《Prelude》 彼女と彼の新婚生活 (2)

 一か月後、ようが住むアパートのまえにかぼちゃの馬車ならぬ、軽トラックがやってきた。外から呼び鈴を鳴らされて、「はーい」と葉が出ると、ひっつめ髪をした五十代半ばの女性がぬっと現れる。つぐみの家でお手伝いさんをしている志津音しづねだ。


「お嬢さまから『結婚相手』の荷物を運んでくるよう言われたのですけど」


 葉を頭のてっぺんから爪先まで見渡し、志津音は息をついた。


「あなたですか……」

「す、すみません、俺で……」


 申し訳ない気分になり、つい謝ってしまう。

 しかしこのようすだと、つぐみは結婚の約束を忘れてはいなかったようだ。

 ボストンバックに詰められた三千万円を置き去りに、つぐみは十二時を過ぎたシンデレラみたいにいなくなってしまった。朝起きたとき、あまりの現実感のなさに、もしかして昨晩起きたことはぜんぶ夢だったのかもしれないと本気で信じたくらいだ。

 けれど、葉の部屋では何かのまちがいとしか思えない三千万円のおかげで、少なくとも彼女がここに来たのは嘘ではないと思い直す。とはいえ、この三千万円をどうしたらいいんだろう、とこまっていたときに現れたのが志津音だった。


「まあ、新手の家政夫みたいなものなんですかね」


 ひとりで納得して、志津音は葉に荷物をまとめるよう求めた。

 家賃二万五千円の安アパートは、家具や家電も歴代の借主が置いていってくれたものを使っていたので、葉に荷物と呼べるものといったら着替え一式と日用品くらいしかなかった。三千万円を詰めたボストンバックとあとひとつボストンバッグ、あとは冬用のコートくらい。


「……それですべて?」

「はい。あっ、でも冷蔵庫のなかに牛乳と卵と野菜が……」

「置いていきなさい」


 すげなく却下され、しかたなく隣室の住人に冷蔵庫の中身と保存食はプレゼントした。

 そのあいだに志津音は大家さんにてきぱきと葉の部屋を解約する旨と来月分までの家賃を支払う旨を伝えている。話がまだ見えないけれど、葉はどうやらつぐみが住む家に引っ越すことになるらしい。祖母といっていい年頃の大家さんは、びっくりしていたものの、「結婚おめでとう」と葉の手を握って涙ぐんでくれた。当人であるはずの葉のほうが置き去りにされて、「ありがとうございます……?」と首を傾げた。


「トラックを借りた甲斐がなかったわね」


 肩をすくめた志津音に「す、すみません」とまた謝りつつ、助手席に乗り込む。

 志津音が車のエンジンをかけた。


「あの、俺って……結婚するんですか?」

「なぜそれをわたしに訊くの?」

「いや、あんまりつぐみさんから説明されてなくて。俺はいったい何をすればいいんでしょう……」


 知らないバイトをあっせんされたような気持ちで、そわそわと尋ねると、「それはわたしではなく、お嬢さまに聞いてください」とまっとうすぎる返答が戻った。

 


 軽トラックをつけた先にあったのは、数か月ぶりになる洒脱な木造平屋だった。


「こ、こんにちはー」


 秋の陽が射したガラス戸をからりとあける。

 あたりまえだが、つぐみの出迎えはなかった。

 ボストンバッグふたつを肩にかけ、若干よたつきながら家に上がる。


「客間へどうぞ。わたしはお嬢さまを呼んできます」

「えと、はい」


 面接官を待つ応募者みたいな心持ちで、客間で正座をしてつぐみを待つ。

 ほどなくつぐみはやってきた。ひと月まえに会ったときよりもだいぶ顔色がよくなっていてほっとする。ただそれはあくまで顔色に限った話で、つぐみはあのときと変わらず張り詰めた顔をして、口もきつく引き結んでいた。まっすぐな長い黒髪は、装飾が少ないグレーのワンピースにかかっている。

 しばらく何かを考え込むような沈黙が続いたあと、


久瀬くぜくん」


 とつぐみがおもむろに口をひらいた。


「は、はい」

「わたしと結婚してくれるって言ったよね?」


 尋ねたつぐみに、「うん言った」と顎を引く。

 葉の返事につぐみはちいさくうなずき、すこし緊張を解いた。

 畳に置いていた書類を取って、葉のほうへ差し出す。


「じゃあ、これ契約書」

「けいやくしょ」


 あまり詳しくないけど、結婚のときに必要なのは契約書ではなく婚姻届ではなかったか。聞き間違えだろうか。


「結婚する契約」


 つぐみは念を押すように繰り返した。


「三千万円でわたしと結婚してくれるって言ったよね?」

「え? ああ……」


 そういえば、確かそんな話だった。


「契約に関する項目をまとめてみたから、一度読んで、疑義があるようだったら訊いて」

「あっはい」


 渡された書類は数ページに及んでいて、びっしり文字が書きこまれている。

 いちおう、つぐみに促されるまま目を通したものの、一行目の甲乙のあたりで心が折れた。葉にとっては読めない漢字が多すぎる。ぺらりと中をめくって、「これって君が作ったの?」と尋ねる。


「そうだよ」

「そっか」


 ならいいや、と思ってペンのキャップをひねってサインをしようとすると、


「ちょっと待って」


 びっくりしたふうにつぐみが声を上げた。


「読まないでサインするの?」

「でも、君が書いたことならなんでもいいかなって――」

「わたしがわるいひとだったらどうするのっ!?」


 真剣な顔つきで、つぐみが前のめりになって言う。わるいひとは自分のことをわるいひとって言わないんじゃないかなあ、と思ったけど、つぐみがあんまりこわい顔をしているので、「す、すみません……」と謝った。今日の葉は何かと謝ってばかりだ。


「でも、漢字難しくて読めないし……」

「……わかった。じゃあ、これからわたしが読み上げるから、わからないことがあったら訊いて」

「えと、はい」


 神妙な表情になってうなずくと、つぐみはほっと息をついた。


「まず、契約の概要を説明したあと、各条項を読み上げるから。そちらのほうがわかりやすいよね?」

「そうかも。つぐみさんはすごいね」

「そこは褒めるところじゃないよ……」


 葉は素直な気持ちを口にしただけなのだが、つぐみは困ったふうに眉尻を下げた。契約書を手に取ると、表情を引き締めて口をひらく。


「この契約はわたしが君に支払った三千万円と引き換えに、君はわたしと結婚するというものです。婚姻届は準備しておいたから、君がこの契約を受け入れてくれるようだったら、あとで署名をして」

「うん」

「契約にあたって、わたしから君に伝える主なお願いは三つです」


 はじめに、とつぐみは言った。


「性交渉は契約外。結婚生活を送るにあたって、わたしが君に性交渉を求めることはありません」


 最初からすごい言葉が飛び出したけど、つぐみがあくまで淡々と言っているので、ニュースとか天気予報でも聞いているような気分になる。それにつぐみにしたら、これは大切な確認事項だろう。


「うん、わかった」


 葉はうなずいた。

 つぐみには触れない。あたりまえだ。

 したくなったら外ですればいいだけのことだ。


「次に、結婚生活に関わる資金はすべてわたしが出します。代わりに、これまで志津音さんがしていた家事全般は君が担当して。食費をはじめとした家事にかかる費用は月初めに別途支給します。大きな買いものが必要なときは、随時わたしに確認を取って。正当性が認められるときは、追加で費用を渡します」

「うん、わかった」


 幸い料理も掃除も洗濯もすきだし、得意だ。

 金銭面でつぐみを頼るなら、すこしは葉も働かないと。


「最後に」


 それまでははきはきと話を進めていたのに、そこではじめてつぐみはためらうような間をあけた。所在なさげにさまよった視線が行き場を失くして手元に落ちる。


「……契約期間中は、わたしを愛してほしいの」


 瞬きをした葉に、「ふりでいいから」「契約している間だけでいいから」とぽそぽそと続ける。

 うんわかった、とこれまでとおなじようにうなずこうとして、すこしためらった。


(契約じゃなくても……)


 でもそれをなんてつぐみに伝えたらいいかわからない。

 しかたなくべつのことを口にした。


「つぐみさんはどうして俺と結婚しなくちゃいけなくなったの?」


 尋ねてから、あ、しまった、事情は聞かないって言ったのに、と思い出す。


「あ、言いたくないなら、かまわないんだけど……」

「――べつのひとと結婚させられそうになったから」


 つぐみは感情のこもらない声で言った。


「そのひととどうしても結婚したくなかったから」

「そ、そっか……」

「お金あげたら、君は結婚してくれるんじゃないかと思って」

「そう」


 つぐみは不安そうに葉をうかがった。


「……ほんとうに、わたしと結婚してくれる?」

「うん、するよ。そう言ったよ」


 おなじことを繰り返すと、つぐみはほっとしたふうにほんのすこし表情をゆるめた。

 つぐみが安心してくれてよかったと思うのに、葉はどこかで自分が落胆していることにきづく。

 つぐみが結婚させられそうになった相手はきっとつぐみが望む相手じゃなかったのだろう。どうしても結婚したくなくて、それで葉に助けを求めてきたのだ。お金をあげたら、葉ならきっといいよって言うから。それだけだ。ほんとうに、それだけだ。

 はじめからそんなことはわかっているのに、どうしてこんなに落胆してしまうんだろう。それ以外の理由で、つぐみが自分を選んでくれたかもしれないなんて、どうして期待しちゃったんだろう。だったら、はじめから「お金あげるから結婚して」なんて言われるはずがない。

 そのあと、つぐみが読み上げてくれる条項をぼんやりと聞いた。

 あんなにつぐみが真剣になってくれたのに、中身がぜんぜん頭に入ってこない。

 でも、べつにいいのだ。つぐみが作った契約書ならなんでも。たとえ、悪魔みたいなひどい契約でも、葉は喜んでいいよってうなずいただろう。つぐみが願うなら。


「じゃあ、生活の細かなことは志津音さんに聞いて」


 契約書にサインをすると、つぐみは二部のうち一部を葉に返し、腰を浮かせた。


「あ、つぐみさん」

「……なに?」

「えと、もう部屋に戻るの?」

「うん。ほかに何か訊きたいことあった?」

「訊きたいことは、ないです」

「そう」


 つぐみはすこしふしぎそうにしていたが、結局部屋から出て行ってしまった。

 客間にぽつんと残され、葉はつぐみが出ていった襖に目を向ける。

 もともと、デッサンモデルをしていた頃からつぐみは世間話をするような子じゃなかった。結婚といっても、契約上のものだから、葉とあらためて仲を深める必要もないのだろう。


(『新手の家政夫』……に近いのかも)


 はからずもここに来るとき、志津音がつぶやいていた言葉が今の葉を的確に表している気がした。


(新しいバイトをはじめたって、思うことにしよう)


 葉のためにつぐみは一生懸命、契約の説明をしてくれた。

 自分がわるいひとだったらどうするのって真剣に怒ってもくれた。

 つぐみはよい雇い主だ。なら、葉も誠心誠意、契約夫の仕事をしないと。



 *…*…*



 こうしてはじまった契約夫のバイトに、葉は一週間で順応した。

 何しろ、小学生の頃からひとの家に転がり込むのを繰り返すような人生を送っている。どこでも苦なく眠れるし、誰と生活するのもだいたい合わせられる。

 朝は雨戸をひらきながら、各所の扉がきちんとあいているのを確認したあと、草木の水やり、洗濯、朝ごはんの準備。といっても、制作にあわせて昼夜めちゃくちゃなリズムで生活しているつぐみが、朝ごはんの時間に現れることはない。

 昼ごはんも、夕ごはんも同様だった。それは志津音の引継ぎでも言われていたことで、つぐみのごはんは基本的に冷蔵庫にタッパーで保存しておけば、自分でレンジで温めて適当に食べるそうだ。


 朝の家事が終わったあとは、庭の手入れや各部屋の掃除、あとは古くなってガタがきていた建物のあちこちを直して過ごした。

 昼ごはんをひとりで取ったあと、午後はスーパーで買い出し、夕ごはんづくり。ちなみに、はじめいちばん困惑したのが洗濯物の扱いで、下着類が……ふつうに洗濯機に入っていらっしゃったので……これは俺が干したり畳んだりしていいんでしょうか……とびくびくしながら干したり畳んだりしていた。途中でつぐみがきづいてくれたようで、出てこなくなったため、ちょっとほっとした。


 夕ごはんは作り置きしやすいものをタッパーに入れるか、あとは鍋に入れておき、テーブルにお皿と一緒に、何分温めるといいかメモを置いておく。

 そうすると翌朝には洗われたタッパーと「おいしかったです」と端正な文字で書かれたメモが戻ってくる。

 つぐみはおもに葉が眠ったあとに、ごはんを食べたり、お風呂に入ったりしているらしい。意図的にそうしているのだろうか。日中、この家でつぐみと顔を合わせることはほとんどなかった。つぐみが寝起きをしているはずの離れはいつだってひっそりと静かで、まるで透明人間と暮らしているみたいだ。


 今日のメニューは、里芋とぎんなんと牛肉の煮物、めかぶをのせた豆腐、デザートは梨のコンポートだ。梨がおいしい季節だけど、切っておいてもつぐみがいつ食べるかわからないので、コンポートにしておいた。

 いつものように、ちゃぶ台でひとり手を合わせて、煮物に箸をつける。


「……っ!」


 これはすごくおいしくできた気がする。

 クリーニング屋の美雪みゆきちゃんがぎんなんを分けてくれたとき、レシピも一緒に教えてくれたのだ。


(あした御礼言いにいこ)


 ちょっとうれしい気分になって箸を進めつつ、ずっと空席のままの対面に目を向ける。

 ここに来たばかりの頃、外で鳴いていた秋の虫は、近頃はおとなしくなり、夜の風の音が時折するくらいになった。二週間が経った。初日に契約の説明をしてもらったとき以来、つぐみの声は聞いていない。顔を合わせてもいなかった。

 箸を止めて、障子戸の向こうに目を向ける。

 ほのかな窓の明かりが離れから庭に漏れていた。

 あの子は今どうしているんだろう。

 デッサンモデルのバイトをしていた頃は、一時間というタイムリミットはあったけれど、つぐみの顔が見れたし、短い時間だが言葉を交わすこともできた。今はおなじ家に住んでいるのに、あのときよりなんだかつぐみが遠い気がする。とはいえ、ほぼ家政夫の分際で、雇い主としゃべりたがっても困惑されるだけだろう。


(つぐみさんはなんで俺を雇ったんだろう)


 冷めてしまったお味噌汁を啜りつつ考えていると、部屋の外の廊下が微かに軋む音がした。


「あっ」


 廊下に突っ立ったつぐみが驚いたようすで身を引く。


「ご、ごめんなさい。いると思わなくて……」


 作業中だったらしい。つぐみはトップスとガウチョパンツのうえに白いスモックをかぶっていた。頬に顔料がくっついている。また寝ないでずっと作業をしていたのだろうか。


「あの、お水をもらいにきただけだから。すぐ……」


 この家のあるじはつぐみのほうなのに、なぜかそわそわと不安そうにしている。


「お仕事ずっとしてたの?」

「うん」


 立ち上がって、キッチンでコップに水を注ぐと、「はい、どうぞ」とつぐみに渡してやる。

 つぐみは宝ものでも受け取るみたいに両手でコップを包んだ。俯きがちになったまま、口をひらこうとしては閉じるのを繰り返す。そして心を決めたふうにきりっとした表情で顔を上げたとたん、ぐー……とおなかが鳴った。


「え? あっ」


 それが自身が立てた音だと遅れてきづいたらしく、みるみる林檎みたいに頬を染める。


「……今、何か聞こえた?」

「えっ、いや……。ごめんなさい、聞こえました」


 聞こえなかったふりをしようとしたものの、嘘が下手なのですぐに白状してしまう。

 つぐみは唇をふるわせ、なんだか泣きそうな顔をした。短いあいだに百面相をしているつぐみがかわいくて、思わず頬が緩んでしまう。


「どうしてにこにこしてるの?」

「それは君が……。ええと、あっ、つぐみさんももしよかったら、一緒にごはん食べませんか?」


 煮物はまだ鍋のなかに入っているので、すぐに温め直せるだろう。

 おそるおそる提案すると、つぐみは目を大きく瞠らせたあと、「はい……」と消え入りそうな声でうなずいた。

 ちゃぶ台に並べていた皿をすこし寄せて、つぐみのぶんのごはんを置く。

 つぐみはかしこまったふうに正座をしていたが、「どうぞ」と葉が声をかけると、いただきますをした。

 お箸を取って、まずお味噌汁から口をつける。

 きれいな箸遣いでごはんを食べる女の子に、子どもの頃、ほんの三週間だけ一緒に暮らしたあの子が重なった。胸にじんわりあたたかなものが満ちていく。うっかり涙ぐみそうになってしまい、残っていたごはんをかきこんだ。


「おいしい?」

「うん」


 しっかり返事をして、つぐみは里芋の煮物を箸で割る。


「あの、まえに作ってくれた茄子の……」

「あ、南蛮漬け?」

「それ、おいしかった。あとかぼちゃのグラタンも……」


 つぐみは思い出した料理をぽつぽつ口にしてくれる。

 覚えていてくれたんだ、と思うと、また胸がぽかぽかしてきた。


「でも、そんなにがんばらなくていいから」


 続いたつぐみの言葉の意図をとっさにはかりかねて、葉は瞬きをする。


「家事をしてほしいって言ったのは、最低限のことをやってくれればいいって意味で……ごはんもお掃除ももっと適当でもいいし……。この家にも無理していてくれなくていいから」


 しどろもどろになって言葉を連ね、つぐみは最後には俯いてしまった。

 つぐみにはこういうところがある。ちょっと強引なくらいに無理やり手を伸ばしてつかんできたあと、急におびえた子どもみたいな顔をしてその手を離すのだ。どうしてほしいのか、葉にはよくわからなくなる。言うことを聞いてほしいのかほしくないのか、そばにいてほしいのかほしくないのか、結婚してほしかったのか、やっぱりなかったことにしてしまいたいのか。


「俺は無理はしてないよ」


 すこしのあいだ考えていたけど、やっぱりわからなくて、結局自分の気持ちを素直に口にすることにした。


「ごはんを作るのは俺の趣味みたいなものだし、掃除をするのも草木のお世話をするのもどれも好きで楽しいから。でも、つぐみさんがあんまりしないでほしいって思ってるなら、もうすこし控えます」

「そんなこと思ってないよ!」


 つぐみはあわてたふうに首を振った。


「久瀬くんのごはんはいつもおいしいよ。いっぱい食べれちゃうから、びっくりして――」


 言っている途中で恥ずかしくなってきたのか、つぐみは一度口を閉ざす。


「いやなことなんてないよ。久瀬くんがしてくれることでいやなことはひとつもない」

「ならよかった」

「……久瀬くんのごはんはおいしいです」


 一生懸命気持ちを伝えてくれているのがわかったので、つい笑みがこぼれた。


「ありがとう。いつも書置きしてくれたよね」

「うん」


 つぐみは頬を赤らめたまま、中断していたごはんを食べはじめた。

 つぐみが考えていることは葉にはわかりづらい。でも、少なくともこの子が葉をうとんでいるわけじゃないらしいことはわかる。だって、もしそうだったら、ごはんのたびに御礼のメモをつけて返すわけがない。それにつぐみは葉が作ったおかずをちゃんと覚えてくれていた。


「あのさ、つぐみさん。もしよかったら、なんだけど」

「うん」

「夕ごはんは一緒に食べませんか。できたら、ここで」


 驚いたふうに顔を上げた女の子が目を輝かせる。笑みがこぼれそうになったが、すぐに我に返ったのか、つぐみは表情を引き締めた。


「はい」


 その声がわずかにはずんでいるように感じたのは、きっと葉の気のせいではないはずだ。 

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