日常閑話 とくべつな日
三月十九日、二十三時五十九分。
間接照明のランプがひとつ灯っただけのベッドに座ったつぐみは、めずらしく充電切れを起こしていないスマホ画面を一心に見つめていた。
さん、に、いち、と真剣につぶやくつぐみの手のなかで、画面が零時零分になり、日時の表示が三月二十日に切り替わる。
「なった、三月二十日!」
声をはずませ、つぐみは
「二十四歳おめでとう、葉くん」
まんかいの花みたいな笑顔が間近で咲く。葉は頬をゆるめた。
「ふふっ、ありがとうー」
後ろからおなかに腕を回して、つぐみの髪に顔をうずめる。
お風呂のあと、ときどき葉がドライヤーで乾かしてあげている髪からは柑橘系のシャンプーの香りがした。目を細めてぎゅうぎゅうしていると、軽やかなわらい声が背中越しに伝わる。
「それでは、今日の予定を発表します」
つぐみは背筋を伸ばして、ちょっと真面目な口調になった。
「まず朝になったら、わたしが朝食をつくります。メニューは、食パンと、目玉焼きと、ミニトマトとレタスです」
「うんうん」
「あとはミルクティーも淹れます。どれも練習したから、君は居間でくつろいでいるのが今日のお仕事です」
「はあい」
きりっとした顔で今日の予定を説明しているつぐみがかわいくて、頭のてっぺんにくちづけた。「なに?」と尋ねたつぐみに「んーん」と返して、手をつなぐ。葉の手よりずっとちいさな手は、指を絡めると簡単に包み込んでしまえる。包丁を握ったり、お茶を淹れたりすることがあまり得意ではないこの手が、筆を握ると、空を翔ける鳥みたいに自在に動くことを知っている。
「夕飯は具だくさんの手巻き寿司です。わたしもがんばるから、あとでふたりでつくろうね。ケーキは鈴蘭堂のチョコレートケーキを予約しておいたから、三時になったら取りにいってきます」
「予約してくれたんだ? ありがとう」
「うん。鈴蘭堂のケーキは小ぶりなんだけど、かわいくておいしいんだよ。プレートに鈴蘭が描かれていて……ひばちゃんが教えてくれたの」
つぐみは楽しそうにケーキの話をしている。途中でにぎにぎされている手にきづいて、両手で包み返してくれた。
「あとは何してほしい? 今日は君がしてほしいこと、なんでもするよ」
「うーん……」
なんでもするなんて簡単に口にしてしまえる無邪気さにいとおしさがふくらんだ。つぐみは真面目なので、葉がこまったお願いをしても、がんばって叶えてくれそうだ。でも、大事な女の子だから、こまらせたりなんかしない。
手をつないだまま、肩から背中にかけてを唇でたどっていると、柑橘とはちがう甘い香りがルームウェア越しにした。かぷ、とじゃれついて軽く食む。
「もう真面目に考えて」
くすぐったそうに身をよじり、つぐみが文句を言った。
「考えてます、考えてます」
「考えてないよ、遊んでる」
「だって、君があんまりかわいいから」
「ど、どうして君はときどき文脈がすっ飛ぶのっ?」
動揺したようすで、つぐみは身を固くする。
でも、ほんとうにいやがっているわけじゃない。それくらいはわかるので、わらいながらじゃれつくのを繰り返す。鈴を転がすようなわらい声が腕のなかで立った。しあわせな気持ちがふわんとまた膨らむ。
「もう十分もらったよ」
「そんなことないよ。君はもっとわがままを言っていいよ」
「そう? じゃあ、朝までこうしてていい?」
耳元で囁くと、つぐみは瞬きをした。
「いいよ」
またいつものように文脈がおかしいと文句を言われるか、こまられると思っていたので、すんなり了承されて逆にびっくりしてしまう。
向かい合うように座り直すと、つぐみは背を伸ばして葉の頭のてっぺんにくちづけた。それから手をつないで、今度は軽く唇を合わせてくる。何度か触れ合わせたあと、またすぐに離れて、今度は肩のあたりをかぷ、と食まれる。
さっきの葉の真似をしているんだときづいたら、胸がぎゅーっとした。
戯れというにもあまりに淡いそれを繰り返している女の子の髪を撫でて、耳にかけてやる。ほんとうはずっと頭を撫でていてあげたい。でもがまんできなくなって、肩を引き寄せるようにしてくちづけてしまった。
いつの間にか長いキスをしていると、つぐみは息継ぎのあいまに葉の首に腕を回してきた。
「君が欲しいもの、なんでもあげる。でも、わたしにもくれないと嫌」
「うん」
「……わたしが言ってることの意味、わかる?」
「わかるよ」
この子が欲しいけど、この子にならなんでもあげたい。
ふたつの異なる気持ちは、でも、ぜんぶおなじところから湧きでている。一緒なんだと思ったら、また胸がふわんとしたので、もうがまんはせずに唇を重ねた。
甘くてしあわせな三月二十日の夜はゆっくりと更けていく。
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