六月十二日木曜日①

「そう、上野くんだったの」

 木漏れ日の降る坂道を自転車で走りおりる。

 うしろのぼくに聞こえるよう、萩尾は控えめながら声をはっていった。

 萩尾の猫背ぎみの背中が遠ざかる。もはや時期を逸した感の強い、黒い冬季用のセーラー服。ヘルメットのしたの艶のない髪が風になびく。

 ぼくはしばし立ってペダルを漕ぐ。

 だったのって――。

「めずらしいね。萩尾が人の名前覚えてるって」

「人を世間知らずみたいにいわないでよ。上野くんは有名だし」

「そうかもだけど」

「美術部にもよくきてたんだよ。木皿儀はさぼりがちだから知らないだろうけど」

 知らなかったわけじゃない。

 そういおうとして、億劫なのでやめる。

 ぼくと萩尾とは同じ美術部に所属している。いつもなら部活の帰りにこうして話すところなのだけれど、昨日の一件で美術室はしばらく使用禁止、部活も休止となった。

 今日は帰りがけの萩尾を見つけて声をかけた。

 なんとなく、萩尾となら上野の話ができる気がしたのだ。

「上野、有名だったんだ」

「かっこいいじゃん、上野くん」

「萩尾でもかっこいいって思うんだ」

「でももなにも、かっこいいよ。クラスのみんなもそういってた」

「だろうね」

「木皿儀は交流あったの?」

「ほんの二か月だけど。バスケ部で一緒だった」

 萩尾は嘲笑気味にいった。

「なんでバスケ部なんて入ったの」

「まあ、なんとなく、憧れがあって」

「似あわない」

「知ってる」

 あまり思い出したくない話だ。

 わが校は全校生徒のクラブへの所属が義務づけられている。校則で明記されているかは知らないけれど、じっしつ義務、というか強制だと思う。

 また、これも田舎の中学ゆえ、というとさすがに怒られそうだが、男子は運動部に所属していなければ中傷の的となる。

 運動嫌いのぼくも入部した。

 上野との初対面は、体験入部のときだった。

 たいそう大人びた人に見えたものだ。体のパーツのひとつひとつが、ぼくよりすこしずつ大きかった。かといって、ガタイがいいとか恰幅がいいという印象はなかった。頭身が高く手足が長く、胴が締まっていて、全体的にすらりとしていた。

 ボリュームのある硬質の髪は色素が薄めで、日を浴びると輝いて見えた。大きな目は切れ長で、ときおりまぶし気に細められたのを覚えている。

 細い首には、すでに喉仏が隆起していた。とおった声で、活舌よく話した。

 柔らかな頬とかたちのいい顎がまとまった輪郭をつくっていて、その表情が生気に満ちあふれたときには、同性の自分でも見惚れるという感覚を味わった。

「上野は、新人のエースだったんだよ」

「悩みなんてなさそうだね」

「まあね。やんちゃな連中ともうまくつきあってたみたいだったし。中間試験の成績はよくなかったらしいけれど、悩んではなかった」

「木皿儀って、上野くんとけっこう仲よかったの?」

「ぼくと特別ってわけじゃないよ」

 彼は誰とも仲がよかったのだ。

 かっこいい。バスケ部のエース。

 たくましい。優しい。うまくやる男。

 そんな上野が自殺した。

 美術準備室でのことらしい。詳しいことは聞かされていない。今日は朝から全校集会が開かれ、校長から簡単な説明があっただけだ。

 あまりクラスの雰囲気に変化はなかった。みんな、できるだけ話題にするのを避けているように見えた。ぼくを含め、中学で知りあった連中にとって、上野との関係はたかだか三か月のことだ。悲しいとか驚いたとか、特別な思いもわきづらいだろう。

 むしろ、あまりにもイメージどおりで、驚きもしないのかも。

 わが校は市内でも荒れていることで有名だ。そういう学校で起きる事件について、ニュースやテレビドラマなんかで知る機会も多い。

 風紀の乱れた中学校で生徒が自殺。そんな想像は、入学する前からしていた。その生徒が上野だというのは腑に落ちないけれど、小学生のときにした想像がじっさい自分の周囲で起こってしまった。なんだか、虚構の中に入りこんだ感じなのだ。

 だけれど、というか、だからこそというか、話題にする方法がいまいちわからない。漠然と他人の死というものについて、無関係な自分が話していいのか疑問を感じる。話すとなにか間違いを犯してしまう気がする。

 やりすごしたほうがいい。

 けっきょくまたそう思う。

静奈しずなちゃん、上野くんとつきあってたのよ」

 唐突に萩尾がいった。

「え? あ、うん」

 知ってる、とはいい損ねた。

 嘉勢かせ静奈は、ぼくたちと同じ小学校出身で、同じ美術部員だ。上野は、その縁で美術部に顔を出していたのだろう。

「そうなんだ。大丈夫かな、嘉勢」

「今日、休んでたみたい」

「大変だね」

 萩尾がブレーキを踏む。

 ぼくは彼女をすこし通りすぎてとまる。

「……お見舞い、いってみる?」

 控えめな萩尾の声は、それでも僕の耳まで届いた。

 いってどうすんの、という言葉をのみこむ。

 萩尾と嘉勢はわりと仲がよかった。中学にあがってからも、昼休みなどによく話しているのを見かけた。嘉勢は、読書や創作にはあまり興味がない様子だったけれど、それらについて萩尾が熱心に語るのをじっと聞いていた。

 ひと言でいえば、嘉勢はすこぶるいい人だった。大きな目と、そのまっすぐなまなざしが印象に残っている。態度に自信というか、快活さと落ち着きがあった。年を経るにつれてその傾向は顕著だった。相手にかかわらず話をよく聞き、よく考えて答えを返した。

 ぼくとは小学校のころ、同じ近所の子たちと一緒に遊んだ覚えがあるけれど、中学に入学してからのこの数か月では、一度会話したかどうかだ。萩尾を除けば、小学校での人間関係はなんとなく疎遠になってしまった。

 寂しい気がしないでもないけれど、なにも恋人が死んだタイミングで会わなくてもいいんじゃないか、とも思う。

「ぼくらがいって喜ぶかな」

「わかんないけど。いやに思う理由もなくない?」

「迷惑じゃない? ぼくら関係ないのに」

「上野くんとは関係ないよ。静奈ちゃんがつらいかなって思うだけ」

 萩尾はそう考えるのか、とすこし驚く。

 ぼくは、萩尾が自分と同じ考でいると思いがちだ。たぶんクラスでの立ち位置が似ているからだと思うけれど、そんなわけがないのだ。

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