六月十二日木曜日②

 嘉勢の家は、ぼくの家から徒歩十分の距離にある。

 同じ地区では比較的狭い敷地に、比較的新しめの、紺を基調とした一戸建て。記憶と変わらず飾り気がない玄関先。むかしは犬を飼っていたけれど、犬小屋は見あたらない。

 呼び鈴を押すと嘉勢本人が出た。短い黒髪。小麦色に焼けた肌。細い首と手足。ゆったりしたパーカーにハーフパンツ。

「あれ、めぐるちゃん。と、太一たいちくん」

「どうも」

 萩尾が短く答える。ぼくは控えめに手をあげておく。

 嘉勢に変わった様子はない。

 顔色が悪いとか目もとに泣いた跡があるとか、ぜんぜんない。こちらの勘ぐった文脈とは無関係だといわんばかりに見える、いつもの嘉勢静奈だった。

 幼いからの習慣でぼくたちのことを名前で呼ぶところとか、いかにも嘉勢って感じだ。少なくともぼくは、いつしか恥ずかしくなってしまった。ちなみに萩尾の場合、ぼくのことは小学校のころから苗字で呼んでいる。字面と響きが気に入っているらしい。

 嘉勢はきょとんとした表情でぼくたちを見ていた。

「えっと、どうしたの?」

「届けもの――」

 短く答える萩尾。

 え、届けもの?

「――と、顔見にきた、感じ。大丈夫かなって」

 いいながら萩尾は嘉勢の足のあたりを見ている。ライムグリーンとショッキングピンクの、くすんだビーチサンダル。

 嘉勢は相好を崩した。

「うん、ありがとう。大丈夫だよ」

「よかった」

「ごめんね、わざわざきてくれたんだね。たしかめぐるちゃんの家、こっちの方向じゃないでしょ? 遠回りさせちゃった」

「そんなに離れてないよ。気にしないで」

 萩尾はぎこちなく笑う。その声は消え入りそうだった。

 嘉勢はうしろ手に玄関扉を閉める。その視線がぼくに向かう。

「太一くんも、ありがとう」

 ぱっちりとした目をすこし見て、視線をそらす。早く帰りたい、と思う。知らず声のトーンがあがってしまう。

「ぼくはまあ、近くだし。いいだしたのは萩尾」

「きみらって仲よかったんだね」

「まあ、それなりに」

 クラスや部活を問わず、ぼくが萩尾と学校で話すことはあまりない。なんとなく、ぼくのほうが避けてしまっている。仲がいいといえるかはともかく、一緒にいる印象は嘉勢にもないだろう。

 ぼくが嘉勢との久しぶりの会話にどぎまぎしている間に、萩尾は鞄から届けものをとり出していた。クリアファイルと折り畳み傘だ。ファイルは美術館で買ったものか、北斎の鬼の絵がプリントされている。中には半紙と水色のシャープペンシルが挟まっていた。

「部活の予定表。三枝さいぐさ先生が渡してくれって」

 萩尾がやはり小さな声でいう。三枝先生とは美術部の顧問だ。

 嘉勢は、またきょとんとした顔で受けとった。

 予定表はぼくにも見覚えのあるものだ。基本ゆるい部活なので予定はスカスカで、美術室を開けられる日が書かれているくらいだ。

 ぼくはふといった。

「これ、一昨日もらったプリントじゃん」

 一昨日。上野が死んだ日。

 嘉勢が萩尾に尋ねる。

「三枝先生が渡してくれっていったの?」

「そう。今日、職員室にいったら」

「傘も?」

 萩尾は頷くだけで答える。

「そうなんだ」

 つぶやく嘉勢の顔に表情はない。視線はプリントに向いているけれど、文面を見ていないかのように虚ろだ。

「あのね!」

 萩尾が調子っぱずれの甲高い声でいった。

「三枝先生、静奈ちゃんが忘れていったからって」

「え?」

「静奈ちゃん、職員室に忘れていったんでしょう? 三枝先生はそういってたけど。だから、わたしに届けてくれって頼んだの」

 嘉勢は萩尾を見る。萩尾はまだ嘉勢の足元を見ている。そのままいう。

「そうじゃなかった?」

「え、ああ、うん。そうだったのかも。たしかに、職員室にいった。そうだ。忘れてきてたんだね」

 確認するように嘉勢はいう。口調にはいつもの快活さが戻っている。

 理由のわからない緊張感が緩む。腹のうちを、なにかなまぬるいものが通りすぎていったような気がする。

 蝉の声が聞こえた。今年ははじめてなのではないかと、ぼんやり思う。

「嘉勢、本当に平気?」

 ぼくの問いに、嘉勢は目を細めて微笑む。

「うん。大丈夫だよ。正直、つらくはないの。愛也くんのことは、なんだろう、よくわかんなくて」

「でも、つきあってたんじゃないの」

「このふた月の話だよ。あの子は自分のこと、あんまり話さなかったし」

 上野を「あの子」と呼ぶのか。なぜか、ちょっと違和感がある。

 嘉勢は、別れの挨拶をするでもなく、ファイルをもてあそんでいる。なにかいいたい一方で、言葉が見つからない様子だった。

「めぐるちゃんさ――」


 ふいに、ファイルからなにかが落ちた。


 嘉勢が拾いあげる。

 水色のシャープペンシル。

 あと、プリントの切れ端のような、小さな紙切れ。

「なんか入ってた」

 開いたとたん、嘉勢の表情が明らかにこわばった。

「どうしたの?」

 萩尾が覗きこむ。ぼくも遅れてつづく。

 紙切れには、小さな字で「おまえがころした」と書かれていた。

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