結界
泣き顔を見せたくなくてお兄さんの脇腹に顔をこすりつけた。頭上から降ってくる笑い声に「仕方ないなあ」なんてニュアンスを感じる。
子供っぽく見られたくなくてこうしたのに、本末転倒だ。今度は火照った顔を見られたくないから、腰に腕を回す。
「さて、志途ちゃん。別にノープランって訳じゃあ無いんでしょ?」
大きな掌で私の背を叩きながらお兄さんは言った。
「それはもう! 私だって悔しくないわけじゃ無いっすからね。不意打ちだの油断だのと言い訳を重ねるつもりもねえっす。嘘でも何でも仕事と言ったのは私っすから」
声音に仄暗いものが混じっている。
楽観的に見えるけれど、志途さんもこう見えて霊異の専門家だ。日陰に生きる、或いは日陰に死ぬ者達と同じ場所に身を置く彼女達も、必然的に日陰者。明るいばかりの人間など、この業界に限って有り得ない。
まして彼女は「
きっと志途さんを今最も突き動かしているのは、仕事に対する義務感でも、地獄で未だ苦しむ女性を助けたいという正義感でもなく、じっとりとした復讐心だ。
「なんで、今日は武器持参っす」
ぴりっと空気が張り詰めた。背筋に怖気が走り、耳鳴りがする。半ば足抜けしているとはいえ、これでも霊異の世界で生きてきた身だ、その気配を違えることはない。
すわ『けてけて』が現れたかとお兄さんから離れたが、そうではなかった。
どこから取り出したのか、志途さんは右手に鉄の棒を握っていた。白く着色されたそれは彼女の上背よりも尚長い。先端には円形の、これまた鉄の板がくっついている。
「……道路標識?」
「車両通行止め、だね?」
揃って首を傾げる私達の目の前で、彼女はそれをぐるぐるとバトントワリングの如く自在に操ってみせた。
ズドンと地面に突き刺さったのを見るに、相応の重量はあるらしい。思わずじろじろと彼女の肢体を眺めてしまうが、どれだけ見ても無駄なところは無い。
「え、武器って言ったよね?」
「結局硬いモンでぶん殴るのが一番強えんすよ」
「なるほど」
「え、氷華ちゃん、それで納得しちゃうの? 術師ってそういうものなの?」
余りに異質なので面食らってしまったが、こうして触らせてもらえばその正体は知れた。
これは一種の結界術だ。
結界……つまるところは霊異的な壁。実態としては境という方が正しいけれど、そう言ってしまう方が分かりやすい。
その目的は何かの進行を妨げること。それは霊異に限らず、人であったり、特定の動物であったり、音であったり、光であったり……
物理的な壁を作るというよりは間に挟み込み、区切ることで内と外を分断する術。
岐家は、その名の通り結界を得意とする家だ。
言葉は呪い……それが術師の鉄則。言葉があったから呪いがあった、術師たちはそれをよく知っている。長い歴史の中で体系化され、細かな手順が生まれた数々の術も、初めはただ「呪いあれ」という想いから発しているのだから。
名前は生まれ落ちた人間が初めてその身に受ける原初の呪いだ。名は体を表すという。親は子に「こうあって欲しい」と願って名前をつける。一般人でもそうなのだから、術師の名付けは尚更だ、願いはそのまま呪いとなって、自分の子供に降りかかる。
岐は分かれ道のことを言う。その名に込められた呪いは、物事を区切ることに力を発揮する。
志途さんが『封神課』に配属されたのも、そういった理由だろう。具体的な仕事の内容は分からないけれど、多分彼女の『禁足地』を作るという使命からして、読んで字のごとくなのだろうから。
こうして結界を自在に形成し、恐らく一般的な人間にも見える形で留めて置けるのは、神業と言って良い。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。幽霊の正体など所詮は何かの見間違いだよ、という意味の言葉だが、現実は残念ながらそんなに優しくはない。
人間の見るものは結局は脳の認識に因るものだ。余りにも自分の常識に無い物を見た時、人の脳は無意識にそれを矯正する。やれ人の霊異を見ては柳の木だの、双頭の犬を見ては光の具合だのと、自分に嘘をつく。
志途さんのこれは、そういう誤解を与える余地がないクオリティだ。そしてこの形はふざけているわけでは無いのだろう。
「『車両通行止め』……志途さんはあくまで、『けてけて』を電車の霊異として定義するわけですね」
「そうっす!」
得たりと彼女は頷いた。
見た目から受ける印象は、霊異の世界では存外に大事だ。ここで区切っているんですよ、という視覚情報は意識下にダイレクトに訴えかける。集中力がなければ術は行使できない。分かりやすく車を塞き止めるイメージを所有者にも周りにももたらすこれは、志途さんのポテンシャルを発揮する最適解の一つ。まあ、彼女のことだから趣味の面もあると思うけれど。
これは多分斬れるだろう。殴ると彼女は言ったが、並の霊異なら身体に容易く挟み込まれて、分断される。そうすれば存在の定義が揺らいで、そのまま昇天するはずだ。
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