人食いライオン

 「ふーん」と気のない返事をして、彼女は線路に沿うようにして規制テープを貼っていく。

 当然都合よく柱なんて無い。テントを建てる際に用いるを刺していく姿は、さながらアウトドアに目覚めたギャルだ。スーツルックだから山を舐めるなって感じだけれど。


 ペグから霊異の気配はしない。ホームセンターかどこかで買ってきた本物だろう。


 お兄さんと二人でその作業を手伝うと照れ臭そうに「一流なら何もなくても貼っつけられるんすけどね」と謙遜した。そんなもの空に字を書くようなものだ。現実に難なく干渉出来る術を使える人間が、今どれほどいるものか。


 霊異は般若心経にある「色即是空、空即是色」の言葉を借りて説明される。


 簡単に言ってしまえば「色」とは「形」、「空」とは「実態」のことだ。私達が視認している世界は、あくまで表面上のもの。「空」は絶えず変化して個性を持ち、「色」となって表れる。そして「色」もまた「空」と同様に流転する……結局のところ「空」がこの世を成り立たせているという、世の理の話だ。


 だが霊異はこれに当てはまらない。

 霊異が一般の人間に見えないのは、霊異には「色」が無いから。彼等は「色」を持たないままに個性を持ち、この世に存在している。逆に言えば術師は、物事の実態、つまりは「色」なき「空」を視認する事のできる、常人とは違う進化を遂げた人間と言える。


 術師が霊異に対して攻撃力を待つのはこの理を良く知り、「空」を用いて「空」たる霊異に干渉するからだ。一般的な銃火器をはじめとした武器はあくまで「色」を失わせるもの、霊異に対しては無力である。


 志途さんの術は「空」に「色」を持たせる事に成功している。世の理の側に爪の先をかけているのだ。

 何もないところに物質を干渉させるなんて、それこそ神の御業だ。「色」で「空」に触れることなど出来はしない、その絶対のルールを捻じ曲げる化物がいるこの業界がおかしいだけ。多分この国どころか世界にも十人いない。


 私が唯一知っている人は、「花薙」を含めた退魔師の四名家、「花鳥風月」が仕える雲の上の方だ。私みたいなのが出会えているのは、平地で雷に打たれるくらいの奇跡だろう。


 水面に墨を垂らすかのように、かの方の漆黒の立ち姿が脳裏に染みる。



「──君の」


 あの光景が不意にフラッシュバックする。唇が勝手に言葉を紡ぐ。私の今を作った、最初の言葉のろい


 耳に残るひぐらしの音。欠伸あくびの向こうの焼けた空。少しだけ届かない橙の光。

 狭く切り取られた外の世界のそのまた奥、影から染みだすように現れて、平坦な声で私を解き放った、黒コートの男性の立ち姿。


 ──君の名前は……





「難しいのって」


「はい?」


 現実に引き戻される。

 硬いヒールでペグを地面に埋めながら、溜息混じりに志途さんがぼやく。


「難しいのって、『けてけて』が強力なのもそうなんすけど、倒しちゃいけないところっすよね」


「ああ。ええ、そうですね」


 私達の目的は霊異を祓うことではなく、あくまで『禁足地』を作り出すことにある。その為には火種となる霊異が必要。今回は『けてけて』がそれに当たる。

 電車、そして駅という、日常でありながらも程ではない場と強く関わりを持ち、明確に人に危険を及ぼすそれは、私達の目的の格好の的だ。


 だが危険な霊異を欲しているのは、変な物言いにはなるがだ。それが過去になっては人に恐怖を根付かせることはできない。

 何も定期的に人を襲わせようなんて話ではない。実際に脚を奪われる人なんて出す気はない。そんな殺人幇助さつじんほうじょ的な話なのだとしたら、私はともかくとしてお兄さんは確実に協力しないだろう。


 ただ、檻の中の猛獣程度には危なく在って欲しい。


 何度も言うようだが、怪談は娯楽だ。遊びがなければ広まらない。「多分大丈夫だけれど、もしかしたら……」この疑心が面白さに繋がる。


 だから今回の話は「装備も人員も足りてないけれど、人食いライオンをとっ捕まえて見世物にしてね」というものなのだ。

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