任せて
「そろそろかな」
線路のど真ん中に堂々と立ち、お兄さんは首の骨をパキりと鳴らした。全身の筋肉と健を思うままに伸ばしている。
行儀が悪いというか、鉄道営業法に抵触する犯罪行為そのものの真っ当な悪なんだけれど、それを咎める人はこの場にいない。
スマートフォンで「武蔵呉木」の時刻表を確認。上りも下りも三十分は来ない。夕陽は地平線に消えようとしている。遥か遠くの山々が青を強めて、最後に存在を主張している。
隣にしゃがみこむ志途さんの顔すらも陰がかかって別人のように見える、昼と夜の混じり合った、僅か寸刻の霊異の時間。彼女が『けてけて』に遭遇したのもこれくらいだという。
線路に立つお兄さんとは裏腹に、私達は規制テープの外側、姿隠しの結界の中で小さくなっていた。
生物非生物問わず視覚を惑わす結界だ。周りの「空」を操ることで「色」を引き伸ばして身体を覆うという術。認識を誤魔化す、見えないように隠れる、というよりは周りの景色と同化するといった方がイメージしやすい。
志途さんの言を信じるならば、『けてけて』の怪談を聞いた者の元にかの霊異は現れる。この場には三人いるが、内二人は認識できない。お兄さんが狙われるのが自然だろう。
時も場も、条件も揃った。間もなくお兄さんは、電車と鬼ごっこを繰り広げることになるだろう。捕まったら死ぬ、余りにも一方的すぎるデスゲーム。
「ほら氷華ちゃん、深呼吸。
無意識に呼吸が浅くなっていたらしい。背中を擦ってくれる志途さんの手にあわせて吸って吐いてを繰り返す。インナーが汗を吸って肌にへばりつく。その冷たさと彼女の手の温さのギャップに身震いした。
「志途さんは、怖くないんですか」
答えが分かりきった質問だった。冷静な思考力などとうに失われている。だから考えて口にした言葉じゃない。なら、震える唇がこんな言葉を吐き出したその理由はなんだっただろう。
返事なんて期待していなかった。いや、どんな返事を期待していたのかなんて分からなかった。
「慣れてますからねえ」
その発言に少しだけ失望した自分に驚いて、それから納得した。
私は「怖い」と言ってほしかったのか。バレバレの嘘を吐くこの大人特有の強がりを、子どもの前で被る誤魔化しの薄布を、引っペがしたかったのか。
それはきっと、この期に及んで一線を引かれている事実に、庇護される対象から抜け出せていない現状に、心乱されるからだ。
大人と子どもの溝というのは、私が思うよりよっぽど深いものらしい。少なくとも一度二度、死線を共にするくらいじゃ埋まらない。年齢を重ねれば自然と大人になるのだろうか、と考えてすぐに否定する。
間違いは分かるのに、正解はいつまでも分からない。こんな事にこだわっている事自体、子どもらしさなのも分かっているけれどままならない。
そもそもこの
あの人はいつだって、恐怖も悲哀もおくびに出さず、私の前に立っている。あの頼りになる背中を見られるこの場所は、たまらなく居心地が良いけれど、ここから抜け出さなくては、お兄さんはいつまでも私を守ってしまう。きっと辛くても微笑んでしまう。
少しくらい頼ってほしい。時には涙も見せてほしい。どうしようもない時には逃げて欲しい。彼が弱く在れる場所になりたい。
覚悟が出来たと言った手前、もう『けてけて』から逃げろなんて言わないけれど、ここで引いてしまうのが弱さの証明だろう。
強くなりたかった。我儘を自由に口に出せるくらい。自分の願いを押し通せるくらい。
「嘘つき」
志途さんの震える手を握って口にした強がりは、結局大人のそれとはかけ離れていた。
浮かんだ涙を誤魔化すために欠伸をする。水気に満たされた視界の向こう、焼けた空が輝いていた。
もう日が沈む。
「良い天気ですね」
一時志途さんは仕事を忘れたと言っていたけれど、この空を引き裂くような黄金は、確かに美しい。
同意を求めて隣の彼女を見上げる。
「ねえ志途さ……」
蒼白な顔面がそこにあった。
「────!」
「ひゅっ」と空気が鋭く肺を刺した。
脳みそに静電気が走ったような衝撃と閃き。脊髄に氷柱を突き刺されたような悪寒。身体が不意に重くなる。視界がフィルターをかけたかのように暗くなる。
心臓の拍動のみが鮮明な世界で、微かに生きていた聴覚が、それを知覚した。
命の危険を知らせる、あの音を。
──カンカンカンカン……
「ひっ……」
叫びそうになった口を志途さんが塞いでくれた。後頭部で志途さんの早い鼓動と震えを感じる。抱きすくめられたのは、きっと優しさだけが理由じゃない。
唯一自由な瞳で辺りを見回す。踏切は鳴っていない。辺りは赤く染まっていない。それなのに、線路の向こうに何か巨大な影が見える。
それは電車に比肩するスピードで、百余メートルはある距離をあっという間に踏破する。
洞窟のような、落ち窪んだ目がこちらを見た気がした。
私を、嗤った気がした。
──げたげたげたげたげたげた!!
ビリビリと大気を震わせて、『けてけて』が哄笑した。
志途さんと私の心臓の音が混ざり合ってもう区別がつかない。この背中の冷たさは私のせいか彼女のせいかも分からない。口元に置かれている彼女の手にほとんど噛み付くようにして、声と呼吸音を抑えることに命を賭けた。
見えていないはずだ。こちらに向かっているのは気のせいのはずだ。笑ったのは私達とは何も関係ないはずだ。
絶えず言い聞かせていなければ恐怖で我を失いそうだった。この場から逃げ出してしまいそうだった。姿隠しの結界から抜け出した瞬間、命を喪うということを忘れてしまいそうだった。
近づくにつれて増す重圧。まるで巨人が私でジュースでも作ろうとしているかのように、噴き出す汗が止められない。泣き出さなかったのも漏らさなかったのも、ただの奇跡に思える。
なんだあれ、なんだあれ、なんだあれ。
あんなのを見て志途さんは立ち向かおうなんて言ったのか? 私達を呼んだのか? 応援を呼ぶのを拒否したのか?
内心でその勇気を称えながらも、恨み言を吐くという矛盾が螺旋する。
あれは、人間が立ち向かっちゃいけない化物だ。歴史に名を連ねていないだけの伝説の類だ。
私の想像力のなんと貧困なことか。聴くより見るは恐ろしい。あんなおぞましいものが存在して良い訳がない。というより、想像もできなかったんだから、どうか存在しないで欲しかった。
その姿は、巨大な肉塊だ。
分厚く長いそれは、遠目にもブヨブヨとした質感が見て取れる。濃い桃色の身体は一種滑稽にも映るが、だからこそ不気味だ。同色の触手……手が無数に生えていて、その手に握られた凶刃が絶えず交わされて音を鳴らす。赤い火花が薄暗い空をその度に
瞬間、私は『けてけて』が脚を奪う霊異だということを思い出した。その理由に思い至ってしまった。
何故今まで考えもしなかったのだろう。理不尽なものと決め付けていたのだろう。脚を奪うと私は何度も口にしていたのに。
ああ。刃が合わさる音、それから『けてけて』の哄笑に混じって、微かに聞こえてくる──てけてけと。てけてけと。
無数の人の脚が、肉塊を運ぶ。
「ふっ……ふぅっ、ん、うぅ!」
胃の腑から何かがこみ上げる。視界がぱちぱちと明滅するような心地だ。吐き出すまいと噛み付いた志途さんの手からじんわりと鉄の味が広がるが、彼女も私もそれを気にする余裕なんて無かった。
もしかしたら本来の奴は、自分で動けなかったのかも知れない。だからこそ今も尚、人間の脚を奪い取り続けている。だったら奴は、今まで何人の人間を殺してきたのだろう。あの肉塊の内側に、いくつの魂を取り込んできたのだろう。
もう限界だった。
逃げよう。
それしかない。そうしなければ死ぬ。死んでしまう。プライドも覚悟もとうの昔にへし折れた。
死。死だ。死は終わりだ。終わりは死だ。
私が死ぬ。志途さんが死ぬ。お兄さんが死ぬ。私が死ぬ。志途さんが死ぬ。お兄さんが死ぬ……ぐるぐるとそればかりが脳を占める。
もうすぐそこに『けてけて』が……死が迫っている。もう幾ばくの猶予もない。
半ば無意識にお兄さんの方に顔を向けた。
「うん、分かった」
途端に頭が真っ白になった。恐怖の感情すらも吹き飛んで、五感の何もかもが消失して、寝起きに雪原に放り込まれたような、理解不能に襲われる。
ああ、私は馬鹿だ。彼がどういう人間なのかを、術師として何の研鑽も積んでいない
とっくのとうに私は詰んでいた。駄々をこねる時を逸していた。彼が『けてけて』の話を聞いた瞬間から、もう何もかもが終わっていたのに気が付かないまま、あんなに無駄な労力を割いてしまった。
最初だ。本当に最初、今日志途さんが私達のもとに来た時に、思いっきり突っぱねてしまわなければ、どう足掻いたって、何度繰り返したって絶対ここに辿り着く。
私は、お兄さんの異常性を分かった気になっていただけだ。
ちょっと人より鈍くて、少しだけお人好し? 否、お兄さんは言っていた。「最後に残ったプライドは、意地でも守り通すもの」だと。
それがイコールで「死んでも」だということに、何故気がつけなかったんだろう。
「大丈夫」
彼はこの状況で微笑んでいた。迷子の子どもに向けるような、安心を与えるための優しいばかりの笑みを『けてけて』に向けている。
圧倒的な死の気配を撒き散らすあのおぞましき怪物を前にして、威風堂々と、強がりでも衒いでもなくそんなもの目に入らないと言わんばかりに、私と志途さんが見向きもしなかった、肉塊を先導する少女だけを瞳に映している。
命の危機を知らせる凶刃も、人に恐怖を与えることしかできない哄笑も、数多の脚が鳴らす「てけてけ」も、彼を恐怖させるに値しない。
それらの不純を排除して、お兄さんの耳には確かに届く。
──たすけて。
「任せて」
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