三 旦那さんと伝えたい言葉のありか (2)
「なんだこれ……」
スマホに表示されている記事を何度も読み返す。三回読み返したところで、
「帰る。俺」
「っておい、葉――」
めずらしく
部室を飛び出して、ごちゃごちゃ荷物が置かれた階段を二番飛ばしで駆け下りる。身体から音を立てて血の気が引いていっているのがわかる。その一方で、頭にはかーっと血がのぼっている。血の気が引いたり、血がのぼったり、体内の血圧がぐちゃぐちゃだ。でも、怒っている。葉は今、猛烈に憤っているのだった。
大学の構内を出たところで、スマホの履歴をたどってひとつの番号を呼び出す。何コールでも相手が出るまでかけ続けるつもりだったけれど、意外にも三コール目で叔母は出た。
『はい、
「ふっっざけるなよ!!!」
自分がこんな乱暴で荒い声を出せることに葉はびっくりした。
『は? なによ、いきなり。……葉?』
「俺だよ。見た、記事。なにあれ」
以前、喫茶店で五百万円の援助を断ったら、葉の素性を周囲にばらしてやると叔母は脅してきた。つぐみが
『記事って? なんのこと?』
「だから、つぐみさんの」
どうしてしらばっくれるんだろうとイライラしながら言い募る。
『なんのことよ。いきなり電話かけて、怒鳴りつけて、あなたなんなの?』
電話越しに叔母がキーボードを打つ音が聞こえた。
あー、と平坦な声が漏れたあと、ふふふっとなぜかわらわれる。
『あなた、なにこれ、まさかわたしが書いたとでも思ったの?』
「だって――」
『短絡的』
相変わらず氷の刃みたいに容赦がない声だった。
『こんなの、三下の記者でもすこし調べればわかるわよ。すごいじゃない、つぐみさん。年明けにクリエイターの登竜門の特別賞?だかなんだか、獲ったんでしょう。あの子の絵本作家との対談記事、わたしも見た。今、注目度ナンバーワンのクリエイターなんですって? あなた、すごい子を引っ掛けたじゃない。この先、苦労しないで食べさせてもらえるよ』
勢いに任せて叔母に電話をかけたことに早くも後悔してきた。
このひとの言葉はどうしてこうも悪意に満ちて葉をえぐるのか。
『こんなこと、この先もいくらでもあるわよ』
叔母は退屈そうに言った。
『注目されるってそういうことでしょう。これくらいで動揺してるなら、あなた、あの子と別れたほうがいいんじゃない?」
「そんなの――」
『とにかくわたしは関係ない。自分の周りの悪意をなんでもかんでもわたしに結びつけるのはやめて。わたしはそこまで暇じゃない』
葉が口をひらくまえに通話はあちらから切られた。
氷のつぶてみたいな言葉をどかどか投げつけられたせいで、かっとなっていた頭が逆に冷えてくる。確かにとっさに叔母だと思い込んで電話をかけたけど、もし叔母だったら、絶対葉の素性までたれこんだはずだ。記事はつぐみが百年以上続く名家の生まれであることや、十三年前の誘拐事件の被害者であること、事件を境に引きこもりになり、そうして「花と葉シリーズ」が生まれたことなどが憐れみたっぷりに書かれていたが、葉の話はどこにも触れられていなかった。
そこまで考えてから、肝心のつぐみ自身が頭からすっぽ抜けていたことにきづく。
あの子は記事のことを知っているのだろうか。
つぐみの電話番号を呼び出し、通話ボタンを押しかけてから、ためらう。
基本的にあの子は制作に集中しているときはほとんどスマホを見ないし、パソコンもひらかない。まだ知らないかもしれない。知らないなら、知らないままでいてほしい。でもあの子のこと、やっぱり心配だ。とはいえ、つぐみのそばには今
電車で家に帰るあいだも悶々として、スマホでときどき、くだんの記事の拡散具合とかを確認してしまう。べつに芸能人でもないので爆発的に拡散されたりはしないけど、じわじわとひろがって、つぐみに対する同情とか憐れみのコメントがついているのを見かけては胸を痛めた。知らないひとから憐れまれて喜ぶ人間なんて少数派だろう。つぐみの目に入るまえに掃除機をかけておけたらいいのに。
なによりつぐみはあんなにちいさな身体いっぱいで闘って絵を描いているのに、数行でかわいそうな過去みたいなかんじで半生をまとめる雑さに怒りが湧いた。だれもわかっていない。あの子がずっとドアをあけられないで苦しんできたこと。でも、葉をゆるして、葉を想ってくれたこと。絵を描いてきたこと。おやじの墓にまで来てくれたこと。墓前で真剣な顔で長いあいだ手を合わせていたこと。でも、葉も――葉もつぐみの気持ちぜんぶなんかわからない。いつもつぐみの心の片端はわからなくて、こわくて、せつなくて、いとしい。
しばらく悩んで、結局夜になってから葉はつぐみに電話をかけた。
つぐみのスマホは八割がた死んでいるので、つながらないかも……と期待は薄かったのだが、七コール目で「はい」とつぐみが出た。
「あ、つぐみさん?」
『うん。どうかした?』
いつもと変わらない落ち着いたその声に、ほっと胸をなでおろす。
「えと……あ、今ってどこにいるの?」
なにから話したらいいのか、あるいは話さないほうがいいのかわからず、葉はとりあえず無難な質問をした。つぐみの息遣いの向こうに波音が聞こえる。青浦礼拝堂がある鎌倉の海だろうか。
『夜の浜を散歩してる』
「ええっ、あぶないよ!?」
とっさに大きな声を出すと、『だれもいないよ。だいじょうぶ』とつぐみはわらった。誰もいないから心配なのだけど、あんまり心配するのも逆に不安にさせそうな気がする。
『すこし離れたところに鮫島さんがいる。ノートパソコンを出して仕事してる。だいじょうぶだよ』
「そ、そっか……」
鮫島がそばにいると聞いて安堵した。
葉は庭に面した縁側にいた。雨戸を閉め忘れていたせいで、冷気で曇ったガラス越しに冬の夜空と高い位置で輝く月が見える。ここからは海はとても遠くて見えない。この月をつぐみはおなじように見上げているのだろうか。
「あのさ……」
記事のことを言うべきか悩んだ。でも、へんなところから聞かされるよりは自分が言ったほうがいい気がして口をひらく。
「あの、今、君のことが記事にされてて、その、昔のこととか」
『ああ』
つぐみは特段驚いたふうでもなくうなずいた。
『さっき鮫島さんに見せてもらった。……君も見たの?』
「あ、うん。駄菓子研究部のひとが教えてくれて」
『そう』
「……落ち着いてるね」
『だって、事実ではあるし』
つぐみの声は、冬の湿度のない風のようだ。
『でも、ひとのことを勝手に暴くのはおかしいから、鮫島さんが今、わたしの代わりに記事元に抗議のメールを送ってる。できるようなら削除してもらうつもり』
「そっか……」
『君は不安?』
尋ね返され、一瞬言葉に詰まった。
……不安。不安だ。
記事を見たとき、気が気じゃなかった。つぐみの過去を勝手に暴いて雑にまとめられたのにも腹が立ったけれど、もし記事の言及がつぐみの「今」にまで及んでいたら。誘拐犯の息子と結婚して生活しているって知られたら。つぐみに向けられる眼差しは同情と憐れみだけじゃなくなる。もしものことを考えると、胃がキリキリと痛くなってくる。この子が築き上げてきたものを、自分の存在がめちゃくちゃにしてしまったらどうしよう……。
つぐみと結婚したときに、一度は通過した迷いがまた噴き上がってくる。あのときはどうせ半年か、長くても一年か二年で別れるとどこかで思っていた。だから、なにもこわくなかった。でも、ずっと一緒に生きていくとなるとちがう。
脳裏に、ハルカゼアートアワードの授賞式でスポットライトの下で拍手を受けていた女の子が浮かんだ。あれはつぐみが、つぐみの力で手にしたものだ。再会した頃の、蒼白い顔をして家にひきこもっていた女の子とはちがう。
「あの、やっぱり……」
契約はここでおしまいにしたほうがいいんじゃないか。
つぐみの人生がめちゃくちゃになってしまったら、三千万円を返しても、取り返しがつかない。なんだかおそろしくなってくる。とても背負いきれない。ちがう。俺は背負いたい。でも、君にそれも背負ってくれなんてとても言えない。だって、つぐみの人生は輝きだしたばかりで、つぐみの周りにはこれからもたくさん魅力的な人間たちが集まってくる。つぐみのほうにだって選ぶ権利はある。
「やっぱり……」
『もう契約はやめたい?』
考えていたことを見抜かれた気がして、葉は息をのんだ。なにも言わなかったけれど、そのわずかな間でつぐみは何かを察したようだった。
『……ごめんなさい。リスクと金額が見合ってなかったと思う。こうなるともう三千万は安いよね』
「ち、ちがうよ。そんなことを言いたいんじゃない……」
『じゃあ、わたしといるのがいやになった?』
問いかけられた言葉に、こめかみの奥が刺すように疼いた。
ちがうよ……と息を吐くのと一緒につぶやく。声に力がこめられなくて、たぶんつぐみの疑念を完全に打ち払うことはできなかっただろう。
電話越しに微かに漏れる息遣いに耳を澄ませる。つぐみの顔が見えないのがもどかしい。怒っているのか、泣きそうなのか。顔を上げているのか、うなだれているのか。でも、どんな顔をしていても、いやになったりなんかしない。
「ねえ、今そっち行ったらだめ?」
顔が見たい。目と目を合わせて話がしたい。
時計は夜十時過ぎを指していたけれど、あしたはバイトがないし、今から車を飛ばせば、明け方には青浦礼拝堂にたどりつけるだろう。車の鍵を取りつつ尋ねると、『えっ』とちょっと動揺したような声がスマホ越しに返り、沈黙が数秒続いた。
『そ、それは、だめ……』
「なんで? あ、制作が忙しい?」
『そうじゃないけど……葉くんを見たらほっとして、が、がんばれなくなっちゃうから』
さっきまでの毅然としたようすが嘘のようにふつうの女の子みたいなことを言い出す。ごちゃごちゃと頭を悩ませていたことが一瞬どこかにいって、あたたかな気持ちがあふれだす。だって、葉は知っているのだ。つぐみはいつもきりっとするのをがんばっているだけの、ふつうの女の子だ。きっとこの子は、難しい話をしているあいだも、こぶしをぎゅっと握って声がふるえないようにがんばっていた。
「じゃあ、完成したら、いちばんに会いに行っていい……?」
答えが見えない。でも話がしたい。君と話がしたい。
葉の問いかけに、『うん……』とつぐみがうなずいた。
『わたしも君と話したい』
そのとき、外からピンポーンと間の抜けたインターホンの音が鳴った。
こんな夜更けにいったい誰だろう。
「あ、じゃあ、また電話かけるから」
最後はあわただしく電話を切って、葉はもう一度インターホンを鳴らす玄関のほうへ目を向ける。
(……遅すぎる宅配とか?)
怪訝に思いつつ、足を向けようとしてから、はっとべつのことに思い至る。
もしかしてつぐみの半生を雑にまとめやがった記者だったらどうしよう。ついに家にまで押しかけて来たとか? うわーどうしよう、と葉はおろおろした。こういうとき……こういうときは夫として闘う!? 追い返す!?
とりあえず、いそいそと台所からこの家でいちばん強度がありそうなフライパンを持ってきた。呼吸をひとつして、人影がたたずんでいるのが見えるガラス戸をえいっと引きあける。
「つぐみさんなら、今いませんので! どうぞお帰りくださいっ!!」
フライパンで殴る勢いで畳みかけると、振り下ろしかけた手を半ばで止められた。
「フライパン……」と相手は呆れたような声を出し、「俺だ」と言って手を離す。
玄関灯に照らされていたのは、私服でもしゅっとしてぱりっとした――
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