大人の責任
両手でバツ印を作りながら満面の笑みを浮かべる志途さんに溜息をつく。ここまで協力しておいて往生際が悪いというのは自覚があるけれど、命を賭ける覚悟なんてそう簡単に出来はしない。
しかし、為すがままに、流されるままに、ここにいる事を悪いことだとは思わない。死に瀕する瞬間はいつだって不意打ちだ。それを乗り越えた人々は誰しも口を揃えて「奇跡」という。自分の心の持ちようを引き合いに出すことはない。
覚悟と言えば聞こえはいいが、要は目に見えている危険に自ら向かっていく愚かさのこと。そんなもの、この瞬間を生き抜くのに必要ないのだ。万一それが必要になったとした場合、状況の方が健全じゃない。
まあ、薄々今がそうなのだ、というのには気付いているけれど、戦士でもなんでもない術師くずれの身としては、奇跡を願っていた方がいくらか建設的だろう。
「僕も逃げて欲しいっていうのが本音だよ」
低い声と共にカフェオレが降ってきた。「甘いので良かった?」の返事の代わりに栓を開ける。
すぐそこの自販機で買ってきたものだろう。お腹は膨れないけれど、口に含めばそれなりに気は紛れる。季節は秋なれど、この日の高さではやや熱いくらいのそれを手で転がしながら慣らしつつ、志途さんを押し退けて逆の隣を無理矢理空けた。
「でも強く言えないや」
無糖のコーヒーで唇を湿らせながら、お兄さんは
「それを押し付けるのは、この場合ただの大人のエゴだ。遺された子どもの気持ちを慮っていない。だから責任を取るというのなら、僕もやっぱり逃げるべきなんだろうし、志途ちゃんは応援を呼ぶべきなんだろう」
私に無下に扱われてぷんすか怒っていた志途さんが、矛先を向けられて唇を尖らせる。気まずそうに目を逸らす彼女に「僕も矜持というか我侭でここにいるから人のことは言えないけど」とお兄さんは、らしい優しさでフォローを入れた。
「だけど、なけなしのプライドを取捨選択して、残った物を意地でも守り通すのが大人だ。周りから見れば滑稽に映るだろうけれど、プライドなんて個人的なものなんだから仕方ない。誰かは僕じゃないからね」
お兄さんのそれが「助けを求められたら拒めない」と定義できることを私はよく知っていた。この人は私のことを基本的に優先してくれる。それでも『けてけて』に頑なに立ち向かわんとするのは、志途さんから持ち寄られた仕事が世のためになるから、それ以上に、『けてけて』にされている女性に同情しているからだろう。
脚を奪われ、満足に死ぬこともできずに、今も恐怖の
「僕のプライドを守る、それと同時に氷華ちゃんの願いを叶える。その為に『けてけて』に勝つ。大人の責任を果たすんなら、そうじゃなきゃいけない」
彼が言うところの私の願い、それはお兄さんが死なないこと。
多分私達は随分とタイプが違う。考え方が違う。生き方が違う。それでも一緒に暮らしていく以上、ぶつかることも少なくない。基本的にお兄さんが譲ることが多いけれど、一番大切なところで、そう、最後に残った守らなければいけないものが、相容れない。「危険を侵してでも他者を助けたい彼」と「誰かを犠牲にしてでもお兄さんを危険に晒したくない私」じゃまるきり反対だ。
それでも尚、私達が隣にいられるのは、その為にお兄さんが努力してくれるからだ。どんな危険も乗り越えて、傍で笑っていてくれるからだ。
強く出られないのは私も同じ。いくら駄々をこねようと、私の根っこが彼を信じてしまっているんだから、送り出せないはずもない。
「お兄さんのそういう我侭なところ、好きですよ」
芯から溢れだす熱をそのままに微笑みかけた。
少しだけ私の顔を見つめてから、彼はコーヒーできっと色々なものを流し込んだ。ため息一つ分の時間を空けてから「ありがとう」それから「ごめんね」の言葉を貰う。
「振られちゃいましたか」
「えっ!? あ、いや!」
「そうじゃなくて」とか「えっと」とか「あの」と慌てるお兄さんが可愛くて笑う。
ただの冗談なのに。
分かっている。さっきの謝罪が私に我慢をさせてとか、尊重できなくて、という枕を擁していることくらい。
思うところが無いわけじゃないけれど、結局こういうお人好しのところが好きなのだから、何も言えない。惚れた弱みというのはそういうものだろう。
「まあ、お陰様で出来ましたよ、私も。死ぬ覚悟じゃなくて、闘う覚悟が」
正確には、闘う貴方を見送る覚悟が。
「……うん、そっか」
お兄さんはもう一度だけ「ごめん」と言った。
反対隣を見ると、志途さんが渋い顔をしながらちびちびとお兄さんと同じ無糖のコーヒーを啜っている。
「どうかしました?」
「いや、死の間際には本能がどうとか、そういうの思い出してたっす。子孫繁栄がなんとかかんとか……」
「なぜ?」
「うっせーっす! どうせ私には彼氏なんかいませんよーだ!」
「
「普通に『恋話なんてしてない』って言えば良いだけでは!? なんでわざわざ傷つくような物言いをしたんすか!?」
特にそこから建設的な話をすることもなく。だらだらと喋りながら疎らにやってくる利用客を四、五回見送って、ようやく逢魔が時がやってきた。
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