《Prelude》 彼女と彼の新婚生活 (3)

 つぐみは一度した約束は守る子で、それからは夕ごはんの時間になるときっちり現れた。きれいな箸遣いでさんまの塩焼きを口に運ぶ女の子を、ようはちゃぶ台の対面から微笑ましく見守る。


「裏門のそばに生えてる金木犀がもうすぐ咲きそうだよ。蕾たくさんついてた」

「うん。数日まえから香りはじめてるね」


 外のことに無頓着そうなつぐみは、その実、この家の草木のことはすごくよく見ている。どこに何が生えていて、それらがいつ花ひらくのか、それぞれの幹や葉のかたち、色や香りも。

 はじめは透明人間のように葉のまえに絶対にすがたを見せないつぐみだったけれど、最近はときどき、縁側で草木をスケッチするすがたを見かけるようになった。スケッチブックを抱いた彼女は、ときに真剣に、ときに子どもが戯れるような軽やかさで鉛筆を動かしている。

 邪魔しないようにそっと柱を背にして、規則正しいその音に耳を傾ける。わけもなく安堵して、いつの間にかうたた寝をしていた。まだ母親がいた頃、居間でうとうとしながら、炊事の音を聴いた時間を思い出した。まるで状況も、立場もちがうのに、どうしてそんなことを思い出したのだろう。つぐみが描く絵のことは葉にはよくわからないけれど、絵を描くつぐみのすがたを見ているのはすきだ、と思った。


久瀬くぜくんは、草木のお世話をするのがすきなの?」

「うーん、どうだろ。うち昔、庭に薔薇棚があったから、ふつうにしてたっていうのもあるけど……」

「薔薇棚……」


 深く考えずに口にしてしまったから、しまった、と思った。

 葉の家族の話なんて、つぐみにとっては聞きたくもないことだろう。


「とにかく、庭の手入れをするのはきらいじゃないよ。施設にいたときも、花の水やり係してたし、俺」

「係があるの?」

「うん。俺がしてたのはねー、花の水やり係と、おやつ係」


 話しながら、ふとつぐみの表情がいつもよりとろんとしていることにきづく。

 ごはんも半分くらいを残してしまっている。


「つぐちゃん、もしかして調子わるい?」


 気にかかって尋ねると、つぐみは瞬きをしたあと「ううん」と首を振った。


「へいき」

「そう?」

「ごはん残してごめんなさい。あした食べるからタッパーに入れておいて」

「あ、うん」


 箸を置き、「ごちそうさま」とつぐみはすこし唐突に立ち上がった。

 といっても、つぐみが夕飯のあとにすぐ離れに引っ込んでしまうのはいつものことなので、「おそまつさまでした」と言って見送る。つぐみが残したごはんは言われたとおりタッパーに詰めて、冷ましたあと冷蔵庫にしまった。



 夕飯の片づけをしたあとは、風呂に入り、風呂掃除も済ます。

 ほんとうは一番湯はつぐみに譲りたいところなのだが、つぐみは生活リズムがとにかくぐちゃぐちゃで、朝に入ったり、夜に入ったり、その都度時間が変わるので、自分が入ったあとに風呂掃除まで済ますことにした。風呂の水がもったいないけど、こればっかりはしかたない。

 風呂の折れ戸にわいたカビを撲滅しつつ、夕飯のときのことを思い出す。

 もしかして、今日のごはんはつぐみが苦手なメニューだったのだろうか。でも、焼き魚がきらいというわけでもなさそうだし。


 ――へいき? 風邪?


 脳裏に古い記憶がよみがえって、葉は手を止めた。

 熱っぽく潤んだ目をしたちいさな女の子が首を振る。六歳のつぐみだ。


 ――だいじょうぶだよ。

 ――……そう?


 あのときもほんとうはぜんぜん大丈夫ではなかったのだ。

 母屋の自分の部屋に戻るところだったのを、つぐみがいる離れのほうに向かう。普段、作品制作に使われている部屋は灯りが落とされていた。代わりにとなりのつぐみの寝室から微かなひかりが漏れている。


「つぐみさん、起きてる? 入ってもへいき?」


 外された襖の代わりに入口にかけられた珠のれんから中をのぞくと、つぐみはベッドのうえで力なく丸まっていた。頬が赤いし、息も苦しそうだ。ベッドのそばにかがんで額に手をあてると、それとわかるほどに熱い。


「やっぱり熱出してる……」

「……くぜくん?」


 手をあてられたせいで起きてしまったらしく、つぐみがぼんやりした声を出した。


「ごめんなさい、勝手に入って。つぐみさん、熱あるでしょう」

「ああ……」

「この家って、氷枕とか体温計とかある? 薬は?」


 つぐみはちいさく首を横に振った。


「どれもないの?」

「べつにいいから。解熱剤はのんだし、放っておけば勝手に治るから」

「放っておけばって……」


 投げやりなつぐみの口ぶりに戸惑って、返す言葉にこまってしまう。

 確かに枕元には市販の鎮静剤が置いてあったけど、まだ効いているようすはない。それに以前から思っていたけど、この子は自分の扱いかたがなんだか雑だ。


「久瀬くんがおしごとがんばるひとなのは、よくわかった」


 葉が黙ってしまったのをどう解釈したのか、つぐみは葉にとっては今そんな話しなくてよくない!?という話をしゃべりだした。


「でも、わたしのお世話をするのは君の仕事じゃないから。君はわたしの『夫』であることと、この家の家事をすることが主な業務で、それ以外はサービス残業にあたると思うし、わたしは君の雇い主として――」


 きゅむ、と軽く鼻をつまんだので、つぐみはびっくりしたふうに言葉を止める。


「な、なに、」

「おしゃべりはいいからもう寝る! いい加減怒るよ!?」


 額を軽くぐりぐりすると、つぐみはしばらくぽかんとしたあと、急に泣き出しそうな顔になった。


「怒ったの……?」

「えっ、わあー!? 怒ってない、怒ってないです! 泣かないで!?」

「今怒ったって……」

「怒ってないから。君がひとりで苦しんでて、それにぜんぜんきづかずにカビ退治を終えてすっきり眠りそうだった自分がいやだったんだよ」


 必死に言葉を尽くしたけれど、つぐみは熱でぼんやりしているのか、いまひとつ伝わっていない顔をしている。乱れていた布団をかけ直すと、「とりあえず保冷剤持ってくるからちょっと待ってて」と声をかけた。

 つぐみはなぜか切なそうな表情をした。


「もう戻ってこないの?」

「ちがうよ。戻ってくるよ」

「出て行くなら、三千万は持っていっていいから……」


 うわごとみたいにつぶやいている女の子に「戻ってくるから」ともう一度伝えて、部屋から出る。キッチンに戻ると、冷凍庫から保冷剤を取り出してタオルで包んだ。それと氷水とハンカチを用意する。ほんとうは近くのまだ営業してそうなドラッグストアに行って、氷枕とか市販薬を買ってきたいけれど、今家をあけると、つぐみがほんとうに不安がりそうな気がした。


「つぐみさん? ええと、また入りまーす……」


 珠のれんをくぐると、つぐみは力尽きてしまったようすで眠っていた。

 タオルで巻いた保冷剤を両脇に入れ、氷水に浸してしぼったハンカチを額に置く。

 それから、点けっぱなしだった照明具の灯りを落とした。

 常夜灯だけがともった橙色の薄闇の部屋で、つぐみのベッドの端に腕をのせる。無意識にか、つぐみが葉の手をぎゅっと握りしめてきた。

 あんなに遠ざけるようなことを口では言って、なのにどこにも行かないでほしいとでも言いたげに手を握ってくるのだ。

 その不器用なちぐはぐさが、ふいに子どもの頃の記憶につながる。葉の手をいつも命綱みたいに必死に握っていた女の子。あの子に手を握られると、なんでもしてあげたくなった。今も。波が寄せてくるようないとしさに駆られて、熱くてちいさな手を握り返す。

 はずみにつぐみの眦に溜まっていた涙がぽろりと頬に伝い落ちた。

 まるで花のふちでふるえる朝露みたいで、しばらく見惚れたあと、そっと拭ってあげた。



  *…*…*


 

 第一回契約更新会議は、つぐみの熱が下がってから一週間後にひらかれた。

 ちゃぶ台には葉がちょっとまえにコンビニで買い込んできた中華まんやチキン、カップデザートに新作ポテチ、サイダーが山のように並べてある。


「なんだかすごいね……」

「記念すべき一回目の会議なので、奮発してみました」


 圧倒されているふうのつぐみに、葉は胸を張る。

 つぐみは中華まんを食べたことがなかったらしく、半分に割った肉まんを渡すと、おそるおそる口をつけた。瞬きをしたあと、表情がほわっと崩れる。「おいしい?」と尋ねると、こくこくと何度も首を振った。


「そ、それでは、第一回目の契約更新会議をはじめます」


 気を取り直したようすでつぐみがきりっと開会を宣言する。


「この会議の目的は、契約結婚において生じるさまざまな問題を、双方協議のもと解決することにあります。君は雇用主であるわたしに対して、労働環境の改善を求めることができます。主旨は理解できましたか?」

「うん。つまり、こうしてほしいなとかこうしたいなってことをふたりで月一回話し合う会だよね?」

「……おおむね、それでいいと思います」


 すこし物言いたげだったが、つぐみはうなずく。


「それでは、さっそく議題に移ります。君のほうから何かありますか?」

「うん、言いたいことならいっぱいあります!」

「は、はい……」


 葉が前のめりになると、つぐみは気圧されたようすで身を引いた。


「言ってみて」

「まず、つぐみさんは調子がわるいときは申し出ること!」


 瞬きをしたつぐみに、さらに続ける。


「解熱剤は熱を下げるだけなので、それで済ますのはだめです! あと髪を濡れたままにしているのもだめ。風邪をひきます。お仕事で夜更かしするのはしかたないと思うけど、なるべく朝ごはんは食べよう? 理想をいえば、三食しっかり食べたい。そのぶん昼寝してもいいから」

「はい……」

「あと、できたらごはんは一緒に食べませんか。夕ごはんだけじゃなくて」


 勇気を出して誘ってみると、つぐみはこまったふうに眉尻を下げた。


「……いいの?」

「え?」

「わたしといるの、いやじゃないの?」


 思いもよらないことを訊かれて、葉はきょとんとする。

 葉がつぐみといるのがいや? どうしてそんなことを思ったのだろう。

 不安そうに手元に目を落としている女の子を見て、もしかして、ときづいた。つぐみがはじめずっと透明人間になったみたいに葉と会わないようにしていたのは、だからだったのだろうか。つまり、葉がつぐみをいやがっていると、つぐみは思っていたのではないかと。


「いやじゃないよ。君といるのはたのしいよ」

「嘘」


 即答され、思わずむむっとなった。


「決めつけるのはどうかと思いますー」

「……怒った?」

「怒ってないよ。わからずやで、かわいいなあって思っただけ」

「……っ!?」


 つぐみは目を大きくみひらいて、葉を見上げた。

 それから、ふるふると小刻みにふるえはじめる。頬が赤い。


「……君は言葉の選びかたがときどきへんだよ」

「そうかな」

「そう。か、改善を求めます……」

「はあい」


 わらいながら返事をする。

 つぐみはなんだか不満そうだったけれど、「それじゃあ」と話を切り替えた。


「今月の契約は更新で……いい?」

「うん。あらためてよろしくね」


 手を差し出すと、つぐみはすこしためらうそぶりを見せてから、そっと手を重ねてきた。


「よろしくお願いします。……あの、久瀬くん」

「うん?」

「コンビニのごはんもおいしいけど、わたしは久瀬くんがつくるごはんがいちばんすきです」


 ふいうちでかけられた言葉の破壊力にちいさく呻く。

 頬に熱が集まってきたのがわかったので、両手で顔を覆いつつ、「夜はなんでもつぐみさんがすきなものをつくります……」と降参するような気持ちで答えた。

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