サ帝
紅夜蒼星
プロローグ
荒い息遣いがその個室には充満していた。
対して広くはないその個室には五人の少年が水着姿で座っており、汗を流しながらちらちらとお互いを見ている。まるで「お前が早く出ろ」「お前はいつ出るんだ」と、無言の重圧をかけあうように。
しかしながら、その重圧をかけあっているのは紛れもない事実であった。
この個室は所謂サウナルームだ。
つまり少年たちが荒い息遣いをしている原因は、彼らが放っている熱だけではもちろんない。このサウナ室自体が、八十度近い熱を帯びているからに他ならない。
ただひたすら彼らは耐え忍んでいる。
この個室が地獄であるかのように。この地獄が終わった後のオアシスを夢見るように。
そして不意に、サウナルームに備え付けられたサウナストーンへと、激しいシャワーが浴びせられる。
ロウリュだ。
サウナストーンへと急激に水がかかることで、激しい水蒸気が発生し、このサウナルームはさらなる温度上昇に曝される。
その熱波が苦痛でしかないと言わんばかりに、少年たちは皆一様に顔を歪ませる。
たまらず席を立つ少年もいた。しかしその中で唯一二段目中央に陣取る一人だけが、襲い来る激しい熱波を愛おしむように、慈しむように座っていた。
彼の顔もたしかに熱で若干歪んではいるが、どこかほほ笑んでいるように見えなくもない。
正気を疑うように他の少年たちは彼を見ているが、目を瞑っているためそんな視線に彼が気付くことはない。
ややあって、その少年はふと目を開いてその場に立つ。周りの三人の少年は、サウナストーンのように熱い期待を帯びた視線を少年へと向けた。
二段目に陣取っていた少年は一瞬だけ周りを見渡すと、座っている位置を微調整してその場に座り直した。どうやら単純な座り直しでしかなかったようだ。
期待を裏切られたと言わんばかりに、四人いるうちの一人の少年が立ち上がってサウナルームから逃げるように退室する。
サウナルームに残るは三人。
激しく打ち付けるように襲っていた熱波はいつの間にかサウナルームへと溶け、先ほどよりも体感の温度は熱くなっている。もう一人の少年が諦めたように席を立ち、狭い空間には少年が二人しかいなくなっていた。
先ほどまで目を瞑っていた少年はここでようやく、もう一人サウナへと残っている少年へと興味を向けた。
顔自体は背中を向けているため勿論見えないが、自分のものではない息遣いは間違いなく目の前の少年のものだろうと理解できた。限界が近いのだろう。時折目の前の少年は何かを振り切るように頭を振ったり、しきりに顔の汗をタオルで拭いていた。
やがて苦しみながら熱さに耐えていた少年は、二段目に控える少年を一瞥する。
「――化け物が」
苦し紛れの、負け犬の遠吠え。
誰が見てもそうとしか聞こえないような、敗北者のたった一言。
「……そうかい」
言われた側の少年の表情は変わらない。ただひたすらに、その額から汗が流れるのみだ。熱さどころか、蔑視の言葉すら届くことはないというのか。
舌打ちをして、目の前の少年を化け物呼ばわりした少年はサウナルームから出ていく。
サウナルームを、沈黙が支配する。
今や彼には、荒い息遣いも聞こえない。自らの心臓が胸を叩き、血液が走る音のみを感じている。
それから時が過ぎた。
数秒か。あるいは数分だったのか。
一人残された少年に、その正確な時間を確かめる術はない。本来サウナに設置しているはずの十二分計は、この空間のどこにもないからだ。
その永遠にも思える時間を一人で過ごした彼は、悠々とサウナルームから出ていく。
サウナルームの正面には、サウナを体感したものは誰もが恋焦がれる、水がたまった浴槽が広がっていた。
水風呂だ。
浴槽に一つ置かれた風呂桶で水を掬い、頭から何度か水を被る。
掛水だ。
サウナーにとっては当然のマナー。サウナで流した汗を掛水で流してから水風呂に入るのは、彼にとっていつものルーティンだった。
そしてゆっくりと水風呂に一歩ずつ入り、肩までその身を浸からせる。
「――っふぅ……」
その身を包む、先ほどまでとは全く別の感覚。
サウナでその身の芯まで熱せられた体を、強制的に冷却されていく、暴力的なまでに力強い水の威力。その水温は十四度。なかなかに低い温度だ。
しかも水風呂の中では、さらに激しい水流によって新たな水が次々と補充されていく。
人はそれをバイブラと呼んだ。
彼はその激流の中三十秒を数えきり、フラフラととある場所へと向かう。
そこはけして大きくはない、露天スペースだった。白いプラスチック製の椅子が合計で五個並んでおり、その内の四つは先ほどまでサウナでともに汗を流していた四人が疲れ果てたような顔で座っていた。
彼らを特に一瞥もしないまま、転ばぬように彼はゆっくりと歩を進める。
一つ空いている椅子は、スペースの奥にそびえていた。
それはまるで玉座のように。奇しくも王の帰還を待つ王座のように、ただならぬ気配を漂わせている。
一つ空いた椅子の前で彼は、全身をハンドタオルで拭く。頭の先からつま先までをくまなく、水滴が消えるまで優しく、撫でるように体を拭く。
そしてゆっくりと彼は、椅子へと坐した。
刹那。
館内放送が流れ始めた。
「七分五十二秒! サウナ室に残っている者は誰もいない! 優勝が決まった! 今年の優勝は――」
名前を呼ばれる。
それは玉座の表現が単なる比喩ではないことに他ならない。
このスポーツ、「GTS」の頂点に、彼は立ったのだから。
「なぜそこでもう少しだけでも、我慢ができなかった」
興奮とサウナから出た熱が冷めやらぬ中、優勝した彼は声を掛けられる。
チームメイトからは熱狂的な言葉を、賞賛を浴びせられていた彼に掛けられたのは、先ほどの掛水よりも冷たい言葉。
彼が振り向くと休憩室の入り口に、祝福の感情など微塵も感じられない顔の大人が立っていた。
チームメイトは気まずそうに道を空け、目線を逸らし、何を言うでもなく部屋を後にする。
その大人は、彼の所属するチームのコーチだった。
「あと八秒で、お前は伝説に成れた。決勝の舞台で設定時間ジャストなんていう快挙、中学はおろか高校でも、大学でも聞いたことがない。そんな伝説に、お前は成れたというのに」
勝利を祝うでもなく、文字通り水を差すかのような冷たい言葉。
傍から見れば、優勝した選手を労わないどころか反省を促すようなその口ぶりに疑問符を浮かべたことだろう。
しかし大海からすれば、あるいはチームメイトからすれば欠片も疑問は湧いてこない。
この大人は、このコーチは、そういう厳しい人間なのだから。
否。
実際には、昔はサウナを愛する一般的なコーチだった。
それがいつからか勝利を至上とする厳しいコーチに変わっていった。
「コーチ、彼はは優勝したんです。もっと褒めてやっても……」
「優勝はこいつにとって通過点だ。褒める意味なんてない。それよりも反省の方が先だ」
庇うそぶりを見せるチームメイトを意にも介さず、コーチの指摘は未だ止まない。
いくつもの指摘を聞かされながら、優勝した彼は心の中で考える。
サウナストーブにも似た、激しく熱を帯びた怒りが沸き起こる。
優勝したのに。
最上のととのいを得られたというのに。
一体、この状況は何だというのだ。
一体誰の許しを得て、人のととのいを邪魔しているというのか。
そこで、プツン。と。彼の中で。
何か張りつめていた糸が、切れる音がした。
「今日が最後だ、コーチ。お世話になりました」
ざわり。
水を打ったように静寂に包まれていた部屋に、喧騒が戻る。
この部屋には二十人ほどの人間が集まっていて、その全員が度肝を抜かれたように目を丸くしている。
今日が最後だと言い放った彼以外は。
「一体お前何を言って……」
「言ってたでしょう。コーチ。俺とあんたじゃゴールが違う。目的が違う」
誰も彼も、ここ最近は誤解している。
目の前の、さっきまではコーチだったこいつも。
今日ともに戦ったライバルも。
あるいは、ここにいるチームメイトすらも、誤解しているのかもしれない。
「もうやめようぜ。お互いにもっと別の道があるだろ」
「待て! おい! 戻ってこい!」
己を呼ぶ声を気にも留めず、歩を進める。
サウナで受けた熱が、水風呂に入った後気化熱で大気に溶けていくように。
少年は周りの空気とは裏腹に、自分の中で急速に熱が冷めていくのを感じていた。
その後、公式の記録に彼の名前が現れることはなかった。
それから二年、月日が経つまでは。
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