ひばりと律 Ⅱ (1)

 わたしは姉がきらいだ。

 きらいで、きらいで、面と向かうと傷つけずにはいられないのに、それでいて容易に手放しがたく執着している。

 おまえのそれはまるで茨の棘だな、と苦笑していたのはりつだった。

 正しい。姉は長く、茨の塔のお姫さまだった。

 茨が覆う塔にひとり引きこもって、誰もちかづけないのだ。

 不自由で、不憫で、ふしあわせな、わたしのお姫さま。わたしだけの、お姫さま。

 でも、お姫さまはもう塔のなかにはいない。王子さまを追いかけて自分から塔を出ていってしまったから。



  *…*…*



「ひばちゃん?」


 紅茶に角砂糖を落としたまま、ぼうっとしていると、対面に座るつぐみが声をかけてきた。


「何かあった?」

「何かって?」

「めずらしくぼんやりしているから」


 鈍いようで鋭い姉に、肩をすくめて薄くわらった。

 こと笑みをつくる、ということにひばりは長けすぎている。息をするように口元に笑みを刷くので、ときどき自分がほんとうはどんな顔なのか、自分でもわからなくなるのだ。いつもの癖で笑みをつくったあと、今度は意識して表情をほどいた。このひとのまえで取り繕う必要はなかったときづいたのだ。


「べつにー? きのうも夜、晩餐会につきあわされたから疲れているのかも」

「そっか。忙しいのにごめんね」

「べつに忙しくないよ」

「そう?」

「そうだよ。ねえさまとの予定のほうが先だし」


 ひばりがそう言いきると、つぐみは目を伏せて微笑んだ。

 初夏のひかりが姉の華奢な肩に白くあたっている。

 オフホワイトのカットソーも、ライラック色のロングスカートも、編み込んだ髪に留まった鳥のかたちの髪留めも、ひばりが身に着けているものとは比べるべくもない安物ばかりだったが、静かに紅茶をのんでいるすがたは気品があってうつくしいと思う。でも、十人に聞いたら、十人がひばりに目を留め、ひばりのほうを称賛し、ひばりこそをうつくしいと褒めそやすだろう。ひばりはそういうふうに自分をつくっている。血と汗と泥でつくったひばりの仮面だ。でも、ほんとうは姉のほうがうつくしいひとなんだってひばりは知っている。親切に誰かに教えたりはしないけど。

 今日は前から約束していた、老舗ホテルのアフタヌーンティーだった。

 三段のスタンドには、夏みかんやさくらんぼ、アプリコットといった初夏の果物がふんだんに使われたタルトやケーキ、スコーン、カップスイーツが宝石のように並んでいる。行きたい、と言ったのはひばりだった。こういういかにも女子っぽい、きらきらしてかわいいものがひばりは実はすきだ。


「ねえさま」

「うん?」

「このアプリコットと紅茶のタルトおいしい」

「どれ?」

「これ」


 いちばん上の段のタルトを指すと、つぐみもつまんで、ふにゃりと表情をゆるめた。


「おいしい」

「おいしいー」


 こういうくだらないことを姉のまえで言っているのが、最近のひばりの息抜きの時間だ。

 実のところ、今朝も二コマ続けて大学の講義で、このあとは父について会合に出席し、さらにあしたのゼミに向けた準備もしなければならない。大学生と名家の令嬢の二役をこなすのは忙しい。

 それでも、何をおいてもこのささやかな姉との時間がほしい。鹿名田かなだひばりの仮面をつけないでいられる短い時間が。……いや、ちがうのかもしれない。かつて壊して捨てたはずの子どものひばりの仮面をつけて、ぞんぶんに姉に甘えられる時間。そちらのほうがたぶん正しい。


「そういえば、りつとの結納、夏に決まったよ」


 スイーツを食べ終え、食後の紅茶を味わいながら、ひばりはふと思い出したことを口にする。四月に大学に入学したひばりは、来月には十九歳になる。高校卒業後に婚約者である律と結納を迎えることは前々から決まっていた。

 なので、ひばりとしては世間話のひとつとして伝えただけだったのだが、つぐみはわずかに顔を曇らせた。


「律くんと、結婚するんだね」

「うん。まあ、式はもっと先だと思うけど」

「いいの? ひばりはそれで」


 もちろん、とひばりはカップに目を落とした。


「律は有能だし、機転も利くし、それでいて自分をひけらかさない。敵をつくりづらい性格だと思う。それに北條ほうじょうグループの次男なら家柄としても申し分がない。わたしの夫になるのにこれ以上のひとがいる?」


 つらつらとゼミのプレゼンみたいに言うと、つぐみは困ったふうに苦笑した。


「旦那さんというより、仕事相手みたいに聞こえるけど……」

「仕事相手だよ」


 はっきりと言いきった。


「外で恋愛して結婚したねえさまとはちがうよ」


 瞬間、つぐみは痛みが走ったような顔をして口を閉ざす。

 ああ、またわたしのわるい癖が出てしまった、と姉の表情の変化を見てきづく。

 ひばりはときどきこんなふうにわざと姉を傷つける言葉を選んで吐いてしまう。傷つく姉の顔を見て、わずかな憐憫と罪悪感、そして仄暗い愉悦を覚えるのだ。姉の心をほかでもない自分が揺らしたことに暗い歓びがわきあがり、そして次の瞬間には我に返って後悔する。


 ――ねえさまにきらわれたくない。


 傷つけたくせに、そんなことを思って不安になるのだ。

 このうつくしいひとにきらわれたくない。でも、姉にとって、いてもいなくてもいいその他大勢になり果てるなら、きらわれるほうがずっといい。


「そもそも律に出会ったとき、わたし五歳だったんだよ?」


 湿った空気を払いたくて、茶化すように言った。


「そんな気持ちになんてならないよ」


 耳障りのよい理屈を持ち出しつつ、そんなことない、と心の中では思っている。だって、つぐみも誘拐先であの男に会ったとき、六歳だった。

 歳なんて関係ない。子どもだったかなんて関係ない。

 六歳でも一生の恋に落ちることはある。その先の人生すべてを捨ててもかまわないと思えるくらいの。

 ひばりは律に対してそんな情動に駆られたことはないし、この先もきっと変わらない。

 恋なんて誰ともしないと思う。一生。

 それでも、ひばりは夏には結納をするし、きっと来年には律のとなりで晴れやかな顔で白無垢を着るのだ。



「……ばり……ひばり」


 律の声は低くて、甘いところがない。朝に飲むブラックコーヒーみたいだ。

 駅のホームに貼られていたポスターから目を上げ、「うん、なに?」とひばりは首を傾げる。

 帰りの通勤時間帯をやや過ぎたプラットホームはそれでもまだひとが多い。

 すこしまえまで、ひばりは律とふた月後の結納式の打ち合わせを会場となるホテルでしていた。

 どこかに出かけた帰りに公共交通機関を使うのは、最近のひばりの趣味だ。

 これまでは鹿名田家で雇っている運転手の送迎で学校にも通っていたのだが、大学への進学を機に、電車通学はゆるされるようになった。今日のようにホテルで打ち合わせがあったあとは、電車を乗り継いで最寄り駅までは自分で帰る。もちろん両親がひばりに長い夜道をひとりで歩かせるわけがなく、駅のロータリーにはきちんと迎えの車が止まっていて、そこから家までは車で帰るのだが。


「電車、もうすぐ来るぞ」

「うん、来るね」


 ひばりは大学生らしくカジュアルなベージュのワンピースを着ていたけれど、となりに立つ律は、スーツに革靴といういでたちだ。会社帰りにホテルに寄ったのだろう。

 すらりとした律の長身に似合う品のよいグレーのスーツ。ネクタイにつけているタイピンは以前ひばりが律の誕生日に贈ったものだ。

 べつにとくべつあげたかったわけではなく、婚約者として何か贈らないとおかしいから贈った。それなりのブランドで、センスがいい、だけどなんの心もこもっていないそれを、律はわりとよくつけている。気に入ったからだろうか。あるいは、婚約者としての仕事の範疇だろうか。真意を聞いたことはない。

 プラットホームに電車が入り、乗客が吐き出される。並んでいた客が入れ替わりに車内に入っていく。ドアを閉じて発車した電車をホームから見送る。比較的大きな駅では、電車が十分おきくらいにやってくるので、そんなことをすでに三回繰り返している。

 ひばりは電車の口がひらいたり閉じたりしているのを見るのがすきだ。吸ったり、吐いたり、まるで生きものみたい。


「大学はどうなんだ」


 ホームから去った電車の立てた風が、律の黒髪を巻き上げる。


「うまくやってるよ」

「へえ」


 律はこちらを見ずに咽喉を鳴らした。


「なに?」

「おまえはどこでも『うまく』やるだろうから、そこは聞いてない。たのしいか?」

「……まあまあ。高校よりはすきかな」


 身体をすこし傾けて相手をのぞきこみ、「律はどうだった?」と尋ねる。


「大学、すきだった? 彼女いた?」

「……ひばりさん。俺は大学一年生のときに九歳のあなたと婚約したんですよ」


 そういえばそうだったと思い出して、ひばりはわらった。


「律。社会的には犯罪者だね、それ」

「高校生が相手でも、十分犯罪だろう」

「大学生なら?」

「まあいいということで、結納になったんだろうな」


 総合商社を経営する北條ほうじょうグループの系列会社で働く律は、忙しいひとであると思う。北條グループ自体は年の離れた彼の兄が継ぐから総帥になることはないが、将来は何かしらの重要なポストにつくことはまちがいない。今の時代に同族経営というシステムがまだ残っているのがひばりたちがいる世界で、ただ律はそれを差し抜いても、努力をしているし、勤勉で、有能だ。

 そんな忙しいひとが、ひばりの「趣味」にいつも文句も言わずにつきあってくれる。

 プラットホームに立っているあいだ、律が仕事用のスマホを取り出すことはない。プライベートのそれも。

 律のそういうささやかな、折り目の正しいところがひばりはすきだ。余計なことをだらだらしゃべって、無理に沈黙を埋めようとしないところも。

 ひばりが生きる世界は、婚約者面をして女を自分の所有物みたいに扱う男もたくさんいるけど、律はそういうことを絶対にしないのもいいと思っている。とてもいい。婚約者として一級品だ。逃がさないようにしなくちゃ。

 何気ない会話をしている最中も、いつだってとなりの男を採点している自分は冷血漢だってひばりは思う。婚約者を所有物みたいに扱う男とどこもちがわない。残酷で、冷血。でも、鷺子さぎこだったら、鼻でわらって、あたりまえでしょう、と言うだろう。だって、わたしたちは鹿名田の女だ。外で愛をつかんだ姉とはちがう。


 ――それに律だって、べつにひばりがすきなわけじゃない。


 そう思うことは、ひばりのわずかな罪悪感をいつもすこしやわらげてくれる。

 この男はほんとうはねえさまと結婚するはずだったのだ。

 この場所にいるのはひばりではなく、つぐみであるはずだったのだ。

 でも、姉が使いものにならなくなったから、しかたなく自分のほうと婚約した。

 それだけだ。ひばりに恋して惹かれて、選んだわけじゃない。おたがいさまだ。


「ひばり」


 電車を五本ほど見送っていると、ふいに律がなまえを呼んだ。


「今度どこか行かないか」

「なんの会合?」


 尋ねたひばりに、律は呆れたように息をついた。


「じゃなくて。おまえ、来月誕生日だろう」

「あー、べつに祝わなくていいよ」


 どうせ、親族を集めて誕生会が催される。そこには当然、婚約者としてこの男も出席する。おなじ茶番を二度も三度もするのは面倒だ。律だって暇ではないんだし。


「あ、誕生日プレゼントは万年筆がいいな。すきなブランドがあるの」


 ねだっているのではなく、誕生会には贈り物を持参する必要があるので、先に欲しいものを伝えておいた。今日もひばりの「電車を見送るだけ」という道楽につきあわせて律の時間を消費したので、そのぶんの埋め合わせのつもりだ。


「おまえはあいかわらず……」


 せっかく気をつかってやったのに、律はなぜか苦虫をかみつぶしたような顔になった。

 外ではいくらでも嘘をつける男だけど、ひばりのまえではあまり取り繕わない。どうも余計なお世話だったらしい。もしかして、すでに万年筆ではないものを買っていたのだろうか。


「べつに万年筆じゃなくてもいいけど」

「……わかった。言い直す」


 深くて長い息をつくと、律は首を傾げているひばりのほうを見た。


「最近、仕事が忙しくて疲れているんだ。息抜きにどこか出かけたい。つきあえ」


 なるほど、とひばりは思った。

 それなら理解できた。今現在こうして律の貴重な時間を消費し続けているひばりである。そのぶんの対価をまとめて支払えというなら道理が立っているだろう。


「それ、婚約者として?」

「婚約者として。息抜きするのは俺だから、行き先はおまえが選んでいいよ」

「ふうん……」


 駅に掲示された大判のポスターに何気なく目を向ける。

 べつにどこでもよかった。ひばり個人に行きたい場所なんてない。

 なので、目についたポスターのなかから、いちばん端にあったものを選んだ。


「なら、ここに行きたい」


 大判のポスターには、ネモフィラの花が海のようにさざめいていた。

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