第6話 霧の向こう側
右も左も、上下すら曖昧な風景の只中を、ただ歩んで行きます。もしかして、同じ場所をぐるぐる回っているだけなのでは……? 疑わしい気持ちが湧いてきたその時、私の耳に遠く剣戟の音がとどきました。
物音のする方向へ走ってゆきますと、唐突に霧が晴れました。
周囲の風景はサンドールとは大違いです。空には灰色の雲が分厚く垂れこめ、地上には立ち枯れた樹木がまばらに生えるばかりの不毛の大地が、私の眼前に果てしなく広がっていました。
そんな見渡す限り灰色の景色のなかに、一つだけ空色と銀色をした人影がありました。ミハル団長の軍装です。
彼は今、魔物の集団を相手取って戦う
やはりオーロラの力は断たれているのでしょうか、それとも多数に四方から囲まれていて狙いが定まらないためなのでしょうか、ミハル様は聖剣の権能を使うことなく応戦しています。
加勢したくとも距離はまだ相当離れています。
一刻も早く駆けつけたいのに、そんな私の前へも魔物たちは立ちふさがります。
「――邪魔! です!!」
マグダラを抜いて斬りかかり――やはり、思った通りです。一抱えほどの大きさの魔物が弾けるように両断され、体液をまき散らしながら吹き飛んでいきます。
魔の地にあってもマグダラの権能はいまだ健在でした。私の身体は変わらず、軽く、鋭く、力強く動きます。剣と私の繋がりは、断たれることなくここにあります。
「ミハル様!」
「――リリアナ殿!!?」
魔物の群れを背後から蹴散らして駆けつけた私を、ミハル様の驚愕した表情が出迎えます。
「馬鹿野郎、何故来た!」
「私、『野郎』じゃありません!」
「揚げ足をとるんじゃない……くそっ」
言い合いもそこそこに、私たちは再びこちらを押し包むように取り囲んでくる魔物と対峙します。
「二人がかりなら血路も開けるとは思いません?」
「……30、いや20秒稼げるか?」
たやすいことです! 今の私なら、何時間だって踊って見せます。
霧の向こうでは、聖剣と乙女の繋がりが断たれ、力を発揮できなくなってしまいます。
乙女であり使い手でもある私は、その障りを乗り越えられた訳なのですが……彼はどうなのでしょう?
ただのブロードソードひとつをたのみに、魔物の巣窟へ押し入ったのでしょうか?
その疑問は背後から放たれた強い光が答えとなりました。
「――退け!」
慌てて回避した私の横合い、先ほどまで立っていた地面を光のカーテンが撫でてゆきます。
次の瞬間、そこが
同様に光に照らされた魔物達も、順々に塵と化して消えてゆきます。
一呼吸ののち、そこには巨大な扇状にえぐれた地面が残されているばかりでした。
「俺は、君を英雄にしてやるためにここまで来たというのに……」
「お気になさらず。私、
「そうか」
オーロラを鞘に収めて項垂れるミハル様へ、私は腰に手を当てて、おどけるように答えました。
ミハル様は力ない笑いでそれに応えました。……もっと愉快に感じてくださるかと思ったのに。
「私、ミハル様に聞きたいことが山ほどございます」
「無理もないことだ」
「……ですが、今は一つだけ問いかけることにします。目標は、どこです?」
ミハル様が、ただの無思慮や無鉄砲でこんな場所まで来るとは思えませんでした。
彼は一瞬だけ言葉をつまらせると、天を仰ぎます。
「じきに、向こうからやって来るだろう。あの魔物たちは、俺をこの場に釘付けにして時間を稼いでいたのだから」
黒い影が、私たちを覆います。
振り仰げば宙に浮かんだ巨大な魔物が、弱々しい陽光を遮って私たちを睥睨しておりました。
あんなものにサンドールの地まで出てこられたらひとたまりもありません。
ミハル様は、これを見越して単身でここまで赴いたのでしょうか。
「油断するなよ! 本命はコイツじゃない」
……ミハル様の言うとおり、巨鳥のような魔物の背に何者かが乗っていました。
逆光を背負って立つ姿はまるで甲冑騎士のようです。人間との違いは、頭の後ろになにやら大きな円環を戴いていることでしょうか。
「察するにミハル団長、オーロラの権能って続けては撃てないのでなくて?」
「そうとも。リリアナ殿の仰る通り……何か言いたそうだな」
「いいえ? 次はどれほど時間を稼げばよろしいのかなと思いまして」
ミハル様は片眉を上げて難しい顔をなさいました。私の提案は、いわば囮を買って出るようなものです。
けれども、こちらとしては最初から加勢に来たのです。その程度の危険を冒さずしてどうしましょう。
「――次撃にかかる時間は300秒。この時間は測ったし、身体に叩き込んだ。これ以上は決してまからない」
300秒。
けれども。
「やるしかありませんわね。私がどうにかしませんと、我らが団長は刺し違える覚悟のようですから」
ぐぬ、と詰まっておられます。やはり、図星でしたか。
団長を見事に出し抜いてやったぞ、という快感は……有りませんでした。状況証拠からして、そう考えざるを得ませんものね。
「ミハル様?」
「なんだい」
「一緒に帰りましょうね」
「……そうだな。はねっかえりのお嬢さんにはエスコート役が必要なようだ」
ミハル様は深くため息をつき、そして、剣を構えます。
甲冑騎士の魔物が、いっそ優雅なまでの放物線を描いて巨鳥の背から飛び降ります。
私もまたマグダラの刀身に付いた血やその他の液体を振り払い、団長にならって身構えます。
◇◇◇
楼門の上から我が領地を見下ろす。海岸線に沿って南北を貫く霧の壁は相変わらずそこにある。
遠浅の海は、今は満潮となっていて、陽光を受けて海面が鈍く光っていた。その上空を海鳥たちが飛び、互いに鳴き交わしている。
魔の霧さえ無ければ……と思わされる程には美しい景色が広がっているのだが。
――霧の向こうの悪鬼を見事に退け、その褒賞として王より領地と城を賜った。
低位ながら爵位を得た俺は、今では新興貴族のミハル様として一国一城の主だ。
といっても、大陸東端の砦――見張り台に毛が生えたような古城を手直ししたものだけどな。
名誉ばかりが大きく、実がいまいち伴わないのは聖騎士団を任された時と同様の流れと言える。
「ですが、良いことではありますわ。正当な働きが評価されたのは確かでしてよ?」
景色から視線をはがして振り返る。鋳鉄のテーブルセットにはお茶の用意を整えてあった。
来客を歓待している最中だからだ。
とっておきの茶菓子をつまんでいるのはリリアナ殿だ。
「悪いな、手土産の指定を聞いてもらって。そいつを
「いいえ。このくらい、わけないことですわ。このパティスリーのコルネは私も大好物ですし」
角型の薄焼き菓子をほおばる様子は、他の年頃の娘と変わらない。
俺は微笑ましい気持ちを表に出さぬようつとめながら、彼女の向かいの席に着く。
「……さて、どこから話したものかな」
「でしたら私、気になっていることがありますの。霧の向こうでもオーロラの権能をお使いになられていた件なのですが……」
やはり、そこからになるな。といっても、説明は一言で終わるのだが。
「俺も、聖剣の力を引き出せるから。――どうやら聖剣と心通わすのは女ばかりとは限らないらしい」
答えを半ば予測していたのだろう。リリアナ殿はさして驚いた様子もなく、きらきらと好奇心に光る瞳をこちらへ向けている。
「そうでしたか、ミハル様も剣の乙女でいらしたのですね……」
「お、乙女なんて柄じゃないぞ?」
「あら、女も勇敢さを称賛されれば英雄と呼ばれますもの」
……かもしれないな。俺は焼き菓子の最後のひとつを摘まみ上げながら肩をすくめた。
今のところ、勇敢な女は英『雄』で、だとすれば聖剣と心通わす男もまた乙『女』と呼ばれるのだろう。
言葉という奴も、ときにいささか不自由なもののようだ。
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