた。
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