三 旦那さんと伝えたい言葉のありか (1)

 ――この絵を描き上げたら、君に伝えたいことがあるの。


 引き戸の向こうから、白い息を吐きながらつぐみに告げられ、ようは目のまえが真っ暗になった。だって、これはもうどう考えたって――


(離婚では?)


「ちがうよ」


 葉の頭のなかを読んだみたいなつぐみの言葉に「えっ」と瞬きをする。


「君を捨てるとか、そういう話じゃないよ」

「ど、どうして……」

「君が今そんな顔をしていたから」


 そんな顔ってどういう顔だろう。

 頬をむにむにとこねまわしていると、つぐみはなぜか不機嫌そうな顔をしてちかづいてきた。葉の手を握り、すこし背伸びをして頬にキスをしてくる。かすめていくとき、長い髪がふわりと葉の首筋を撫でるのが、かわいいのに色めいていた。恥ずかしがりやのつぐみは自分からはめったにキスをしないので、葉はびっくりしてしまう。


「今日は二十一日だから……」

「え? ああ……」


 キスの日のことか、と合点がいく。最近、キスの日はまるきり無視して、すきなときにキスをしていたから、すっかり存在自体を忘れていた。あれはいちおう、まだ生きているのか。


「君はなにもしないの?」

「し、したいですけど」


 つぐみは疑わしげに眉根を寄せてから、葉を見上げたままの恰好で目を閉じた。

 肩に手を添えると、びくっと両肩が手のなかでふるえる。それでも、絶対に逃げないで、いつも必死に平静でいようとがんばっているつぐみがとてもかわいいと葉は思う。それは葉だけが知っているつぐみのかわいいところで、ほかの誰にも教えてあげたくないし、ずっと自分だけがひとりじめしていたい。

 額にかかった前髪をすこしのけて、くちづけしようとしていたら、


 ――プップー!


 塀の外からやや控えめなクラクションが鳴らされた。

 いつまで待たせるんですか、という鮫島さめじまの無言の抗議である。玄関にいる葉とつぐみが塀の外の鮫島から見えるわけがないけれど、何もこんなにタイミングよく鳴らさなくたって。


「あ……」


 きづいたつぐみがぱちりと目をひらく。意識がそれたことにやきもきして、つぐみの手を軽く引っ張った。唇が重なる。手を引きつつくちづけたので、すこしずれて、またくちづけし直すと、そのはずみにどんどん深まっていく。

 ふつうに額にくちづけて、いってらっしゃいのキスをするつもりだったのに、ぜんぜんちがうことをやっている。つぐみといると、こういうことがほんとうに多い。でも、「なにもしないの?」はずるい。したいし、額にくちづけて済むわけがない。


「も、もうおしまい。ハウス! ハウス!」


 おうちに戻りなさい、と家のなかをつぐみが示す。しつけがなっていない犬扱いで、葉はむくれた。


「してって君が言ったのに」

「ちが……わたしはしないの?って訊いただけだから!」

「ずるいー」


 不満げな顔をすると、「とにかく」とつぐみはきりっとし直して、キャリーケースの取っ手をつかんだ。


「帰ったら、君に話したいことがあるから。待ってて」

「……それは今じゃだめなの?」


 つぐみがいないあいだ、ずっと気になってしまうから、言うならさっさと言ってほしい。捨てるんじゃなくても、別れるとか離婚とか。ほとんど捨てると同義の気もするけど……。

 つぐみはほんのすこし悩むようなそぶりをしたが、ふるふると首を振った。


「い、今は無理……」

「どうして?」

「だって……そんな、ここじゃ言えないよ……」


 頬を染めて、泣きそうになって言うので、さすがに追及はあきらめた。つぐみの涙に葉はとても弱い。


「でも、その、ほんとうに捨てるとかじゃないから。君のことがわたしは大切だから」


 ――プップップップー!


 ついに鮫島の忍耐力が切れた。

 外に止めてあるポルシェに目を向けると、「じゃあ――」とつぐみはキャリーケースの車輪を鳴らして、小走り気味に葉から離れていった。



 つぐみは最近、力強く輝く鳥のようだ。

 きづくと、葉のそばから離れて、どこへでも飛んでいってしまう。この子はこんなに大きくて力強い翼を持っていたのだと、葉は地上からぽかんと見上げてしまうかんじだ。喜ばしいことなのに、ちょっぴりさみしい。

 カレンダーに三日目の×印を入れ、つぐみがいなくなってがらんとした部屋の雨戸をあける。つぐみがいないと、家中のドアの開閉の見回りも必要なくなるのだが、習慣としてやってしまっている。

 いつもなら、このあとに庭木の手入れをして、家事の最中に考えていた「今日のつぐみさんの朝ごはん」の準備に取りかかるのだが、今朝は自分ひとりなので、パンに目玉焼きでものせておけばいいや、という適当具合である。基本的に、ひとりのときは普段の五割減くらいで料理が適当になる自覚がある。


「ううう、まだ三日目かー……」


 さすがに庭の手入れや掃除はやっているけど、三食分の料理が手抜きなので、バイトがない日は一日畳のうえでごろごろしてしまう。つぐみがいないと、葉はぜんぜんだめだ。早く帰ってきてほしいけど、つぐみが「伝えたいこと」の中身がわからないので、ちょっとこわい。

 つぐみは七日ほど留守にすると言っていた。結婚してから、つぐみがこれほど長く家をあけたことはない。というか、夏に鹿名田かなだ家に帰ったとき以外で外泊をしたことがない。


 ――青浦礼拝堂の絵は、君をモデルにしない。


 あの絵は、はじめからいつもとようすがちがっていた。

 下図を描いていた段階で、つぐみからそうはっきり宣言されたのだ。

 確か、ピリカをうみねこ園に送り届け、おやじの墓参りを一緒にして帰った数日後のことだ。以前から、いつかつぐみのモデルをクビになる日が来るかもしれないとは思っていたけど、正直もうすこし先だろうと油断していたので、葉は背後から頭を殴られたような衝撃を受けた。

 もちろん、つぐみが描く絵はいつだってつぐみの描きたいものであるべきだ。自分を描いてほしいと葉がつぐみに願うのはちがう。でも、やっぱりショックは受けてしまって、「じゃ、じゃあ……」と葉はぽそぽそとつぶやいた。


「あの、じゃあ、代わりにだれを……」


 訊かれてはじめて考えたというふうに、つぐみは首を傾げた。


「確かにあれ、だれなんだろう……?」

「え」

「ごめん。わたしにもよくわからない」


 ――だれ!?


 葉の脳裏には、ハルカゼアートアワードの授賞式に行ったときにつぐみのそばに群がっていた有象無象が浮かんだが、ほんとうに誰だか見当がつかなかった。そうこうしているうちに、つぐみは「今回は礼拝堂のそばで完成作業をしたい」と言い出し、キャリーケースに画材を詰めて家を出て行ってしまった。


 思い返すと、やっぱり「離婚しよう」という流れなんじゃないかと胃がキリキリしてくる。つぐみはちがうと否定していたし、葉が大切だとも言ってくれたけれど、それならいったい、あんなに緊張した面持ちで葉に何が言いたいというのか。


(もしかして……)


 台所で、もやしのひげ根取りをしつつ、葉ははっと思いついた。


(もうひとり契約夫を雇いたくなったとか?)


 契約結婚も二年目を迎えて軌道にのってきたので、そろそろ事業を拡大したいみたいな話だったらどうしよう。つぐみは雇用主としてはたいへん温情があるので、事業拡大前に従業員の意見も聞きたくなったとか? 答えはもちろんノーだが。

 最近わかってきたけれど、葉は自分が思っているよりずっと狭量だ。こと、つぐみに関しては驚くほどの心の狭さを発揮する。それに嫉妬深い。自分が恋愛方面でこんなに面倒くさいやつになるなんて思わなかった。


(いや……さすがに……契約夫ふたりめとかはないと思うんだけど)


 つぐみはいつも一生懸命、葉自身に向き合おうとしてくれている。それは二人目を雇いたいとか、離婚の準備をしているとかが理由ではないはずだ。


(だって、あの子は俺の両親にまで会いに来てくれた……)


 両親の墓参りをしたあの日、つぐみは葉のすきなものやすきなことの話をもっと聞かせてほしいと言ってくれた。うれしかった。昔よく作った肉無しカレーの話をしていると、つぐみはほんとうにしあわせそうに目を細めた。ほっと身体のこわばりが解け、苦しい気持ちが引いていく代わりにいとしさがあふれた。

 そのとき、葉がつぐみにしたくなったのはつぐみの話だった。

 ずっとだいすきで、今はもっとすきになった女の子の話だ。

 つぐみはいやがらないだろうか。葉がつぐみのことがこんなに、こんなにすきでも。やさしい子だし、いやがったりはしないかもしれないけれど、契約はもうおしまいにしたいです、君がただすきだからって言っても、君はうんいいよってうなずいてくれる?


「いや、俺の話じゃなくて、まずはつぐみさんの話だった……」

 

 ぐるぐると悩んでいるうちに、きづけば、めのまえにはひとりぶんの夕食にはありえない量のおかずが生み出されていた。ひえ、と我に返って、菜箸を置く。つくりおきをするにしたって、一週間分はありそうだ。


「これ、どうしよ……」


 つぶやき、葉はため息とともに座り込んだ。



「――うん、それ絶対離婚だって。ひひっ」


 年季が入った革張りのソファに行儀悪くあぐらをかいた羽風はかぜは、レンジで温め直したからあげを口のなかに放り込んだ。

 駄菓子研究部の部室は今日もソファやラグのうえで部員が好き勝手に雑誌を読んだり、寝たり、ギターを弾いたり、音声が壊れているせいで無声になった映画の鑑賞会をいきなりはじめたりしている。

 羽風に無理やりモデルをさせられて以来、葉はときどき暇なときにぷらっとこの場所に足を運んでいた。部員でもなければ、所属の大学生ですらない葉を、「あ、嫉妬さんだー」とメンバーはゆるいかんじで受け入れている。嫉妬さんのあだ名は不本意だけど、家以外に入り浸れる場所があるのはありがたい。


 葉の話を聞く羽風はあからさまにからかう口調だ。早くも相談相手をまちがえた気がしつつ、葉は反論を試みた。


「でも、捨てる話じゃないってつぐみさんも言ってたし」

「甘い。甘いなー」


 葉は一度お酒でやらかしてから、アルコール類は入れないようにしているけれど、羽風はすでに缶ビールを何缶もあけている。テーブルには葉がつくった、からあげ、ゆで鶏のバンバンジー、もやしと厚揚げのナムル、かぼちゃサラダ、かぶのそぼろ煮、セロリの漬物などなど。処理しきれないぶんをタッパーに詰めて、ここまで持ってきたのだ。


「ツグミに絵本の装画を頼んだ作家、まだ若いけど、ベストセラー作家だぜ。しかもほら、美形。あれ絶対ツグミに惚れてるなー」

「ひっ」

「あとこのあいだ、授賞式でツグミに作品依頼してたやつ、年収数億とかのIT企業の社長だから。あれも絶対、ツグミに惚れてるなー」

「ひえ」

「もう今のツグミ、もてもて。金でも地位でも男を選びたい放題。わーどうすんの、葉? 捨てられちゃうかもー」

「ひぃいいいい……」


 ソファの端で頭を抱えていると、「君はどうしてそう葉くんで遊ぶんだよ」と副部長さんがぶつくさと羽風に言った。「だっておもしろいじゃん」「本気にしちゃうから……」囁き合うふたりの声を右から左に聞き流して、葉はわるい想像に引きずられないようにぎゅっと目を瞑る。


「葉ってでも、おもしろいよな」


 新しいビールのプルタブをあけつつ、羽風が言った。パッションピンクの髪は最近美容院に行けていないのか、まだらになって、よくスーパーで売っている三角錐型のいちごチョコレートみたいになっている。


「結婚してるくせに、なんか自信なくて、ずっと片想いしてるみてえ」


 それはまあ、ほんとうにそのとおりなので、羽風の目が正しいと言うほかない。


「葉とツグミって、どっちからつきあおうって言ったわけ? プロポーズは?」

「んー、どっちもつぐみさんかな……?」


 実際はつぐみと恋人だった期間はないのだが、とりあえず契約を持ち出したのはつぐみなので、今の関係の発端はつぐみからだと言えるだろう。あの日、つぐみがボストンバッグを抱えて葉の部屋のまえに現れなければ、葉のほうからコンタクトを取ることはなかったはずだ。


「ふうん。じゃあ、なんでそんなに自信がないんだろうな?」

「……つぐみさんは、もともと俺がすきでしかたなくて結婚したとかじゃないんだよ。必要に駆られてというか……今は多少好意を抱いてくれてるとは思うけど」


 多少……いや、どうだろう。かなり大事に想ってくれているのかもしれない。でも、葉の願望も多分に入っている気がして、実際のところはよくわからない。


「なら、葉から言えばいいのに」


「お、これうま」とセロリの漬物をぱりぽり食べつつ、羽風は言った。


「めちゃくちゃあいしてますって自分から言えばいいのに。――見える世界、変わるかもよ?」


 こちらに向けられた双眸に吸い込まれそうになってしまってから、我に返る。まずい。乗せられそうになっていた。羽風のことだから、どうせひとに告白して振られたときの絶望に満ちた顔が描けるとか言い出すにちがいないのだ。


「次の作品、ひとに告白して振られたときの絶望に満ちた顔が描きてーなー」


 案の定、ろくでもないことを言い出した羽風に葉が顔をしかめていると、「うわ、まじか」とスマホをいじっていた会計係さんがつぶやいた。


「葉くん、たいへんたいへん」

「え、なに?」

「これ。今見つけたんだけど、つぐみさんのことじゃない?」


 ちいさな画面に映っているのは、なにかのネット記事のようだ。

 そこには不穏な赤字の見出しとともに、


 ――悲劇の女性画家ツグミの半生


 と題されて、十三年前の誘拐事件やそれ以降の不登校、地元では有名な鹿名田家のことなどが詳細に綴られていた。

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