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二〇二×年。
日本は百度前後のサウナの熱に包まれた!
数年前からサウナが人体に与える影響が取りだたされてはいた。しかし一過的なブームに過ぎないと、単なるオヤジの趣味だと馬鹿にする勢力も多かった。
だがサウナは、サウナブームは世を席巻した。
始まりは一人のしがない男だった。
そのしがない男はサウナにどっぷりとハマり、あまりにハマったせいか、医学や科学などの境界をかき分け、名だたる著名人らとともにとある一説を発表した。
それこそが、「sauna is best solution」。俗にいう「サウナこそが至高論文」である。
サウナ、水風呂、外気浴。その繰り返しにより、遍く人類の全ては、健やかで最高の人生を送ることが出来るという内容である。
この論文は出た当初こそ学会の笑いもの、とんでもないサウナバカが現れた、普通に頭おかしいと言われ続けた。
しかし正しい行いはいつか日の目を見るもの。ひょんなことからその論文がSNSで拡散され、サウナを試す人たちが現れ、その結果、日本中にサウナの輪が広まった。
一億の人口のうちサウナに入ったことのない人は存在せず、その遍く全てがサウナによって進化を遂げる「超人類」となった。
誰しもが健康的に日々を過ごし、眠れぬ日など存在しない。
風邪もひかない。ご飯もモリモリ食べられる。仕事も捗って仕方がない。
そうした影響を受けた日本国民がエネルギッシュにならないわけはなく、GDPは毎年前年比一割増加の歴史上類を見ないほどの圧倒的上昇を見せ、少子高齢化社会が進んでいた日本はここ数年毎年ベビーブームが起きている。
年々GDPは増加の一途を辿り、遂にはアメリカを抜いて日本が圧倒的な世界の盟主となった。
そのサウナ熱は海外にも広がり、サウナの母国と呼ばれるフィンランドも負けじととんでもない急成長を遂げ、経済成長率世界二位の国となった(三位は普通にアメリカ)。
風が吹けば桶屋が儲かる、どころの騒ぎではない。
熱波が吹けば国家が儲かったのだ。
誰しもがサウナを愛する、クールジャパンならぬ「ホットジャパン」となった日本だったが、そんな中はじまりの男は行方をくらませた。
行方は誰にも分からず、サウナが混んできたことによる霹靂とも、サ帝と呼ばれるプレッシャーを普通のサウナでは解決できず、熱を求めて富士山の火口に身を投げたともいわれている。
そしてそんな日本でもう一人、このロウリュ後のサウナのように急上昇する熱を悲観する者がいた――
「ふぅ……」
一人、こじんまりとした銭湯の椅子で溜息をついた。
座っているのは、あまり大きくはない露天風呂スペースの一角だ。
元々椅子が置いてあるでもないそのスペースに、俺は椅子置き場から持ってきてととのいスペースを自作していた。
いつもの行動だ。
本来は体を洗うスペースも兼ねているので、タイミングが悪ければ刺青の入った兄ちゃんのシャワーが、延々と自分の体に降り注ぐことだってある。
しかし、そんなととのいには邪魔でしかない行動すらも愛おしいと感じていた。
体を清めるという行為が、悪であるはずがないのだから。
「三セット目。今日はここで店じまいかな」
誰に言うでもなく、一人ごちる。
サウナ室の真横に設置されたフック。そこにかけられたバッグからサウナハットとサウナマットを取り出し、サウナルームへと入室した。
ガチャリと、今となっては珍しい木の扉を引く。形状の付いたカギを引っかける必要はない。利用者のマナー意識に任せた、そんな奔放さもこの銭湯に通う理由の一つだった。
このサウナは十人程度しか入ることが出来ない、けして大きくはないサウナだ。
ドアの傍らに一段、ドア向かいに二段のスペースがある。
この菊美湯にはかなり珍しく、現在男湯には人の影はない。
当然サウナルームにも客はいなかったようで、普段ならば取り合いになる、文字通りのホットスポットである二段目へと腰を下ろした。
菊美湯のサウナは百度近い温度があるロッキーサウナだ。左奥にそびえるオートロウリュというのも、一般的なスパでは珍しくはないが、銭湯でこの設備を備えているところはかなり珍しいだろう。
加えてこのサウナは、他のサウナと比べて決定的に違っていた。
それは、匂いだ。
サウナ室全体に充満する、ヒノキのいい香りだ。都会の真ん中にあるというのに、大自然の中で森林浴をしているような錯覚すら覚える。
ヒノキだけではなく、アロマの匂いもほんわかと香り、熱を帯びた匂いが鼻腔をくすぐってくる。
化学臭い、激しい主張をしてくるようなアロマではない。あくまでも主役はサウナなのだと理解し、引き立てるような微かな匂いだ。
そしてテレビがなく、薄暗い雰囲気がこのサウナにはある。
強制的に文明から、新しい情報からシャットアウトさせられ、自己のみに意識が集中させられる。
ととのいへと、上り詰めていくのだ。
今日も今日とて例外ではなく、壁時計を確認すればあっという間に五分が過ぎていた。
体調にもよるが、基本的にはサウナの入浴時間は六分から十分。長くいた方が水風呂との温度差でととのいが深くなるというのが持論だが、それ以上に無理をしないというのがポリシー。あと一分したら出ようと、心の中で決意を固める。
一度目を伏せるが、扉が開かれた音に反応し、俺はなんとなしに顔を上げた。
そこには、美少女が立っていた。
この『サウナ時代』には男女混浴のサウナというものはけして珍しくない。
男湯、女湯に分かれていたスパ施設がサウナゾーンを解禁し、水着着用の元で混浴を許可しているのは最早一般的とすら言っていい。
しかしながらこの【菊美湯】にはそんなエリアはなく、昔ながらの男湯女湯の二つで運営しているはずだ。
「
己の名を呼ばれる。
この銭湯に来て、一言も名乗っていないはずなのに。
あたかも昔からの知己であるかのように、その名を呼ばれる。
「あんた、サウナの帝王になりなさい」
サウナ室の時が止まる。
わずかな静寂の後、オートロウリュ機能によってサウナ室にはほどよい熱さの蒸気が立ち込めてくる。
――ふふ。
どうやら、俺としたことがサウナに長く入りすぎていたらしい。やれやれと頭を振って、自分に呆れたように肩をすくめる。
幻覚が見えるほどサウナにいてしまったとは。あの十二分時計も、ややもすると既に二週目に入っていたのかもしれない。多分そうだろう。
とりあえず名前を呼んできた美少女の前を素通りし、サウナルームの扉を閉める。
水風呂のふちに備えられた桶を使って掛水をしてしっかりと汗を流し、キンキンに冷えた水風呂へと浸かる。隣のサウナ室からは何やら地団太のような音が聞こえるが、気のせいだろうと彼は目を閉じる。
一分ほど経過した後、ゆっくりと水風呂から上がって外の露天風呂スペースへと移動する。
手持ちのハンドタオルで全身をくまなく拭く。この作業をするかしないかではととのいに天と地ほどの差が生まれることを、彼は経験から知っていた。
濡れた状態では、外気に曝された体は急激に体温が低下する。その急激な低下がないように、しっかりと水滴はとっておく必要があるのだ。
十分に全身の水滴をタオルにしみ込ませたあと、彼は椅子へとゆっくり座りこむ。タオルをギュッと強く絞った後首にかけ、そのまま天を仰ぐ。
大海の頭には、立ち眩みにも似た、しかしその現象とは似て非なる感覚が訪れていた。
彼の頭から全身を包んでいくような、圧倒的な多幸感が包む。
「私を無視してくれるとは。あんた本当に大物ね」
しかしそんな多幸感は、怒気を孕んだ声で打ち消された。
気のせいではなかった。男湯にいるはずのない女性の存在は、紛れもなく真実だった。
熱でやられた際の幻想だと思っていたためサウナにいる間はほとんど見ていなかったが、水風呂で徐々にハッキリとしてきた頭をフル回転させながら、声の持ち主を見た。
サウナハットを被っているためその明るめの茶髪は一部隠れてはいるものの、やや癖の付いた髪型が可愛らしい。
最初は気が付かなかったが、女性は自分と同じくらいの年齢、高校生くらいであろうことが見て取れた。流石に水着を着用しているが(本来そういうスペースではないが)、その美貌とスタイルは水着越しでも同年代の女子とは比類ない。
高校ではなんの部活にも所属しておらず、あまり冴えない生活を送っている彼にして見れば、高嶺の花のような女子だ。
そんな女子を前に一呼吸置いた後、彼は再び頭を垂れて目線を外した。
「私は
名は体を表す。とは言うが。
まさしく海の如く、深い蒼色の目を向けられる。
俺を見下すように、海城蒼と名乗った目の前の女は改めて口を開いた。
「あんた、サウナの帝王になりなさい」
先ほどの困惑の入り混じった沈黙とは明らかに違う、お互いの思いがぶつかり合うような沈黙。
視線はぶつかることはない。大海は蒼の言葉にも動ずることなく目を開けることもなく沈黙を続けている。
「今ととのってるから後にしてくれる?」
そしてたっぷり十数秒の時間を取った後、彼女に答えた。
俺の言葉を胸中で反芻するように蒼は何度もうなずき、引き続き語り掛ける。
「福良大海」
彼女の口から飛び出してくるのは、俺の過去だった。
「私が生まれてから遅れること一年、とある地方都市で生を受ける。成長したあんたはサウナ愛好家の両親の勧めでとあるスポーツを始め、中学三年時には中学体育連盟主催の全国大会、中体連で全国を制覇する」
蒼が大海の一個上であること以外は、彼自身が、大海自身がよく知っていることだった。
ここでようやく彼は蒼を見上げる。その情報は一体全体どこから手に入れたというのか。訝し気な視線を彼女へと向ける。
「誰もが羨むような栄光のサクセスストーリー。全国どんな高校でも行けたというのに、あんたはその身に余るほど来ていたであろう高校推薦を全て蹴り、普通の受験をして横浜中央高等学校へと進学した」
紛れもない事実だけを彼女は大海へと告げてくる。「調べはついている」のだと、暗に示すように。
大海はここまでの突飛すぎる彼女の行動の意味について、全く推理できていないわけではなかった。
しかしどうしても分からない。彼女が大海に対して、ここまでする意味が分からなかった。
単なる勧誘であれば、ここまでする必要はないからだ。普通に道で歩いているときや学校にいるときにでも声をかければいい。
女子がサウナスペースでもないところに単身乗り込み、一対一で同年代の男子と喋る機会を設ける必要なんてない。
その程度の勧誘で充分であるはずなのだ。
こんな、「勝つつもりもない」競技者には――
「あんたは栄光を手にした後、表舞台から姿を消した……って後にしてくれってなんなのバッカじゃないの!!」
「ツッコミ遅くない!?」
一言文句でも言ってやろうと思い、風呂椅子から立ち上がる。
その刹那。
はらり、と。
しなだれた俺の息子が、目の前のうるさい女子の眼前に現れる格好となった。
「ッッ!!!」
瞬時に蒼が立ち上がって振りかぶり、俺に尋常ではない速度の平手打ちを炸裂させた。
その平手打ちは、十四度しかない菊美湯の水風呂よりも俺の芯まで響いた。
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