第5話 海へ
海岸線にほど近い、峡谷を通っていた時のことです。
不意に、頭上から耳障りな物音がたちました。
古い機械を油も差さずに無理やり動かしたような、ギイギイ、ギチギチとした異音が……無数に重なり合っております。
次第に、鈍く輝く黒の装甲に覆われた犬のような、巨大な蟲のような奇怪な生物の群れが崖の上から現れて、こちら目掛けてぞろぞろと這いよりだします。
魔物たちの先遣隊です!
「ミハル団長!」
「――俺が出る! 皆は退避を……決して俺の射線に近寄るな……よっ!」
ミハル団長の聖剣、オーロラがすらりと抜き放たれます。
不可思議な遊色の浮かぶ刀身があらわとなり……次の瞬間には光の奔流と化して辺り一帯を覆いつくします。
光が晴れた時には、魔物の群れは1体残らず消し飛んで、そして並んだ馬がやっと2頭分通れるかという渓谷もまた、きれいさっぱり消滅しておりました。
「す、すご!」
慎みも忘れて、私は感嘆の声をあげてしまいます。聖剣の中でも特に強力な権能だとは知っておりましたが、まさか、ここまでのものとは思いもよりませんでした。
「……無理に着いて来なくても良かったんだぞ。辺境へ続く街道も開通したそうじゃないか」
涼やかな音色を立ててオーロラを鞘へ収めたミハル様が、もう何度目かもわからない念押しをなさいました。
私はどう返答したものか考えます。
「そうですねえ……私は、正直に申しまして王都の安寧にあまり関心が無いのですが」
「おいおい」
「……それでも。私の力が民を護るお役に立てるのなら、地の果てへだって参りますわ。そうでなければ、マグダラと通じ合った甲斐がありませんもの」
「わかった。君の決断を尊重しよう」
その時のミハル様は、確かにそう告げて柔らかな笑顔を浮かべておりましたのに。
――だから私は、開戦後程なくして伝令兵が命からがら持ち帰った一報に心臓が凍り付きそうになりました。
『ミハル騎士団長は、単身で霧の向こうへ赴き消息を断った』と、告げられたのですから。
先ほどまでしっかと両の足で踏みしめていたはずの大地が、急に心もとなくなります。足元がぐにゃりと波打ったように感じられ……倒れかけるのを、私はギリギリでたたらを踏んで堪えました。
私の周囲で、観測員の皆様がざわめいていました。その様子からも、普通ではないことが起こっていると知れます。
矢も楯もたまらず、私は物見塔へと駆けあがりました。
眼下の平原では、大小様々な魔物と騎士の皆様が織りなす血生臭いタペストリーが広がっています。
いま私がすべきことは、考え得る限り2通り。
ひとつは騎士団の皆さまを手助けし、手薄な部分に加勢して露払いすること。
……そしてもうひとつは、戦場を押し通りミハル様の元へ向かい、彼を連れ戻すことです。
私は、ミハル様が狂を発したり、ましてや裏切ったとは思えませんでした。
きっと霧の向こうに彼が解決せねばならない何事か、あるいは何者かがあったのです。
「……どうぞ、お心のままに行動してください」
物見塔から砦のホールへ降りて来た私へ、歳若い騎士の方が声をかけてくださいました。
……以前、真新しい剣帯を貸してくださった方です。
「僕が言うのも、お、烏滸がましいのかもしれません……でも」
心のままに行動を?
でしたら私は、ミハル団長を連れ戻しに向かいます。
……そう伝えるまでもなく、彼には私の内心が知れてしまっているようでした。
「使い古しで申し訳ないけど……どうぞ」
彼から差し出された兜を有難く受けとり、銅鎧の上から一般兵の空色のサーコートを纏います。
この姿なら、よほどの注視でもされない限り『マグダラのリリアナ』とはわからないことでしょう。
「いつまで有るかわからない聖剣に頼ってばかりじゃ、この国はどの道ジリ貧なんだ。僕たち……
彼が皆様へ飛ばす檄に背中を押されながら、私は戦場へと弾かれるように飛び出しました。
戦場のただなかを馬を駆って突っ切ります。
視界を塞ぐ土埃を払いのけ、ときの声と共に敵を粉砕する騎士やうめき声をあげながら倒れる魔物の間を縫って、流れ出た血を吸って泥濘と化した大地を蹴たてて。
目的地への最短距離をひた走る私の行く手では、大型の魔物が兵たちを相手どって暴れておりました。
膨れ上がった胴に細い手足の、いびつな甲冑騎士のような魔物が組みつく兵たちを千切っては投げし、隙を見ては押しつぶそうと襲いかかるのです。
こんなものに構っては居られません。私は鞍の上に立つと、とん、と宙へと飛び上がります。
魔物の大きさは私の背丈の、ざっと2倍ほどでしょうか? 振り回される腕をかいくぐり、それの肩に両の足で着地して即座にマグダラを横凪ぎに振り抜きます。
ぞぶり、と嫌な音をたてて魔物の頸が飛び、残りの身体がどうと倒れ伏す前に私は再び跳んで馬の背に取りつきます。
「リリアナ様!?」「マグダラの乙女が来て下すったぞ!」
一度だけ振り返って、まだ両の足で立っている者たちへ呼びかけます。
「後はお任せしてよろしくて?」
応! という歓声を背に、私は再び戦場の奥深くへ向かいます。
人魔の衝突する最前線を抜け、魔物の勢力圏へと近づきつつありました。
行く手に、きらりと陽の光を反射するものがありました。――海です。
サンドールの東部海岸。ここが、現時点で人が生きられる限界の地と言われています。
人の身で魔の霧に近づいてはならないのです。
それは単に魔物たちの巣窟という以上の重い意味がありました。……特に、聖剣の使い手にとっては。
「ミハル様……」
ああ、なんて馬鹿なことを。
霧の向こうは魔の住まう地。ここではないどこか。
剣の乙女と聖剣の繋がりが断たれ、使い手は権能を使えなくなります。
魔の者どもへの唯一の対抗策を失ってしまって、生きていられる道理はありません。
(けれども私は……――私なら、帰還できる目もありましたのに!)
私は唇を噛みしめます。何も言わず消えてしまった彼への憤りと、自らの不甲斐なさへの苛立ちがそうさせたのです。
吹き付ける風からは潮の香りがします。
大陸の東の果て、そこには遠浅の海が広がっていました。所々に岩の突き出た浅瀬が茫漠と広がる景色を、けれども唐突に区切る存在がありました。
深い霧です。白とも黒ともつかない
おかげで海の向こうには水平線が広がっているのか、はたまた意外と近くに陸地が見えるのかすら、私たちは知らないままです。
もっと大量の魔物でひしめいているのかと思いましたが、辺りは不気味なほどに静かです。敵陣の深くまで押し入ったためかもしれません。騎士団と魔物のぶつかり合う物音は潮風に紛れ、今はかすかに耳に届くばかりです。
私は馬から降りると、労わりの気持ちを込めて彼女の首を優しく叩きます。
歳をとっている分賢い馬ですから、自力で危険を避けるくらいのことはできましょう。死地へ連れて行くことのほうが、私には気が引けました。
……その時、ぽっくりぽっくりと足音が近づいてきます。蹄鉄を履いた馬のものです。
音のする方向をみやれば、そこには影のように黒い毛並みとたてがみをした馬がおりました。
ミハル団長の愛馬です。どうやら彼の主も私と同じことを考えて、ここで
鞍と手綱を外してやると、彼女は黒い馬へと歩み寄ります。
しばし見つめ合い、鼻面を擦り合わせ、そして連れ立って立ち去ってゆきました。
私はその光景を見届けると霧の壁へと向き直り、迷うことなくその中へと足を踏み入れます。
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