《Prelude》 彼女と彼の新婚生活 (1)
――俺の四畳半の部屋には今、明らかにそぐわない女の子がいる。
「ええと、とりあえずこのタオル使って」
髪からぽたぽたと水滴を落とすつぐみにバスタオルをかけ、さらに新しいタオルを持ってくる。長いあいだ雨に当たっていたらしく、つぐみのワンピースは濡れそぼち、膚も蒼褪めていた。
「あっ、着替え! 着替え必要だよね? 着替え……」
あいにく
「じゃあ、俺は外に出るので! あ、ドアは閉めないから、着替え終わったら呼んで」
夏服のワンピースはつぐみにぺったりくっついて、細い輪郭や膚色が透けて見える。あんまりじっと見ているのもまずい気がして、なるべく視線を合わせないように部屋の外に出た。ドアの隙間にスニーカーを挟んだままであることを確かめ、ずるずるとしゃがみこんだ。はー、と深い息をつく。
――おねがい
突然、そんなことを言ってきたつぐみに、「わかった。いいよ」と返事をしたのがすこしまえ。
びしょ濡れだった彼女を部屋に上げ、玄関に散らばっていた万札はボストンバッグのなかに片付けた。肘にくっついていた一万円札にきづいて剥がしつつ、なんだかへんな状況になっているような……と首をひねる。
たとえつぐみが何を願っても、葉は「いいよ」と答えた気がするけど、結婚って具体的に何をするんだろう? それとも葉が考える結婚とつぐみが考える結婚は実はちがうのだろうか。扉のまえで、うーんとひとり考え込んでると、細く開いたドアの向こうから、こちらをうかがう微かな気配がした。
「あ、着替え終わった?」
玄関に突っ立っているつぐみが見えたので、ドアを開ける。
絶対そうなると思っていたけど、葉にとってジャストサイズのTシャツは、つぐみにはほとんどシャツワンピースになっていた。所在なさげに俯いているつぐみからバスタオルを取ると、軽く髪を拭いてやり、「ごはん、食べる?」と尋ねる。
つぐみはわずかに顎を引いた。ボストンバッグをひっくり返して札束をどさどさ落としたときは、異様なくらいの切迫感があったけど、今は不安そうにずっと下を向いている。結婚って具体的に何をするのか聞きたかったが、やめておいた。つぐみが落ち着いてからでよいだろう。
今日ひとりで食べる予定だった味噌煮込みラーメンを二玉に増やし、冷蔵庫に残っていた野菜もざくざく切って鍋のなかに放り込む。煮込んだら、最後にかき卵を投入。葉の適当ごはんの定番だが、果たしてつぐみ相手に出してよいものだったのか、完成したあとに悩んだ。もうすこし手の込んだものも作れなくはないのだが、そもそも冷蔵庫にあまり食材が入っていない。葉は基本的に常に金欠である。
「ええと、ラーメンでよかった……?」
「らーめん」
「食べたことある?」
「……食べかたは知ってる」
つぐみは葉が置いたラーメンに目を向け、いただきます、とつぶやくと、箸を取った。頬にかかっていた髪を耳にかけ、きれいな所作でつるつると食べる。静かな食べかたがラーメンというよりパスタだったけど、べつに気にする性格でもないので、葉もちいさく手を合わせ、いただきますをした。ずるずると音を立てて麺を啜りつつ、ちゃぶ台の対面に座るつぐみをこっそりうかがう。
葉が住む築五十年の木造アパートから、つぐみは存在ごと浮いていた。
くたびれたシャツを着て、ちゃぶ台でラーメンを食べているのに、目を伏せたつぐみにはなぜか気品があり、彼女の周りの空気だけは居住まいを正して見えるのだ。
つぐみは一向に帰る気配がないが、どこかに連絡を入れたほうがいいのだろうか。
家族とか……と考えてから、この子はあの木造平屋にひとりで住んでいたのだった、と思い出す。だったらせめてお手伝いさんの
(まあなんでもいいや)
おなかがあたたかなもので満ちていくにつれて、ごちゃごちゃと考えていたことはどれもどうでもよくなってきた。部屋を訪ねてきたとき、つぐみは今にも死んでしまいそうな、切迫した表情をしていた。すこしでも気が休まったならそれでいい。今、何が起きているかより、つぐみが安心してごはんを食べられていることのほうがずっと大事だ。少なくとも葉にとってはそうなのだ。
煮込みラーメンを食べ終えると、窓の外は暗くなりはじめていた。
つぐみが眠たそうにしているので、布団を敷いてやる。
「でも、これ久瀬くんの……」
ためらいがちに首を振ったつぐみに、「あっ、えーと、俺はあっち……あっちに寝室あるから」ととっさに嘘をついた。
あいにくトイレと風呂すら共同の格安アパートに別の寝室などない。でも、つぐみは信じたようすで、ほっとしたふうに布団のうえに横になった。ほんとうに疲れきっていたらしい。葉がタオルケットをかけているあいだに、すぅ、と寝息が立つ。
あまりに無防備な女の子に、葉のほうがひやひやしてしまう。
もし葉がわるいやつだったら、どうするつもりだったんだろう……。
実際の葉はつぐみに指一本触れられないどころか、つぐみの寝顔を眺めているのすら恐れ多い気がして、なるべく目をそらしつつ、壁のしみを端から数えていたりするのだけど。
つぐみが抱える事情を考えると、部屋のドアは閉めないほうがいいだろう。この部屋から自力で出られなくなってしまうし、きっとその状況自体がストレスになるはずだ。
泥棒がこのオンボロアパートを標的にするとは思えなかったけれど、念のため、葉は朝まで起きていることにしよう。考えてから、どうなるんだろうこれから、とさっき一度は打ち切った問いが再び頭に浮かんだ。つぐみはずっとここにいるんだろうか。結婚って何をすればいいんだろう。よくわかんないや……。
すぅすぅと規則正しく立つ寝息に、葉のほうもつられてまどろんでくる。
布団のうえですこし身体を丸めて眠るつぐみは、なぜか安心しきっているようすで起きる気配がない。
頬に流れる髪がちいさくひらいた唇にかかっていた。髪をよけてあげたい衝動に駆られて手を伸ばしかけ、すんででぱっと止める。
……眠っている女の子に勝手に触れるのはルール違反の気がする。
とくべつ紳士的な性格でもないのに、つぐみをまえにすると、どうしてもそんな気持ちに駆られてしまうのだ。
「内職しよ……」
あまりつぐみを見ているのもよくない気がしたので、短期バイトのひとつであるお菓子のラベル貼りをいそいそとはじめる。
しばらくは集中していたのだけど、そのうちうっかり眠ってしまったらしい。
朝、ちゃぶ台に突っ伏すかたちで目を覚ましたとき、すでに部屋からつぐみはいなくなっていた。
葉の肩にはつぐみにかけていたはずのタオルケットがかけられており、ちゃぶ台のうえにはつぐみの端正な字で「ありがとうございました。ラーメンおいしかったです」という書き置きが残されていた。
まるで夜の十二時でいなくなるシンデレラみたいだ。
四畳半の部屋には、硝子の靴の代わりにボストンバッグに詰められた三千万円だけがぽつんと置き去りにされていた。
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